第二話 野宿と「森の妖精」
隠れ里を旅立ってから、半日が経過していた。
太陽は西の地平線へと傾き、空は茜色から群青色へとグラデーションを描き始めている。
リディア・クレセントと、その背中のリュックサックに収まった魔人アビス(犬)は、人里離れた獣道を進んでいた。
ザッ、ザッ、ザッ。
リディアの力強い足音が、静寂な森に響く。
彼女の足取りは軽い。
背中には自分自身の旅道具に加え、アビス(犬)という重量物、そして伝説の聖剣二本を背負っているにもかかわらず、息一つ乱していない。
さすがは、勇者の血を引く脳筋である。
「ん~っ! 空気が美味しいですね、アビスさん! やっぱり外の世界は広いです!」
リディアは、大きく伸びをしながら、リュックの中の相棒に話しかけた。
だが、相棒の機嫌はすこぶる悪かった。
(……おい、小娘。そろそろ休憩にしろ。俺様の三半規管が限界を訴えてる)
アビスは、リュックの揺れに耐えながら、不機嫌極まりない思考をリディアの脳内に送りつけた。
犬の体というのは、人間が思う以上に揺れに弱い。
特に、リディアのような「無駄にバネのある歩き方」をする人間の背中では、常に震度4の地震が起きているようなものだ。
「ええ? もうですか? まだ日は沈んでませんよ?」
(テメエの体力基準で物事を測るな。普通の人間ならとっくに野垂れ死んでる距離だぞ)
「むぅ……。アビスさんは甘えん坊ですねぇ」
リディアは「仕方ないなぁ」といった顔で苦笑すると、手頃な開けた場所を見つけて足を止めた。
道から少し外れた、小川のほとり。
野営には絶好のロケーションだ。
「分かりました! じゃあ、今日はここでキャンプにしましょう!」
リディアがリュックを下ろす。
アビスは、ようやく解放された大地の上で、「ふぅ」と人間臭い深いため息をついて(犬の鼻息で)身震いをした。
(……やれやれ。やっと地面か)
アビスは、凝り固まった四肢を伸ばした。
本来ならば、魔人である彼は、瞬間移動も飛行も可能だ。
それが、こんな徒歩の旅を強いられるとは。
すべては、あの呪いのせいだ。
その時。 リディアの腰につけたポーチから、ピロロロロ……という、間の抜けた音が響いた。
「あ! お父様からです!」
リディアは慌ててポーチから、青く光る宝石――「対の伝言石」を取り出した。
バルドルが、涙ながらに持たせた通信機だ。
リディアが魔力を通すと、石からバルドルの立体映像が、手のひらサイズで投影された。
『―――リディア! 無事か!? 怪我はないか!? お腹は空いていないか!?』
バルドルの必死な形相が、空中に浮かび上がる。
その背景には、なぜか大量のハンカチが積み上げられているのが見えた。
まだ泣いているらしい。
「大丈夫ですよ、お父様! まだ出発して半日しか経ってませんから!」
『半日も、だ! お前がいない屋敷は、火が消えたように静かで……父はもう寂しくて死にそうだ!』
「もう、大袈裟なんだから……。ちゃんとご飯も食べて、夜更かししないで寝てくださいね?」
『ううっ……なんて親孝行な娘なんだ……! ところで、その犬コロは役に立っているか? もし役立たずなら、すぐに捨てて……』
アビスは、ホログラムのバルドルに向かって、無言で牙を剥いてみせた。
(……聞こえてるぞ、クソ親父。テメエの娘が野垂れ死んでないのは、誰のおかげだと思ってやがる)
「あ、あのっ! アビスさんも元気ですよ! ねっ?」
リディアがアビスを抱き上げて、ホログラムに見せる。
アビスは「チッ」と舌打ちしつつも、とりあえず「ワン(生きてるよ)」と短く吠えてやった。
『そうか……。まあいい。リディア、暗くなる前に戸締まり……いや、結界を張るんだぞ! 変な男に声をかけられたら、すぐに聖剣で斬り捨てるんだ! いいな!』
「はいはい、分かりました~。じゃあ、また明日連絡しますね!」
ブツン。
通信が切れると、リディアは「ふぅ」と息をついた。
アビスは、呆れたようにジト目で彼女を見上げた。
(……過保護な親父だ。毎日これに付き合うのか?)
「ふふ、愛されている証拠ですよ。……さて!」
リディアは気を取り直し、腕まくりをした。
その瞳が、ハンターのそれに変わる。
「キャンプといえば、ご飯ですよね! 私、食材を探してきます!」
(……おい。嫌な予感がするんだが)
「待っていてくださいね、アビスさん! とびっきり栄養満点な『森の恵み』を獲ってきますから!」
リディアは、聖剣を片手に、森の奥へとダッシュしていった。
残されたアビスは、小川のほとりで独りごちた。
(……森の恵み、だと? ……あいつの味覚がまともだった試しがねえ)
アビスの脳裏に、これまでの旅で振る舞われた数々の「殺人料理」の記憶が蘇る。
ポイズン・フロッグのスープ。
マンドラゴラの踊り食い。
そして、正体不明のキノコの炒め物。
リディア・クレセントは、勇者の血統ゆえか、異常なまでの「悪食耐性」を持っている。
毒だろうが呪いだろうが、「栄養」として消化してしまうのだ。
だが、アビス(犬)は違う。
中身は魔人だが、肉体はただの小型犬だ。
そんなものを食わされたら、普通に腹を壊す。
(……だが、今の俺様には「切り札」がある)
アビスは、ニヤリと笑った(犬顔で)。
彼は、自分の首輪の裏側に隠しておいた、小さな「亜空間ポケット」の術式を確認した。
そこには、出発前に屋敷の厨房からこっそり拝借してきた、最高級の干し肉やチーズ、そしてワインが格納されている。
(……今夜は、久しぶりに「人間の食事」といこうじゃねえか)
◇
数十分後。
リディアが、満面の笑みで戻ってきた。
その手には、巨大な……何かが、ぶら下げられていた。
「獲れましたー! 見てください、アビスさん! 特大の『泥沼大ナマズ』です!」
ドサッ!
地面に投げ出されたのは、全長一メートルはある、ヌメヌメとした茶色の魚類だった。
体表からはドブのような異臭が漂い、ギョロリとした目は死してもなお怨嗟の光を宿している。
間違いなく、魔獣の類だ。
(……オエッ。……なんだその、生ゴミの王様みたいな魚は)
「失礼な! これは滋養強壮にいいんですよ! さあ、さっそく調理しますね!」
リディアは、手際よく(しかし豪快に)ナマズを解体し、持参した鍋にぶち込んだ。
味付けは、道端で拾った謎の野草と、岩塩のみ。
グツグツと煮立つ鍋から、紫色のアクと、鼻が曲がりそうな悪臭が立ち昇る。
「はい、できました! 『大ナマズのスタミナスープ』です! 召し上がれ!」
リディアが、木皿になみなみと注がれたドロドロの液体を、アビスの前に置く。
アビスは、後ずさった。
本能が、全力で「否」と叫んでいる。
(……食えるかァ! 毒殺する気か!)
「えー? 美味しいのに……。ほら、あーん!」
(やめろ! 近づけるな! その紫色の湯気をこっちに向けるんじゃねえ!)
アビスは、断固として拒否した。
リディアは「もう、好き嫌いはダメですよ」と不満そうに言いつつも、アビスが食べないならと、自分でそのスープを啜り始めた。
「ん~っ! 泥臭さがクセになります! パワーが湧いてきますね!」
彼女は、その地獄のスープを、一滴残らず平らげた。
恐るべき味覚と胃袋だ。
アビスは、それを見ているだけで胸焼けがした。
◇
夜が更けた。
満天の星空の下、焚き火がパチパチと音を立てて燃えている。
リディアは、満腹と旅の疲れからか、早々に毛布にくるまって熟睡していた。
「……すー……すー……」
無防備な寝顔。
その口元には、うっすらとヨダレが垂れている。
昼間の「勇者(の卵)」としての凛々しさはどこへやら、今はただの能天気な少女だ。 アビスは、その寝顔を確認すると、静かに立ち上がった。
周囲の気配を探る。
魔獣の気配はない。
リディアの呼吸は深く、起きる様子はない。
(……よし。時間だ)
アビスは、体内の奥底に意識を沈めた。
「呪い」によって閉ざされた、異空間との接続バルブ。
そこには、彼がこの数年間かけて解析し、こじ開けることに成功した、わずかな「抜け道」がある。
二十四時間に一度、三分間だけ。
リディアの「生命の危機」という条件なしに、自らの意思で解呪できる、秘密の裏技。
『……解呪ッ!』
カッ!
音もなく、黒紫色の閃光が走る。
犬の体が闇に溶け、再構成される。
視点が高くなる。
手足に力が満ちる。
漆黒のコートが風になびき、銀色の長髪が月光に輝く。
「……ふぅ。……やはり、この姿が一番落ち着くな」
魔人アビス(魔力百万分の一バージョン)は、自身の両手を見つめてニヤリと笑った。
制限時間は三分。
無駄にはできない。
アビスは、素早く首元の「亜空間ポケット」を開き、中から包みを取り出した。
最高級の熟成干し肉。
濃厚なチーズ。
そして、ボトルに入った年代物の赤ワイン。
すべて、クレセント家の食料庫から「徴収」してきた逸品だ。
アビスは、焚き火のそばに優雅に腰掛け(リディアの隣だが)、干し肉を齧った。
口の中に広がる、肉の旨味とスパイスの香り。
そして、ワインを一口。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
「……美味い。……これだよ、これ。これが『食事』ってもんだ」
あの泥臭いナマズのスープとは雲泥の差だ。
アビスは、至福の時を噛み締めた。
犬の姿では味わえない、人間(魔人)としての尊厳を取り戻す瞬間。
だが、食べているうちに、ふと、隣で寝ているリディアの寝顔が目に入った。
「……けっ。幸せそうな顔しやがって」
アビスは、干し肉を齧りながら、忌々しげに呟いた。
こいつのせいで、俺様はこんな不自由な生活を強いられている。
昼間は重り扱いされ、変な歌を聞かされ、ゲテモノ料理を見せつけられ。
その鬱憤が、ふつふつと湧き上がってきた。
「……ただ飯食って寝るだけじゃ、腹の虫が収まらねえな」
アビスの瞳に、子供じみた悪戯心が宿った。
残り時間、あと九十秒。
何か、してやりたい。
この無防備な寝顔に、魔人アビスの「恐ろしさ」を刻み込んでやりたい。
「……そうだ」
アビスは、焚き火の燃えさしから、冷えた炭の欠片を拾い上げた。
天然のチョークだ。
彼は、音を立てないように慎重に、リディアの顔へと近づいた。
「……テメエのそのマヌケ面を、もっとマヌケにしてやるよ」
アビスは、ニヤニヤしながら、リディアの額にチョークを走らせた。
サラサラと、達筆な文字で。
『肉』
さらに、両頬には、猫のようなヒゲを三本ずつ。
そして、仕上げに、まぶたの上に「目」の落書きを書き足した。
「……ブフォッ!」
アビスは、自分で描いておきながら、吹き出しそうになった。
完成したリディアの顔は、あまりにも芸術的(コメディ的)だった。
額に「肉」。
猫ヒゲ。
そして、目を閉じているのに目が開いているように見える、偽の目。
伝説の勇者の末裔にあるまじき、間抜けな面構えだ。
「……フハハハ! ざまあみろ! 明日の朝、川面に映る自分の顔を見て、絶望するがいい!」
アビスは、心底スッキリした。
これぞ魔人の復讐。
陰湿で、矮小で、しかし最高にクリエイティブな嫌がらせだ。
パリンッ。
体内で、楔が砕ける音がした。
時間切れだ。
「……おっと。宴もここまでか」
アビスは、食料の残りを亜空間にしまい込み、炭を投げ捨てた。
―――プンッ。
視界が低くなる。
黒い毛玉に戻ったアビスは、満足げに尻尾を振って、クッションの上で丸くなった。
心地よい満腹感と、復讐の達成感。
今夜は、いい夢が見られそうだ。
◇
翌朝。
小鳥のさえずりと共に、リディアが目を覚ました。
「んん~っ……。よく寝ました!」
リディアは、勢いよく上半身を起こした。
アビスは、薄目を開けてその様子を観察する。
さあ、気づくか?
自分の顔の異変に。
そして、驚愕と羞恥に顔を染めるがいい。
「さて、顔を洗ってきましょうか!」
リディアは、何も気づかずに立ち上がり、小川の方へと歩いていった。
アビスは、ワクワクしながらその後をついていく。
リディアが、小川のほとりにしゃがみ込む。
澄んだ水面に、彼女の顔が映り込む。
額の「肉」。
猫ヒゲ。
偽の目。
「…………えっ?」
リディアの動きが止まった。
彼女は、水面を凝視し、自分の頬をペタペタと触った。
そして、恐る恐る振り返り、アビスを見た。
(……フハハハハ! どうだ、驚いたか? 怒るか? 泣くか? 犯人が誰かも分からず、恐怖に震えるがいい!)
アビスは、内心で高笑いをした。
だが。
リディアの反応は、アビスの予想(魔人の常識)を、遥かに超えていた。
「……す、すごいです……!」
リディアの顔が、パァァァッと輝いた。
頬を紅潮させ、目をキラキラさせている。
「アビスさん! 見てください! こ、これはきっと……『森の妖精さん』の仕業ですよ!」
(…………は?)
アビスの思考が停止した。
妖精?
何を言っているんだ、こいつは。
「私、本で読んだことがあります! 森の妖精は、気に入った旅人に、夜の間に『祝福の印』を授けるって! ……見てください、この『肉』という文字!」
リディアは、額の「肉」を誇らしげに指差した。
「これはきっと、『旅の途中で、美味しいお肉がたくさん食べられますように』という、妖精さんの温かいメッセージに違いありません! そしてこのヒゲは、動物たちと仲良くなれるおまじないかも!」
(……待て。待て待て待て)
アビスは、脳内でツッコミの嵐を巻き起こした。
ポジティブすぎるだろ。
どう見ても落書きだ。
しかも「肉」だぞ?
漢字だぞ?
妖精が漢字を書くか?
だが、リディアの暴走は止まらない。
「なんて素敵なんでしょう……! 私、森に歓迎されているんですね! 勇者として認められた証拠かもしれません!」
彼女は、落書きされた顔のまま、両手を広げて森に向かって叫んだ。
「妖精さーん! ありがとうございますー! この『祝福』、大切にしますねー!」
大切にするな。
洗え。
今すぐ洗え。
アビスは、ガクリと膝をついた(犬座り)。
敗北だ。
完敗だ。
彼の渾身の嫌がらせは、この脳筋娘の圧倒的な「天然」の前に、ただの「ハッピーなイベント」へと変換されてしまったのだ。
(……もう、いい。勝手にしろ)
アビスは、死んだ魚のような目で、空を見上げた。
リディアは、ニコニコしながら戻ってきた。
額には、まだ「肉」と書かれたままだ。
「さあ、アビスさん! 妖精さんの応援ももらいましたし、今日も元気に進みましょう!」
彼女は、落書き顔のまま、アビスを抱き上げ、リュックに入れた。
アビスは、リュックの底で、深く、深くため息をついた。
(……先が思いやられるぜ)
魔人と勇者の旅は、まだ始まったばかり。
そして、アビスの苦労もまた、始まったばかりだった。




