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Interlude

 それは、お風呂上がりのことだった。

「シグの、ばかっ!」

 突然廊下から飛び込んできた、物静かだと思っていた少女の罵りの声に、レインは自分の耳を疑った。脱衣所の出入口には垂れ布がかかった間仕切りが置いてあり、外の様子は見えないけれども、思わずそちらをうかがってしまう。

 ──な、何?

 いきなり何が起きたのかと戸惑う彼に少し遅れて、彼の前に置いてある木の長椅子に座るウェンが振り向くのを感じ、レインは我に返った。彼はウェンの長い黒髪に、水を吸い取る術のかかった布を巻き付けて、乾かすのを手伝っている最中だったのである。意識せずに引っ張ってしまったのかもしれない。

「あ、ごめ……」

「ばかって、何?」

 視線を戻したところへ直球で投げつけられた質問に、レインは答えに窮した。──なんて言えばいいんだろう。

 ウェンが聞いてきたことには、できるだけすぐに答えてきたレインだったが、教えて良いものかどうなのか悩む言葉というのは初めてだった。それに、外の様子が気になって仕方がない。

「後で、教えるから。少し、口を閉じていて」

 小さめの早口で言うと、レインは間仕切りに素早くそっと近づいた。しかし迂闊に顔を出すのはなんとなくはばかられ、耳を傾けるだけに留める。

 聞こえるのはアルの怒声とメルの罵声、それからリサの声。そして──落ちる静寂。

 ふと気づくと、彼の横にはウェンが同じような体勢で立っていた。その髪から床にぽたりと落ちる水滴に気づき、レインは慌てて手にしたままだった吸水布をウェンの髪の先端に巻き付ける。

 その動きには頓着しない様子で、ウェンは自分の閉じている口を指さした。何が言いたいのだろうとレインはしばし考え、先ほど自分が言ったことを律儀に守っているのだということに思い至り、頷く。

「いいよ、もう、開けても」

 気持ち声をひそめたレインに頷き返し、金色の目の少年は、レインの目を見つつ口を開いた。

「ばか、良くない、言葉?」

 ウェンにしては、小さめの声だった。今日ミアン先生から「他の人に言っては良くない言葉もあるのよ」と教えられた為に、気にしているのだろう。だからレインも慎重に言葉を選んだ。

「……うん。あまり、人に言っちゃいけない」

「でも、メル、言った。メル、良くない?」

「良くない……んだろうけど。なんで、言ったのかな」

「なんで?」

「何か、訳が、あったのかもしれないんだけど」

 今日の勉強の時に、レインがインク壷を倒してしまい、片づけている最中に、ウェンがインクの付いたメルの顔を「面白い」と言い出した時にも、メルは赤くなってきゅっと口を引き結んだけれど、「気をつけてね」と言うだけだった。怪我をした時にも、女の子なのに、泣き出すこともなく、痛みをこらえているようだった。レインの村にいた同じくらいの年の女の子なら、めそめそと泣き出すところだったのに。だから、メルは結構我慢強いんだと思っていたのだ。

 首をひねるレインに、ウェンは問うた。

「訳って、何?」

「訳って、ええと……理由だよ」

「理由って、何?」

「ええと……」

 レインはしばし考えてから、手にしているウェンの髪を示した。

「今、ウェンの髪、濡れてるだろ? それは、お風呂に入って、お湯に浸かったから。その、お湯に浸かったから、っていうのが、理由」

「……理由。訳」

 自分の髪を見下ろして、ウェンは重々しく二つの言葉を繰り返す。

「理由、と、訳、一緒?」

「うーん……よく似てるけど、一緒、とはちょっと違うかもしれない。……明日、ミアン先生に訊いてみよう」

 悩んだあげくのレインの提案に、ウェンはこっくりと頷く。それにほっと安堵したものの、ウェンの疑問は終わりではなかった。

「訳があった、言って、良い?」

 ──難しいこと聞くなぁ……。

 当惑しつつも、レインはウェンに納得してもらうべく、懸命に頭をひねった。

「……本当は、良くない。でも、誰かが良くないことをやったとしても、訳が分かったら、その人を許せるようになるかもしれない。あ──許す、っていうのは、ええと、ごめんって言われたら、いいよ、って言うような感じのこと」

「……訳が分かったら、その人を許せる」

 ゆっくりとレインの言葉を繰り返し、ウェンは目を伏せて黙った。分かってもらえたようなので、レインは小さく息をつき、ウェンをさっき座っていた長椅子に戻るよう、肩をそっと押して促す。

 言われるがままに腰掛けたウェンの後ろ髪を乾かしてやりながら、レインはウェンが繰り返した言葉について、ふと思った。

 ──ウェンは、どんなことをされたんだろう。

 食事も取らず、言葉も教えられずに、体だけ大きくするなど、どうやったらできるのだろう。

 ──リサに訊けば、教えてくれるのかな。

 浮かんだ考えを、しかしレインはすぐに打ち消した。

 聞いたところで、今の自分にできることなど何もない。それに、リサが何も言わないということは、多分、教えたくないことなのだと思う。

 ただ、ほんの少し、気になったのだ。

 ウェンは、「訳が分かったらその人を許せる」のだろうか。

 ──許さなくても、いいような気がする。

 だって、自分だったら、許せそうにないから。どんな理由があったとしても、家族を奪った奴らを、許してなどやれそうにないから。

 許してしまったら、大事だったものが、本当はそうじゃなかったのだと認めることになってしまう気がする。だから。

 ──僕は、あいつらを許せない。

 静かに、けれど確かに燃える熾火おきびのような感情を抱きながらも、ふと目を手元の布に落としたレインの脳裏に、金と紫に彩られた姿がよぎる。

 ──許せない僕は、立派な人に、なれるんだろうか。

 許せない自分を、リサは、どう思うのだろうか。

 聞いてみたいとわずかに思った。しかし聞きたくない思いの方が強く、彼はその問いをそっと胸底の小箱に収めて、蓋をした。



 その数分後、シグから今日の弾き語りは無いと聞いて、「メル、良くない」と不満を漏らすウェンを、一生懸命なだめるレインなのであった。



 ◆ ◆ ◆



「じゃあ、また明日。よろしくね、メル。──おやすみなさい」

「……おやすみなさい、リサ」

 にこりと笑って部屋を出ていくリサの後ろ姿を見送ってから、メルは再び寝台に潜り込んだ。「消灯」の言葉で水晶の灯りはその光を弱め、室内は、何も見えないほどではないけれど、眠るのに適した暗さになる。

 けれど、すぐには目を閉じない。眠る前に、しなければならないことがある。

 ──明日、すること。

 大事なことだから、きちんと確かめておかないと。その思いで、黒髪の少女は、その右親指を折った。

 ──シグとアルに、謝る。

 さっき、悪いことをしたのはメルだから、それを謝らなくてはいけない。許してもらえないかもしれないけれど、それでも、ちゃんと謝る。

 許してもらえないからといって、諦めるのは、良くないことだから。

 そう、リサと約束した。メルの、優しくて綺麗で、特別な──友だちと。

 特別。

 他の誰に言われても、何も思わなかった、むしろわずらわしくて、嫌な気分になるだけだったその言葉が。

 ──リサに言われると、嬉しいの。

 それは多分、リサがメルの特別だから。

 ──それから。お勉強も、運動も、頑張る。

 次いで人差し指を折り、少女は決意を固める。

 大切な友だちが欲するものに、少しでも、近づけるように。

 ──それから。

 中指を折り、メルは小さいものの、熱の籠もった吐息をついた。

 ──リサを、起こしにいく。

 その時に、リサに瘴気を抜いてもらうのだ。メルだけにすると言った、特別な方法で。

 折っていない薬指で、メルはそっと自分の唇に触れた。

 ──やわらか、かった。

 ほの甘い香りと触感を思い出すだけで、胸の鼓動が早くなり、頬が熱くなる。

 あれを知っているのは、自分だけ。他には、誰も知らない。

 そのことが、むずがゆいのだけれども、なんだか嬉しくてたまらない。

 しばしそのままの格好でいたメルは、唐突に布団を掴んで頭上まで引っ張りあげながら、ごろりと転がって枕に顔をうずめた。目を閉じて、懸命に、己に言い聞かせる。

 ──ちゃんと、眠らないと。起きられなくなっちゃう。

 寝坊して、リサが先に起きていたら大変だ。

 ほどなく訪れてくれた眠りの精に、夢の国へといざなわれながら、黒髪の少女は朧気に思った。

 ──早く、明日になればいいな。



 ◆ ◆ ◆



 シグは幾度めかの寝返りをうった。

 ──眠れない。

 リサに、先に寝た方がいいと勧められて寝台に身を横たえたものの、目を閉じても、まだ戻ってこないアルのことや、リサが言ったことが頭の中を巡り、彼はなかなか寝付けずにいた。

 眠れないとなると、再びあの問いが脳裏に浮かんでくる。

 ──追いかければ、よかったんだろうか。

 戻ってこないアルを待つ間、ずっと考えていたこと。考えて考えて、でも結局できなかったこと。

 誰かの言葉に逆らうということが、シグにはできなかった。そんなことをしたら飛んでくるのは拳と怒声で、それは痛くて怖くて嫌なことだったから。

 もちろんアルはそんなことはしないだろうが、だから余計に「ついてくるな」という彼の言葉に、逆らえなかった。逆らって嫌われるのが怖かった。

 さらに、浮かんだ言葉が彼の足をすくませた。

 ──追いかけたところで、何ができるのか。

 何も、できない。自分で出したその答えが、シグをさらに萎縮させた。

 探してくるから、と言って出て行ったリサの後ろ姿を見送り、ほっとしたのだけれど──うらやましいと、小さく思った。

 本当は、追いかけたかったのだ。


 再び寝返りをうったシグは、部屋の扉が開く音に気づき、身を起こした。

 カーテンを開けて見下ろすと、小さな明かりの灯った部屋の中、銀色の髪の少年がゆっくりと寝台に歩み寄ってきていた。顔をのぞかせたシグに気づき、彼は言う。

「まだ、起きてたの。──早く、寝なよ」

 いたって平静なその声色に──泣き出すのを懸命にこらえていた、先刻とは全く違う、どこか満足げにすら見えるアルの表情に、シグは安堵と同時に釈然としない感覚をおぼえた。

 ──何が、あったんだろう。

 ともあれ、シグは一番先に伝えなくてはと思っていた言葉を口にする。

「……アル、さっき、リサが来て……」

「うん、会った」

 シグの言葉を頷きで遮り、アルは下の寝台に腰を下ろす。顔の見えなくなった彼に、シグはなけなしの勇気を振り絞って尋ねた。

「……仲直り、できた?」

「……うん、できたよ。──おやすみ」

 穏やかではあるが言葉少ない返事に、それ以上話す気はない、というアルの意思を感じ取り、「……おやすみ」と応えてシグは再び身を横たえた。

 聞きたいことはたくさんあった。リサにメルを許してあげてほしいと言われて、シグは頷いたけれどアルはどうするのかということ。泣いてないのはいいのだけれど、どうしてそんなに元気になってしまったのかということ。それから、ずいぶんと長い間何をしていたのかとか、リサが言った「あなたは綺麗だよ」の意味だとか。

 行き場をなくした言葉は彼の胸中で渦を巻き、やがて苦すぎる色の吐息となってこぼれおちた。

 ──これで、友だちに、なれるんだろうか。

 リサが言っていた、何でも相談できたり、言えたりするような間柄に、自分とアルがなれるのだろうか。

 アルは、なりたいと思ってくれるのだろうか。

 彼が横たわる寝台の下の段、実際の間隔にしてみればたいしたものでもないアルとの距離が、今のシグには、ひどく遠いものに思えてならなかった。



 ◆ ◆ ◆



 主が所望の香草茶を手に、彼女の部屋におもむいたアーネストは、ノックをしても戻らない応えに、既に眠っているのだろうと判断し、静かに扉を開いた。

 しかし部屋には皓々と明かりが灯っており、はてと訝るその目に、奥の机にうつ伏せる彼の主の姿が映る。

 小卓に茶器を置いて近づいても、その姿勢を崩さないリサに、アーネストは小さく苦笑を浮かべた。──珍しい姿だ。よほどお疲れになったのだろう。

 起こさないように慎重に、ペンを握ったままの右手からそれを抜き取りペン立てに戻してから、少女の体をそっと抱き上げる。「ん……」とリサは小さく声を漏らすが、起きる気配はなく、彼の腕に収まった。

 こうして彼女を抱き上げるのは、実のところ久方ぶりだ。最後に抱き上げたのは、リサが成長の眠りに入る前のことだから、腕の中の重みはかつての記憶とずいぶんと異なる。

 リサを抱いて歩き出した彼の前で寝室の扉は音なく開き、寝台の掛布はふわりと浮かび上がって、主を迎え入れる。

 そっと白い敷布の上にリサを横たえ身を起こすと、心得たように掛布は少女の上に静かに覆い被さった。

 目覚める様子のないことに安堵しつつも、メルに起こしてもらうから、明日からは起こしに来なくてもよいと言われたため、今後しばらくこの表情は見られないのだと思い、アーネストはしばし少女の寝顔を見つめた。いつものように、きわめて愛らしい。しかし今日は少しばかり疲労の色が濃いようだ。

 枕元の小卓へ香草茶を運び、寝室を出たアーネストは、リサが向かっていた机に近づき、その上の紙を一枚取り上げた。普段は丁寧な筆跡の彼女にしては、いささか乱れた文字で何行にもわたり書かれていたのは、すべて同じ語句。

「もう、しませんから」。

 思わず背後の寝室の扉を振り返り、再び紙に目を落とし、アーネストはおもむろに紙を元の位置に戻すと、黙って主の部屋から退出した。




 

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