第一話 三度目の旅立ち
その朝、クレセント家の隠れ里は、いつにも増して平和で、そして残酷なほどに穏やかだった。
小鳥がさえずり、柔らかな木漏れ日が中庭の芝生を照らす。
洗濯物が風にはためく、絵に描いたような牧歌的な風景。
だが、その芝生の上で繰り広げられている光景は、平和とは程遠い「生存競争」の様相を呈していた。
「―――さあ、アビスさん! あと一〇〇回です! 気合を入れて!」
元気溌剌な少女の声が響く。
リディア・クレセント。
燃えるような赤い髪をポニーテールに結い上げ、動きやすい稽古着に身を包んだ彼女は、今、中庭で日課のスクワットに励んでいた。
だが、ただのスクワットではない。
彼女の背中には、巨大な岩石が積まれた籠が背負われている。
そして、その岩石の頂上、一番高い場所には、一匹の黒いポメラニアン似の子犬が、死んだ魚のような目(犬だが)をして鎮座していた。
(……おい。殺すぞ)
リディアの脳内に、ドスの利いた低い声(思考)が直接響き渡った。
声の主は、彼女の背中の上にいる黒い犬――魔人アビスだ。
(いつまでやってんだ、この脳筋女。俺様はテメエの筋肉を育てるために復活したんじゃねえぞ)
アビスは、揺れる視界の中で、虚空を見つめながら毒づいた。
先日の激闘――聖都エリュシオンでの決戦から、数週間が経過していた。
「浄化者」による里への襲撃は退けられ、世界を覆っていた不穏な空気は一時的に鳴りを潜めている。
リディアは、あの日、聖都の広場で「大暴れして敵を撃退した」英雄として、里の皆から称賛されていた。
そして、アビスは……。
「九十九! ……百っ! はい、終わりです!」
ズドン!
リディアが勢いよくしゃがみ込み、背負っていた籠を地面に下ろした。
その衝撃で、岩山の上にいたアビスは「ぴぎゃっ!」と短い悲鳴を上げて転がり落ち、芝生の上に顔面から着地した。
「ああっ! ごめんなさいアビスさん! 大丈夫ですか!?」
リディアが慌てて駆け寄り、アビスを抱き上げる。
そして、泥がついたアビスの顔を、自身のタオル(汗を吸ったもの)でゴシゴシと拭いた。
「もう、気をつけてくださいね。アビスさんは私の『相棒』兼『司令塔』なんですから!」
(……『相棒』兼『司令塔』だと……?)
アビスは、リディアの腕の中でプルプルと怒りに震えた。
かつて大陸全土を恐怖で支配し、指先一つで山を消し飛ばしたこの俺様が。
今は、脳筋娘の筋トレグッズ扱いか。
しかも、今の扱いはどう見ても司令塔ではなく「重り(飾り)」だ。
(ふざけんな! 降ろせこの馬鹿力女! テメエの汗臭いタオルで俺様の高貴な顔を拭くんじゃねえ!)
アビスは脳内で怒号を飛ばした。
だが、リディアは全く意に介さない。
彼女の「ポジティブ変換フィルタ」は、アビスの罵倒を都合よく翻訳する機能がついているらしい。
「ふふっ。アビスさんも『もっとやれ!』って言ってるんですね? でもダメですよ、休憩も大事ですから! ご褒美に、後で高級なジャーキーをあげますね!」
(……話を聞けよ)
アビスは、抵抗する気力を失い、ダラリと脱力した。
この数週間。
彼は、この平和すぎる隠れ里で、文字通り「飼い殺し」にされていた。
リディアの父、バルドルは、娘の無事な帰還を泣いて喜び、それ以来、彼女を里から一歩も出そうとしない。
「世界はまだ危険だ」「お前はもう十分に戦った」と言って、過保護の極みを発揮しているのだ。
結果、リディアの有り余る体力と正義感は、行き場を失い、すべて「トレーニング」と「アビスへのスキンシップ」に向けられていた。
(……限界だ)
アビスは、心の中で呟いた。
このままでは、俺様は本当にただの愛玩犬になってしまう。
血の滲むような努力で手に入れた「三分解呪」の力。
二十四時間に一度、三分間だけ魔人の姿に戻れるという、希望の光。
だが、この里にいる限り、それを使う機会すらない。
夜中にこっそり変身して、バルドルの書斎の本を読み漁るのが関の山だ。
アビスは、昨夜の調査を思い出した。
クレセント家の書庫には、初代勇者が残したとされる膨大な古文書が眠っている。
アビスは、犬のフリをして昼寝をする傍ら、夜な夜な変身してそれらを解読し続けてきた。
目的は一つ。
「呪いの完全解明」と、自身の「起源」に関する情報の収集だ。
―――アビスと勇者は、古代文明によって作られた「生体兵器」である。
聖都の地下で知った、あの一端。
それを裏付ける記述は、確かにあった。
だが、肝心な部分が欠けている。
「誰が」作ったのか。
「何のために」作ったのか。
そして何より、「どうすれば、この呪いと破壊衝動から完全に解放されるのか」。
その核心に至るページは、意図的に隠されたかのように、空白になっていたのだ。
(……ここに答えはねえ)
アビスは確信していた。
この里に留まっていては、一生、謎は解けない。
そして、一生、ペットとして、高級ジャーキーを齧りながら生きていくことになる。
(……出るぞ。外へ)
アビスの黒い瞳(犬の目)に、冷徹な光が宿った。
リディアの腕から飛び降り、スタッと地面に着地する。
もう、我慢の限界だ。
外の世界へ出て、失われた古代文明の遺跡を巡り、真実を掴み取る。
そのためには、この「飼い主」を動かさなければならない。
「あれ? どうしたんですか、アビスさん?」
リディアが不思議そうに首を傾げる。
アビスは、尻尾を振りながら、中庭の隅にある「古びた石碑」へと歩み寄った。
それは、初代勇者が里を開いた時に建てたとされる、ただの記念碑だ。
だが、アビスは知っている。
その裏面に、微かに刻まれた「古代魔法文字」があることを。
昨夜の調査で、アビスはその文字を解読していた。
そこには、こう記されていたのだ。
『―――知恵を求める者よ。西の果て、魔導の塔を目指せ。そこに我が友の遺産あり』
西の果て。
魔導の塔。
それは、アビスの記憶にある「古代魔法文明」の中枢があった場所と一致する。
そこに行けば、何かがあるはずだ。
「ワン!(おい、脳筋。こっちに来てこれを見ろ)」
アビスは、石碑の前で短く吠え、リディアに思考を飛ばした。
「え? そこに何かあるんですか?」
リディアが近づいてくる。
彼女は、アビスが前足でカリカリと引っ掻いている場所を覗き込んだ。
「……文字? すごく古い文字ですね……。なんて書いてあるんでしょう?」
当然だ。現代人には解読不能な古代語だ。
アビスは、ここからが腕の見せ所だと、もったいぶった口調で脳内に語りかけた。
(フン。無知なテメエには読めねえだろうな。これは古代語だ)
「えっ!? アビスさん、読めるんですか?」
(当たり前だ。俺様を誰だと思ってる。……ここには、こう書いてある)
アビスは、少しだけ「意訳(嘘)」を混ぜることにした。
正直に「俺様の呪いを解く方法があるかもしれないから連れて行け」と言っても、このお人好しは「お父様が心配するから」と渋るかもしれない。
この脳筋を動かすには、もっと単純で、彼女の琴線に触れる「餌」が必要だ。
(……えーと、なになに……。『真の勇者を志す者よ。西の果て、魔導の塔を目指せ。そこには、更なる高みへと至るための、古代の試練と秘宝が眠っている』……だとさ)
「……えっ?」
リディアの若草色の目が、カッと見開かれた。
「し、試練!? 更なる高み!? それってつまり……!」
(ああ。要するに、テメエのご先祖様が遺した「パワーアップイベント」の案内板だ)
アビスは、ニヤリと笑った(犬顔で)。
これだ。
この単細胞には、こういうのが一番効く。
「す、すごいです……!」
リディアが、胸の前で手を組んだ。
その顔は、晴れやかに輝いている。
「やっぱり、初代勇者様は私のことを見ていてくださったんですね! 『このまま平和ボケしていてはいけない。もっと強くなって、世界を守れるようになれ!』って!」
(……ま、そういうことだ。どうする? 行くか?)
「行きます! 絶対に行きます!」
リディアは、食い気味に即答した。
「確かに、あの『浄化者』の人たちは退けましたけど、まだ世界には脅威が残っているかもしれません。私がもっと強くならなきゃ、アビスさんや、里のみんなを守りきれないかもしれませんものね!」
チョロい。
あまりにもチョロすぎる。
だが、これこそがアビスの狙い通りだ。
動機が「武者修行」だろうが「観光」だろうが、リディアが里を出る決意をしてくれれば、それでいい。
「ワン!(賢明な判断だ。さっさと準備しろ!)」
アビスは、肯定の意味を込めて吠えた。
「よし! 決まりました! お父様に報告してきます!」
リディアは、アビスを抱き上げると、屋敷の中へとダッシュした。
その背中には、五年前の旅立ちの時と同じ、無鉄砲な冒険心が燃え上がっていた。
◇
屋敷の奥、当主の間。
バルドル・クレセントは、娘の突然の申し出を聞き、ティーカップを取り落とした。
ガシャーン!
陶器の割れる音が響く。
「な、なんだと……!? 旅に出るだと!?」
バルドルは、顔面蒼白になって立ち上がった。
「だ、ダメだ! 許さんぞ! お前は、ついこないだ帰ってきたばかりではないか! しかも、あの恐ろしい『浄化者』たちとの戦いを経て……。父は、もう心配で心臓が持たん!」
バルドルは、涙ながらに訴えた。
無理もない。
彼はこの数週間、娘が無事に帰ってきたことに安堵し、毎晩神に感謝の祈りを捧げていたのだ。
それが、また「危険な旅に出る」などと言い出したのだから、卒倒しそうな心境だろう。
「お父様。分かってください」
リディアは、真っ直ぐに父の目を見つめた。
「私は、今回の戦いで痛感しました。……私は、まだ未熟です」
彼女は、背負っていた「黒い聖剣」に手を添えた。
「アビスさんの力を借りなければ、私はあの機械天使に勝てなかった。……もし、またあんな敵が現れた時、私一人の力でみんなを守れる自信がありません」
リディアの言葉に、嘘はなかった。
彼女は、自身の無力さを知っている。
だからこそ、強くなりたい。
誰にも頼らず、大切なものを守れる「本物の勇者」になりたいのだ。
「それに……アビスさんも、行きたいって言ってるんです」
リディアは、足元のアビス(犬)を示した。
アビスは、空気を読んで「クゥ~ン」と、あざとく鳴いてみせた。
バルドルにはアビスの声(思考)は届かない。
だからこそ、アビスは「健気な愛犬」の演技に徹した。
(……ほらよ、親父。娘の可愛いペットが「行きたい」って言ってるんだぜ? 断れねえよな?)
バルドルは、娘の瞳を見た。
そして、足元の黒い犬を見た。
その犬の中身が、かつて世界を滅ぼしかけた魔人であることは、彼も知っている。
だが、その魔人が、今や娘の良き(?)相棒として、共に戦場を駆け抜けてきたことも、認めざるを得ない事実だった。
「……はぁ」
長い沈黙の後、バルドルは深いため息をついた。
彼は、がっくりと肩を落とし、椅子に座り込んだ。
「……リディアよ。お前は、本当に……あの人の血を引いているのだな」
あの人。
初代勇者。
かつて、止める周囲を振り切って、世界を救う旅に出た伝説の英雄。
その血が、娘の中で騒いでいるのを、バルドルは感じ取っていた。
「……分かった。認めよう」
「お父様!」
「ただし!」
バルドルは、人差し指を突きつけた。
「危険なことはしないこと! そして……必ず、生きて帰ってくること! ……約束できるか?」
「はい! 約束します!」
リディアは、満面の笑みで頷いた。
「それとな、これも持っていきなさい」
バルドルは、懐から一対の青い魔石を取り出し、片方をリディアに渡した。
「これは『対の伝言石』だ。魔力を通せば、離れた場所にいても声が届く。……いいか、リディア。毎日必ず、これで連絡を寄越すこと! 安否確認だ! 一日でも忘れたら、父さんが全速力で迎えに行くからな!」
「ええ~……。毎日ですか? 子供じゃないんですから……」
「ダメだ! これは譲れん!」
バルドルは、涙を拭いながら、アビス(犬)の方を向いた。
「……おい、犬コロ。いや、アビスよ」
その声は、いつになく真剣だった。
「娘を頼んだぞ。……お前が魔人だろうが何だろうが構わん。リディアを守ってくれるなら、ワシはお前に感謝する。……頼む」
深々と頭を下げるバルドル。
勇者の末裔の隠れ里の長が、かつての宿敵に頭を下げているのだ。
アビスは、少しだけ鼻白んだ。
(……ケッ。重てえな)
だが、悪い気はしなかった。
少なくとも、この男は、自分の娘を心から愛している。 その「想い」だけは、本物だ。
(……フン。言われなくても、こいつは俺様の「鍵」だ。壊されないように守ってやるよ)
アビスは、バルドルには聞こえない声でそう呟き、短く「ワン!」と吠えて応えた。
◇
翌朝。
里の入り口には、旅装束に身を包んだリディアと、リュックサックに入ったアビスの姿があった。
村人たちが総出で見送りに来ている。
「リディアちゃん、気をつけてね!」
「お土産待ってるよー!」
「アビス様(犬)も、達者でな!」
温かい声援。
リディアは、大きく手を振った。
「行ってきまーす! みんな、元気でね!」
バルドルは、涙でぐしゃぐしゃになった顔をハンカチで覆いながら、手を振っていた。
里の門をくぐり、街道へと出る。
振り返れば、霧に包まれた里が、徐々に遠ざかっていく。
平和な日常。
退屈だが、温かい場所。
それを背にして、二人は再び、未知なる荒野へと足を踏み出した。
「さあ、アビスさん! 西へ向かいますよ! 『魔導の塔』でしたっけ?」
リディアが、地図(アビスが昨夜修正したもの)を広げる。
(ああ。そこが最初の目的地だ)
アビスは、リュックの隙間から、遥か西の空を見つめた。
そこには、古代文明の遺産が眠っている。
そして、その先には、まだ見ぬ「科学国家」の遺跡や、アビス自身のルーツに関わる真実が待っているはずだ。
(……行くぞ、リディア。ここからは、俺様のターンだ)
アビスの瞳が、野心に燃える。
ただのペット生活はもう終わりだ。
ここからは、「魔人の復権」をかけた、新たなる戦いの始まりだ。
「よし! 出発進行!」
リディアの声が、青空に響き渡る。
一人と一匹。
勇者と魔人。
最強で最悪の凸凹コンビの、第三の旅路が、今ここに幕を開けた。




