第6話 甘い夜の終わり
翌日の夜。
蒼真は繁華街から少し離れた通りを歩きながら、スマートフォンの画面へ目を落とした。
『もう着く』
麗華から届いた短いメッセージ。
『俺も』
そう返して、スマートフォンをポケットへしまう。
昼間は昨日の件で悠真から何度か報告を受けた。
破門した元構成員。
東雲組の下の構成員。
その間で動いた金。
まだ何の金なのかは分からない。
神代側に繋がっている人間がいるのかも、まだ掴めていなかった。
だから、今夜は何もしない。
悠真にも深追いするなと伝えた。
仕事は仕事。
今は――。
「蒼真」
聞き慣れ始めた声に顔を上げる。
少し先に麗華が立っていた。
「おー」
自然と口元が緩む。
「待った?」
「今来た」
「本当?」
「本当」
「男の“今来た”は信用ならない」
「何でだよ」
麗華が笑いながら蒼真の隣へ並ぶ。
「で、今日は?」
「俺が誘う番だったからな」
「私が先に連絡したけどね」
「……それ言う?」
「言う」
「待てなかった?」
麗華が一瞬黙った。
「…………」
「麗華ちゃん?」
「調子乗らないで」
「図星じゃん」
「帰ろうかな」
「ごめんって!」
蒼真が笑いながら麗華の腕を軽く掴む。
その手を見て、麗華が少しだけ目を細めた。
「……何?」
「いや」
「何だよ」
「別に」
麗華はそう言って歩き出す。
蒼真もその隣を歩いた。
「飯食った?」
「まだ」
「じゃあ飯行こ」
「どこ?」
「予約した」
麗華が足を止めた。
「蒼真が?」
「何その反応」
「予約とか出来るんだ」
「出来るわ!」
「意外」
「お前ら俺を何だと思ってんだよ……」
「お前ら?」
「あ」
蒼真が口を閉じる。
麗華が首を傾げた。
「誰?」
「……友達」
「昨日も一緒だった?」
「いた」
「男?」
「男」
「ふーん」
麗華がまた歩き始める。
「何その反応」
「別に」
「嫉妬?」
「違う」
「男だぞ?」
「分かってる」
「じゃあ何で」
「蒼真、友達といる時どんな感じなのかなって」
「今と変わんねぇよ」
「絶対嘘」
「何でだよ」
「もっと馬鹿そう」
「失礼だな!」
麗華が声を上げて笑う。
その笑顔を見ながら、蒼真も笑った。
仕事のことが、一瞬だけ頭から消えた。
◇
蒼真が予約していたのは、繁華街の外れにある小さな和食店だった。
個室へ通され、向かい合って座る。
「……意外」
麗華が店内を見回した。
「また?」
「もっと派手な店連れて行かれると思ってた」
「俺を何だと思ってんの?」
「銀髪」
「髪で店決めねぇよ」
「あと柄悪い」
「お前も大概だぞ」
「私は上品」
「どこが?」
麗華が睨む。
「……帰る?」
「ごめんなさい」
蒼真が即座に頭を下げ、麗華が吹き出した。
料理が運ばれてくる。
酒を頼み、グラスを軽く合わせた。
「昨日飲んでたんでしょ?」
「うん」
「今日も飲むの?」
「少しくらい」
「強い?」
「まぁ」
「へぇ」
「何」
「潰してみたい」
「やめろ」
「何で?」
「昨日テキーラ勝負したばっかなんだよ」
「誰と?」
「蓮花」
「女?」
蒼真がグラスを口元で止めた。
「…………」
麗華が笑顔のまま見ている。
「店の子」
「へぇ」
「友達の店の」
「へぇ」
「何その“へぇ”」
「別に?」
「怖ぇんだけど」
「何も言ってないでしょ」
「言ってないから怖ぇんだよ」
麗華は何事もなかったように料理へ箸を伸ばした。
蒼真は少し考えてから口を開く。
「何もねぇぞ」
「聞いてないけど」
「……そうだけど」
「別に蒼真が誰と飲もうが自由でしょ」
「うん」
「私達、付き合ってないし」
その言葉に、今度は蒼真が黙った。
「…………」
「何?」
「いや」
「何よ」
「それ、昨日からちょっと思ってた」
麗華の箸が止まる。
「何が?」
「俺らって何なんだろうなって」
「…………」
「会って、飯食って、飲んで」
蒼真はグラスを置いた。
「俺は麗華に会いたいと思ってる」
麗華が蒼真を見る。
「昨日、連絡来た時も嬉しかったし」
「…………」
「だから」
蒼真が少し笑う。
「俺は、もうちょい先行きたいけど」
麗華は何も言わなかった。
ただ蒼真を見ている。
「……何」
「蒼真って」
「うん」
「意外とちゃんと言うんだね」
「意外ばっかだな今日!」
「もっと適当に女口説くタイプだと思ってた」
「……まぁ」
蒼真が僅かに視線を逸らす。
「否定しないんだ」
「嘘ついても仕方ねぇだろ」
「遊んでた?」
「それなりに」
「ふーん」
「またそれ!」
麗華が笑う。
「でも」
蒼真が続けた。
「今は麗華に会いたい」
麗華の笑顔が少しだけ消えた。
真っ直ぐ向けられる視線。
誤魔化しているようには見えない。
だから余計に困る。
この男が誰なのかを、自分は知っている。
神代組若頭。
神代蒼真。
神代の龍。
それを知りながら、自分は何も言っていない。
「……麗華?」
「何?」
「嫌だった?」
「何が?」
「俺がそう思ってんの」
麗華は少し考える。
そしてグラスへ口をつけた。
「嫌だったら昨日、私から連絡してない」
蒼真が一瞬止まる。
「…………」
「何その顔」
「いや」
「何」
「今のもう一回言って」
「嫌」
「何で!」
「一回しか言わない」
蒼真が嬉しそうに笑った。
その顔を見て、麗華も小さく笑う。
「……単純」
「うるせぇ」
◇
店を出る頃には、二人とも少し酒が入っていた。
夜風が心地いい。
「送る」
蒼真が言った。
「大丈夫」
「遅いから」
「いつも一人で帰ってる」
「今日は俺いるじゃん」
「…………」
麗華が蒼真を見る。
「何」
「蒼真ってそういうタイプなんだ」
「どういう?」
「女送るタイプ」
「普通じゃね?」
「そう?」
「こんな時間に一人で帰す方が嫌だろ」
麗華は少し黙った。
家の近くまで来られるのは困る。
東雲組の屋敷。
当然、蒼真に見せられるはずがない。
「途中まで」
「何で?」
「家知られたくない」
「……俺、信用ねぇな」
「まだね」
「まだ?」
麗華が少し笑う。
「これからでしょ?」
「…………」
蒼真の口元が緩む。
「その言い方ずるくね?」
「何が?」
「期待するじゃん」
「勝手にすれば?」
二人は並んで歩く。
少しして、人通りの少ない道へ入った。
麗華は蒼真の隣を歩きながら、その横顔を見る。
銀色の髪。
夜の街でも目立つ。
初めて見た時からそうだった。
チンピラ達を簡単に倒し、自分を助けた男。
あの時、すぐに分かった。
神代の龍。
本来なら関わるべきではなかった。
なのに。
「蒼真」
「ん?」
「もしさ」
「うん」
「私が、蒼真に言ってないことあったらどうする?」
蒼真が麗華を見る。
「内容による」
「……そうだよね」
「何、あるの?」
「例えば」
麗華は前を向いた。
「家のこととか」
「家?」
「親とか」
蒼真は少し考える。
「別に」
「別に?」
「俺も全部話してねぇし」
麗華が足を止めた。
蒼真も止まる。
「……蒼真も?」
「そりゃあるだろ」
「例えば?」
「それはまだ言わない」
「何それ」
「麗華も言ってねぇじゃん」
「そうだけど」
「じゃあお互い様」
蒼真は軽く笑った。
「そのうち話せばいいだろ」
「…………」
「今すぐ全部知らなきゃ会えねぇわけじゃないし」
麗華は蒼真を見る。
その言葉が、優しいほど苦しかった。
蒼真は知らない。
自分が隠していることが、そんな軽い話ではないことを。
そして――。
蒼真自身も知らない。
自分が隠しているその肩書きこそ、麗華にはもう知られていることを。
「……そっか」
麗華が呟く。
「うん」
「じゃあ、そのうちね」
「おう」
また二人で歩き始める。
しばらくすると、麗華が立ち止まった。
「ここでいい」
「まだ住宅街でもねぇじゃん」
「迎え呼ぶから」
「迎え?」
「うん」
蒼真が少し眉を寄せた。
「家の人?」
「そんな感じ」
「……お嬢様?」
冗談めかした言葉に、麗華の心臓が跳ねた。
「…………」
「え、マジ?」
「違う」
「今の間は何だよ」
「うるさい」
「怪しいなぁ」
蒼真が笑う。
麗華は誤魔化すようにスマートフォンを取り出した。
「じゃあね」
「うん」
「今日はありがと」
「こっちこそ」
麗華が数歩離れる。
「麗華」
呼ばれて振り返る。
蒼真は少しだけ迷ったように見えた。
「次」
「うん」
「俺から連絡する」
麗華が笑う。
「今度こそ?」
「今度こそ」
「じゃあ待ってる」
「おう」
麗華が背を向ける。
蒼真も反対方向へ歩き始めた。
数歩。
十歩。
麗華は振り返った。
同じ瞬間。
蒼真も振り返る。
「…………」
目が合った。
二人とも一瞬止まり――。
「何見てんの」
麗華が言う。
「お前もだろ!」
「私はたまたま」
「俺もたまたま!」
「嘘」
「そっちがな!」
麗華が笑った。
蒼真も笑う。
今度こそ互いに背を向けた。
◇
蒼真が麗華と別れてから十分ほど経った頃。
スマートフォンが震えた。
蓮だった。
「もしもし」
『終わった?』
「何が」
『デート』
「……お前、タイミング考えろよ」
『終わったんだな』
「今別れた」
『楽しかった?』
「切るぞ」
『蒼真』
蓮の声が変わった。
蒼真の表情から笑みが消える。
「……何」
『悠真から連絡来た』
「うん」
『動いたぞ』
蒼真の足が止まった。
「何が」
『例の破門した奴』
夜の街の音が遠くなる。
『神代の人間と会った』
「…………誰」
『まだ確認中だ』
蒼真の目が鋭くなる。
『でも悠真が顔知ってる奴らしい』
「構成員?」
『ああ』
蒼真は煙草を取り出した。
火をつけ、深く吸う。
さっきまで麗華と笑っていた顔は、もうない。
「蓮」
『ああ』
「事務所戻る」
『俺も向かってる』
「親父には?」
『まだ』
「分かった。俺から話す」
『蒼真』
「何」
数秒、蓮が黙る。
『嫌な予感、当たったな』
「…………」
蒼真は煙を吐いた。
「まだだ」
『あ?』
「まだ何も決まってねぇ」
自分に言い聞かせるように、静かに続ける。
「神代の奴が会ってただけだ。何のためか分からねぇ」
『……ああ』
「決めつけんな」
『分かった』
通話を切る。
蒼真はしばらくその場に立っていた。
そして、踵を返す。
向かう先は自宅ではない。
神代組事務所。
一方。
麗華を迎えに来た黒塗りの車は、東雲組の屋敷へ向かっていた。
後部座席で麗華はスマートフォンを見つめている。
まだ蒼真から連絡はない。
当然だ。
別れたばかりなのだから。
それでも、さっき交わした言葉を思い出す。
――そのうち話せばいいだろ。
「…………」
麗華は小さく息を吐き、窓の外へ目を向けた。
その頃。
神代組事務所では。
悠真が持ち帰った一枚の写真が、蓮の前に置かれていた。
夜の路地。
破門された元構成員。
その向かいに立つ、一人の男。
蓮は写真を見下ろしたまま煙草を咥える。
「…………マジかよ」
やがて事務所の扉が開いた。
「蓮」
蒼真が入ってくる。
「誰だった」
蓮は答えない。
「おい」
「……蒼真」
蓮が写真から目を上げる。
その表情を見ただけで、蒼真にも分かった。
知らない下っ端ではない。
どうでもいい人間でもない。
蓮は写真を蒼真の前へ滑らせた。
「見ろ」
「…………」
蒼真が写真を手に取る。
そして。
その顔から、完全に表情が消えた。
「…………こいつ」
楽しかった夜は、そこで終わった。
龍が恋を知り始めたその夜。
神代組の内側では既に。
龍を喰らうための牙が、静かに研がれ始めていた。




