第十一話 意思の在処
プシュウゥゥゥ……。
背後で重厚な扉が閉ざされ、あの陰鬱な「記憶の回廊」の闇が遮断された。
だが、リディア・クレセントの足取りは、鉛のように重かった。
彼女は、袖でゴシゴシと目元を拭いながら、薄暗い通路をただ前へと進んでいた。
「……かわいそうです」
しばらくの沈黙の後、リディアがポツリと呟いた。
その声は鼻声で、まだ微かに震えている。
「あんな実験……。痛かったに決まってます。……誰にも助けてもらえずに、ずっと……」
彼女の腕の中で、アビス(犬)は小さく身を縮めた。
リディアの涙は、先ほどの映像の中で培養槽に閉じ込められていた青年――つまり、千年前のアビス自身に向けられたものだ。
だが、今の彼には、その優しさが棘のように心に刺さった。
(……ケッ。同情なんていらねえよ)
アビスは、リディアの腕に抱かれながら、心の中で毒づいた。
あの映像の青年は、確かに被害者だったかもしれない。
だが、その成れの果てである今の俺様は、かつて世界のほとんどを焼き尽くした加害者だ。
お前が涙を流していい相手じゃない。
アビスは、映像によって呼び覚まされた古傷の痛みと、リディアの体温の心地よさとの間で、身を引き裂かれるような自己嫌悪に苛まれていた。
◇
長い通路を抜けた先には、それまでとは異なる空気が漂っていた。
ひんやりとした冷気と、張り詰めた静謐さ。
二人が足を踏み入れたのは、「設計書の間」と呼ばれる区画だった。
そこは、先ほどの観測室よりもさらに広く、そして異質な空間だった。
ドーム状の高い天井。
壁一面に埋め込まれた、青白く発光する無数の石板。
そして部屋の中央には、ホログラムのように輝くクリスタル製のプレートが、空中に整然と列をなして浮遊している。
まるで、巨大な図書館のようであり、同時に墓場のようでもあった。
「うわぁ……。キラキラして綺麗ですけど、なんだか寒気がしますね」
リディアが、身震いをした。
彼女の野生の勘は正しい。
ここは、魔導王国の狂気そのものが保存されている「仕様書庫」だ。 浮遊するプレートの一つ一つには、緻密な図面と、膨大な数値、そして複雑怪奇な魔法術式が刻まれている。
それらは全て、「生体兵器」を造り出すための実験データだった。
(……チッ。ここは俺様の「設計仕様書」の保管庫ってわけか)
アビスは、不快感を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
見覚えのある図面がある。
筋肉の繊維を魔力伝導体に置き換えるための術式。
骨格をオリハルコン並みの硬度に強化するための錬金術式。
どれもこれも、人道など欠片もない、悪魔の所業の記録だ。
「見てください、アビスさん! 変な絵がありますよ!」
リディアが、一枚の巨大な石板の前で足を止めた。
そこに描かれているのは、人間の脳の解剖図だった。
ただし、普通の脳ではない。
脳の至る所に「制御杭」と呼ばれる魔導針が打ち込まれ、思考回路が人工的に改変されている様子を示した図面だ。
「頭にこんなに針が刺さってるなんて……。この人、偏頭痛がひどかったんでしょうか?」
リディアは、真剣な顔で首を傾げた。
「きっと、鍼灸治療の図ですね! 古代の人も肩こりに悩んでいたなんて、親近感が湧きます!」
(……違う。それは「感情去勢」の手術図だ)
アビスは心の中で訂正したが、口には出さなかった。
リディアの「平和な誤解」が、今の彼には唯一の救いだったかもしれない。
もし彼女が、この図面の本当の意味――「自我を殺し、命令に従う操り人形にするための施術」だと知ったら、また泣き出してしまうだろう。
そして、その「操り人形」こそが、今自分が抱いている愛犬だと知ったら……。
(……やめろ。考えるな)
アビスは思考を遮断しようとした。
だが、運命はそれを許さない。
部屋の最奥。
一段高くなった台座の上に、ひときわ異彩を放つ、漆黒の石碑が鎮座していた。
他の記録媒体とは違う。
それは、王の玉座のように荘厳で、同時に死刑台のように不吉な存在感を放っていた。
「あれは……何でしょう? すごく立派な石ですね」
リディアが吸い寄せられるように近づいていく。
アビスの心臓が、ドクリと跳ねた。
本能が警鐘を鳴らす。
見るな。
あれを見てはいけない。
あれには、俺様が最も知りたくない「真実」が書かれている。
(……戻れ、リディア! そっちは行き止まりだ!)
アビスは必死に念話を送った。
だが、リディアの足は止まらない。
「何か書いてありますよ。……アビスさん、これも古代語ですよね?」
リディアは、モノリスの前に立ち、表面に刻まれた金色の文字を見上げた。
アビスは、目を逸らしたかった。
だが、魔人の優れた視力は、嫌でもその文字を認識してしまう。
解読など必要ない。
それは、彼自身の「仕様書」なのだから。
『―――機密等級:特S級。個体名:アビス』
冒頭の一行だけで、アビスの全身の血が凍りついた。
これは、あの大食い大会の「カレーのレシピ」のようなふざけた代物ではない。
本物だ。
『製造目的:戦略級殲滅兵器。及び、対「科学帝国」最終攻撃手段』
『基本性能:亜空間接続された無限魔力炉心による永続戦闘能力。環境適応型自己再生機能』
そこまではいい。
既知の事実だ。
俺様が最強であることの証明に過ぎない。
だが、その下に続く記述が、アビスの魂を抉った。
『思考ルーチン制御に関する特記事項』
『本個体には、製造段階において「破壊衝動」を最優先事項とする「コード:カタストロフィ」を魂の基底領域に書き込んでいる』
(……書き込んだ……だと?)
アビスの思考が停止する。
書き込んだ?
俺様の、あの破壊への渇望が?
世界を壊したいという、あの煮えたぎるような激情が?
誰かに「書かれた」ものだと?
『被検体は、自身の破壊活動を「自らの意志」であると誤認するよう調整済みである』
『彼が抱く「憎悪」「憤怒」「傲慢」といった感情は、全て破壊行動を効率化するために後付けされた「疑似人格」に過ぎない』
『結論:個体アビスに「自由意志」は存在しない。彼は、我々が敷いた道の上を、自らの意思で走っていると信じ込んで走る、ただの機械である』
「…………ッ!!!」
アビスは、声にならない絶叫を上げた。
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ!
俺様は、魔人アビスだ!
世界を憎み、支配者を嘲笑い、己の欲望のままに全てを無に帰した、絶対の覇者だ!
あの怒りは、俺様のものだ。
あの虚無感も、あの孤独も、全て俺様自身が感じ、選び取ったものだ!
それが……プログラム?
疑似人格?
俺様の「心」さえも、古代の魔導士たちが書いた「設定」に過ぎないとでも言うのか!?
「……アビスさん?」
リディアが、アビスの異変に気づいて覗き込んできた。
アビスの体が、小刻みに震えている。
それは恐怖ではない。
自己の存在を根底から否定されたことへの、激しい拒絶反応だった。
「どうしたんですか? ……もしかして、ここに怖いことが書いてあるんですか?」
リディアの純粋な瞳が、アビスを射抜く。
彼女は何も知らない。
目の前の犬が、「ただの機械」であることを。
そして、今アビスが味わっている、魂が引き裂かれるような絶望を。
(……読むな)
アビスは、掠れた思考で念じた。
(……頼むから、お前だけは、それを読むな)
もしリディアに真実を知られたら。
「アビスさんは、自分の意思だと思ってたけど、実は操られていただけなんですね」と同情されたら。
俺様のプライドは、粉々に砕け散って、二度と戻らないだろう。
「……なんて書いてあるんでしょう。えっと、ここは……」
リディアが、文字を指でなぞる。
読めるはずがない。
彼女に古代語の知識はない。
だが、今のリディアは、数々の遺跡を突破し、古代の遺物に触れ続けてきた。
勇者の血統が、無意識に「意味」を感じ取ってしまう可能性はゼロではない。
「アビスさん、教えてください。これ、なんて書いてあるんですか?」
リディアが尋ねた。
アビスは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、深淵のような闇色を帯びていた。
真実を話すか?
「俺様はただのプログラムで、心なんて最初からなかったんだ」と。
……言えるわけがない。
たとえそれが真実だとしても、俺様は認めない。
認めてしまえば、俺様は本当に「道具」に成り下がってしまう。
(……ふん。大したことは書いてねえよ)
アビスは、精一杯の虚勢を張って、脳内に声を響かせた。
その声は、微かに震えていたかもしれない。
(……これは……古代の「掃除用ゴーレム」の仕様書だ。『自動でゴミを判別し、部屋の隅々まで綺麗にします』……だとさ)
「え? お掃除ロボットの説明書ですか?」
リディアがキョトンとする。
(ああ、そうだ。大層な石碑に書いちゃいるが、中身はただの道具マニュアルだ。……くだらねえ。行くぞ)
アビスは、リディアの視線をモノリスから逸らすために、わざとらしく欠伸をして見せた。
リディアは、しばらくモノリスとアビスを交互に見つめていた。
その目は、何かを探るような、深い色をしていた。
アビスの嘘に気づいたか?
それとも、アビスの震えの意味を察したか?
「……そうですか。お掃除ロボットなんですね」
やがて、リディアはふわりと笑った。
それは、どこか悲しげで、しかし優しい笑顔だった。
「でも、この石碑……なんだか泣いているみたいです」
リディアは、そっとモノリスの表面に手を触れた。
「『誰かの役に立ちたかった』って、そう言っている気がします」
ビクンッ。
アビスの心が跳ねた。
泣いている?
この無機質な石の塊が?
いや、それはリディアが感じ取った、アビス自身の「叫び」かもしれない。
その時だった。
リディアがモノリスに触れた瞬間、部屋全体が赤く明滅し始めた。
ウィィィィン……!
不穏な警報音が鳴り響く。
『―――警告。非正規のアクセスを検知。機密保持プロトコル始動』
無機質なシステム音声が降ってくる。
『機密等級・特S級情報の漏洩を阻止するため、侵入者を排除します』
ガシャーン!
壁に埋め込まれていたハッチが一斉に開放された。
中から飛び出してきたのは、無数の銀色の球体。
それは空中で展開し、鋭利な刃と銃口を持つ、自律攻撃ユニットへと変形した。
その数、およそ五十機。
「わっ! お掃除ロボットさんたちが怒ってます!?」
リディアが慌てて身構える。
(……違う! それは警備ドローンだ! 迎撃しろ!)
アビスが叫ぶのと同時に、ドローンたちが一斉射撃を開始した。
ビビビビビビビッ!
魔力弾の雨が降り注ぐ。
「きゃあっ! お掃除にしては激しすぎます!」
リディアはリュックを前抱えにしてアビスを庇いながら、背中の「黒い聖剣」を引き抜いた。
彼女の動きに迷いはない。
飛来する魔力弾を、聖剣の刀身で弾き飛ばす。
キンッ! キンッ! ガギィンッ!
「もう! お客様に対して失礼ですよ!」
リディアが踏み込む。
目にも止まらぬ速さでドローンに肉薄し、聖剣を一閃。
ズバンッ!
一刀両断されたドローンが、火花を散らして爆散する。
だが、敵の数は多い。
しかも、このドローンたちは連携している。
リディアが一体を破壊している間に、別の三体が死角から回り込み、レーザーブレードを展開して襲いかかってくる。
(……チッ、連携が取れてやがる。こいつらも古代の遺産か)
アビスは、リュックの隙間から戦況を分析した。
リディアの剣技は圧倒的だが、守るべき荷物を抱えているため、どうしても動きが制限される。
このままでは、いずれ被弾する。
(……手伝うか? ……いや、でも…)
アビスの中に、先ほどのモノリスに刻まれた言葉が蘇る。
『破壊衝動はプログラム』。
『自由意志は存在しない』。
もしそうなら、今、俺様がリディアを助けようとしているこの感情も、プログラムなのか?
「契約者を守れ」という、勇者システムのサブルーチンに過ぎないのか?
自分が自分でないような、足元が崩れ落ちるような感覚。
アビスは動けなかった。
ただのプログラムが、何をしようと言うのだ。
「―――アビスさん!」
リディアの声が、アビスの意識を引き戻した。
見れば、リディアが複数のドローンに囲まれていた。
彼女はアビスを庇うために、自分の背中を敵に晒している。
「くっ……!」
ドローンの刃が、リディアの肩口を浅く切り裂いた。
鮮血が飛ぶ。 赤い血。 アビスの目に、その色が焼き付いた。
(……!)
プログラム?
疑似人格?
知ったことか!
今、目の前で、こいつが傷ついた。
それを見て、俺様の腹の底から湧き上がってくるこの「不快感」は、誰に命令されたものでもない。
俺様のものだ!
(……散れ、羽虫ども!)
アビスの目が、怪しく真紅に輝いた。
彼はリュックの中から、悟られない程度の極小の魔力を放出した。
狙うのは、ドローンたちの制御中枢ではない。 もっと単純な、「空間」そのものだ。(……「位置交換」!)
アビスが念じた瞬間。
リディアの背後に迫っていた三機のドローンの座標が、一瞬にして書き換えられた。
彼らは、リディアの背中ではなく、お互いのドローン同士が激突する位置へと転送されたのだ。
ガシャァァァァンッ!
三機が空中で正面衝突し、派手に自爆した。
「えっ!? ……仲間割れですか?」
リディアが驚いて振り返る。
その隙に、アビスはさらに魔力を操る。
床に落ちていた瓦礫を、魔力で弾き飛ばし、残りのドローンのセンサーにぶつける。
視界を奪われたドローンが、明後日の方向にレーザーを撃ち、壁を破壊して自滅していく。
「すごい……! 自滅していきます! きっと、日頃の整備不足ですね!」
リディアが勝機を見出した。
「今です! 『リディア・お掃除完了スラッシュ』!」
彼女の聖剣が唸りを上げ、残ったドローンたちをまとめて薙ぎ払った。
轟音と共に、全ての攻撃ユニットが沈黙する。 静寂が戻った。
「ふぅ……。なんとかなりましたね」
リディアは、肩の傷を押さえながら、ペたりと座り込んだ。
アビスは、リュックから顔を出し、彼女の傷を見た。
浅い。
大した怪我ではない。
だが、その傷は、アビスを守るために負ったものだ。
(……馬鹿な女だ。たかがペットのために)
アビスは、心の中で悪態をついた。
だが、その心は、先ほどまでの虚無感からは解放されていた。
プログラムだろうが何だろうが、俺様は今、こいつを「助けたい」と思った。
そして、実際に助けた。
その「意思」は、書き込まれた「破壊衝動」などではない。
間違いなく俺様自身のものだ。
その事実だけで、今は十分だ。
「さあ、アビスさん。行きましょう」
リディアが立ち上がる。
「お掃除ロボットさんたちの誤作動も直りましたし、きっと奥にはもっとすごい『お宝』がありますよ!」
彼女は、あの絶望的なモノリスの内容を知らず、あくまで前向きだ。
その眩しさが、アビスには少しだけ痛く、そして頼もしかった。
(……ああ。行ってやるよ)
アビスは、背後のモノリスを振り返った。
そこに刻まれた「運命」の文字。
だが、アビスは心の中で、その石碑に唾を吐きかけた。
仕様書がどうした。
設定がどうした。
俺様は、俺様だ。
それを証明するための旅が、まだ続くだけだ。
二人は、モノリスの間を抜け、さらに奥へと続く螺旋階段へと足を踏み入れた。
階段の上からは、これまでとは違う、清浄で、どこか神聖な気配が漂ってきていた。
そこには、アビスを作った者たちが遺した「希望」――勇者に関する真実が待っているはずだ。
(……覚悟は決めたぞ。何が出ても、もう驚かねえ)
アビスは、リディアの背中で小さく吠えた。
それは、過去の遺産への宣戦布告だった。




