第2話 龍と東雲の娘
東雲組。
神代組よりも長い歴史を持ち、政界や財界にまでその名を轟かせる、日本最大級の組織。
その名を知らぬ者は、裏の世界にはほとんどいない。
広い和室の上座に、一人の男が座っていた。
東雲組・組長——東雲大和。
年齢を重ねてもなお、その眼光は鋭い。
目の前には数人の幹部が並び、誰もが背筋を伸ばしていた。
「……もう一度言ってみろ」
低い声が落ちる。
「はい。ここ最近、神代組の名を騙る者が、こちらの縄張りでも動いているようです」
「神代が?」
「いえ……」
報告していた男が僅かに言葉を詰まらせる。
「神代組から正式に指示された者ではないかと」
大和の眉が僅かに動いた。
「なら神代じゃねぇだろ」
「……はい」
「神代天音は、そんなくだらねぇ真似する男じゃねぇ」
吐き捨てるように言うと、大和は煙草へ火をつけた。
神代組と東雲組。
決して友好的な関係ではない。
互いの縄張りを巡り、小さな衝突が起きたことも一度や二度ではなかった。
だがそれと、相手を知らないことは別だ。
「天音がうちと本気でやり合うつもりなら、こんな回りくどいことはしねぇよ」
大和が煙を吐き出す。
「正面から来る」
大和の言葉に誰も反論しなかった。
「それより――」
大和の目がさらに鋭くなる。
「うちの下の連中が勝手に動いてるって話はどうなった」
部屋の空気が変わった。
「……現在、確認しております」
「遅ぇ」
「申し訳ありません」
「神代の名前使って好き勝手やってる馬鹿がいる。こっちにも勝手に神代へ喧嘩売ろうとしてる馬鹿がいる」
灰皿へ煙草を押しつける。
「どいつもこいつも、戦争でもしてぇのか」
「…………」
「神代と全面でぶつかったら、何人死ぬと思ってんだ」
静かな声だった。
「神代には龍虎がいるんだぞ…」
その場にいた全員が口を閉ざした。
神代の龍虎。
東雲組にも腕の立つ者はいる。だが、神代の龍虎という二枚看板を前に、正面から渡り合える保証などない。
だからこそ、大和は軽々しく抗争を起こすつもりはなかった。
「下の馬鹿共に伝えろ」
大和はゆっくりと立ち上がった。
「俺の許可なく神代に手ぇ出した奴は――東雲の人間とは認めねぇ」
「はい」
「それと、神代側の動きも引き続き探れ」
「承知しました」
幹部達が頭を下げた、その時だった。
襖の向こうから、軽い足音が聞こえた。
「お父さん」
張り詰めていた空気が、一瞬で変わった。
大和が振り返ると襖から顔を覗かせたのは、若い女だった。
東雲麗華。
東雲大和の一人娘。
「まだ仕事?」
「ああ。もう終わる」
「ふーん」
麗華は部屋の中を見回した。
並ぶ男達の重たい空気。
そして机の上に置かれた資料。
「……神代?」
その一言に、大和が僅かに眉を寄せた。
「お前には関係ねぇ」
「聞こえたんだもん」
「聞かなかったことにしろ」
「はいはい」
麗華は肩を竦めた。
「私、出掛けてくるから」
「どこに」
「買い物」
「誰と」
「一人」
「一人?」
大和の眉間に皺が寄った。
「誰か付けろ」
「嫌」
「麗華」
「買い物くらい一人で出来るって」
「今ちょっとゴタついてんだよ」
「だからって、ずっと誰かに後ろ歩かれるの嫌なの」
大和が深く溜息を吐く。
組長として裏社会に名を轟かせる男も、一人娘には弱かった。
「……暗くなる前に帰れ」
「はーい」
「何かあったらすぐ電話しろ」
「分かってる」
麗華は笑うと、そのまま襖を閉めた。
大和は暫く閉じられた襖を見つめていた。
「……一人付けますか?」
側近が尋ねると大和は額を押さえて呟いた。
「バレたら嫌われる……」
大和のその言葉に側近はただ、苦笑いするしかなかった。
街へ出た麗華は、小さく息を吐いた。
東雲組組長の娘。
その肩書きは、生まれた時から自分について回った。
学校へ行っても買い物へ行っても誰かと食事をしても、必ずどこかに東雲の目がある。
それが自分を守るためだということくらい、麗華にも分かっている。
分かってはいるが——。
「……たまには一人になりたいわ」
小さく呟いた。
適当に店を回り、買い物を済ませると気付けば予定よりも時間が経っていた。
帰ろう。そう思い、人通りの少ない道へ入った時だった。
「なぁ、姉ちゃん」
声を掛けられ、麗華が足を止め、振り返ると男が三人。
見るからに柄が悪そうな連中だった。
「何?」
「一人?」
「だったら?」
麗華が冷たく返すと男達が顔を見合わせ、笑った。
「ちょっと付き合ってよ」
「嫌」
麗華は即答して歩き出したが、一人が前へ回り込む。
「そんな冷たいこと言うなって」
「邪魔」
「可愛い顔して気ぃ強ぇな」
男が麗華の腕を掴んだ。
「触らないで」
麗華が振り払うと、その手が思った以上に強く男の腕へ当たった。
「いってぇな!」
男の顔色が変わり、腕が振り上げられた。
「てめぇ――」
麗華は咄嗟に身構えたが、その手が麗華へ届くことはなかった。
「女に手ェあげんのか、てめぇらは」
男の腕を、横から誰かが掴んでいた。
銀色の髪、黒いシャツ。
男より僅かに背の高いその人物は、掴んだ腕を乱暴に放した。
「カスだな」
麗華が目を見開いた。
男は蒼真を睨みつけた。
「……なんだてめぇ」
「別に」
蒼真は面倒そうに答える。
「誰だよ!」
「誰でもいいだろ」
「舐めてんのか!」
男が蒼真へ殴りかかった。
――次の瞬間。
「ぐっ……!」
男の身体が地面へ転がった。
麗華が瞬きをする。
何が起きたのか、ほとんど分からなかった。
「てめぇ!」
残った二人が同時に蒼真へ向かう。
「……だからさぁ」
蒼真が小さく息を吐く。
「イライラしてんだから、来んなって」
一人の拳を避け、その腹へ拳を叩き込み、身体を折った男の顔面へ膝を入れた。
もう一人が背後から腕を伸ばすが、蒼真は振り返ることもなく、その腕を掴むと身体を捻った。
「っ――!」
「蒼真」
後ろから声が飛んできた。
「その辺にしろ」
麗華が振り向く。
黒髪の男が、煙草を咥えたまま歩いてくる。
蓮だった。
「イライラしてるからって、カスに当たんな」
「こういうカス嫌いなんだよ。余計イライラしたわ」
「はいはい」
蓮は地面に転がる男達を一瞥すると、麗華へ視線を向けた。
「君、大丈夫?」
「あ……はい」
「怪我は?」
「ないです」
「ならよかった」
蓮がそう言った横で、蒼真も麗華を見る。
その瞬間、麗華の視線が蒼真の髪へ向いた。
銀髪。
先ほど聞こえた名前。
――蒼真。
胸の奥に、ひとつの名前が浮かんだ。
神代蒼真。
神代組組長・神代天音の一人息子で若頭。
そして、神代の龍。
(……まさか)
麗華は蒼真を見つめた。
噂なら知っている、その名前。
銀髪の若頭。
神代組には、龍と虎と呼ばれる二人の男がいることも。
だが目の前の男は、麗華が想像していた神代蒼真とは随分違った。
もっと冷たく。
もっと恐ろしく。
近寄り難い男を想像していた。
「本当に大丈夫?」
立ち止まったまま動かない麗華を蒼真が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……大丈夫」
「よかった」
麗華の言葉に蒼真が笑った。
先ほどまで三人の男を容赦なく沈めていた男と、同じ人物には見えない。
「じゃ、行くぞー」
蓮が蒼真の肩を叩き、歩き出す。
「あ、待って」
蒼真が麗華を見る。
「家まで送ろうか?」
「え?」
「また絡まれたら危ねぇじゃん」
「大丈夫。一人で帰れるから」
「そう?」
「うん」
「ならいいけど」
蒼真は少し考えたあと、笑った。
「俺、蒼真」
麗華の心臓が僅かに跳ねた。
やっぱり。
「……麗華」
名字は言わなかった。
なぜか今は、言わない方がいい気がした。
「麗華ね」
蒼真がもう一度、その名前を口にする。
「じゃあ、これ。また絡まれたら連絡してよ」
「……え?」
麗華が思わず聞き返すと、蒼真はメモを殴り書きし麗華へ手渡した。
「…呼んで、来れるの?」
そう言って麗華は笑うと、蒼真も笑った。
「来るかもよ?」
そんなやり取りを見ていた蓮は呆れた顔をしていた。
「行くぞ、ナンパ野郎」
「……ナンパじゃねぇよ!」
「名前聞いて、番号まで渡してんじゃねぇか」
「自己紹介!あと、また絡まれるかもだろ?」
「遠かったら来れねぇだろ、バカ」
「それとこれは違ぇ」
言い合いながら歩いていく二人の背中を麗華は見送っていた。
銀髪と黒髪。
並んで歩く二人の姿。
(……龍と虎)
噂通りだった。
いや噂とは、少し違った。
「……変な人」
そう呟いた麗華の口元は、僅かに笑っていた。
◇
「ただいま」
東雲の屋敷へ戻ると、すぐに組員が頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「お父さんは?」
「組長室にいらっしゃいます」
「そ」
麗華はそのまま自室へ向かおうとした。
「麗華」
背後から呼ばれ、足を止め振り返ると大和が立っていた。
「遅かったな」
「ごめん。ちょっと寄り道してた」
「何かあったか?」
一瞬、麗華の脳裏に、銀髪が浮かんだ。
三人の男と伸びてきた腕。
そして、その腕を掴んだ蒼真。
『女に手ェあげんのか、てめぇらは』
麗華は大和から視線を逸らした。
「……何もないよ」
大和が麗華をじっと見る。
「そうか」
「うん」
「飯は?」
「食べる」
「なら着替えてこい」
「はーい」
麗華は自室へ戻り、扉を閉める。
買ってきた荷物を置き、ベッドへ腰を下ろし、暫く黙っていたが、スマートフォンを手に取る。
検索画面を開いたが、指が止まる。
息を吐き、ゆっくりと文字を打った。
――神代蒼真。
画面に表示された名前と写真を見つめる。
「……やっぱり」
東雲組と敵対する、神代組。
その若頭。
自分が関わるべき相手ではない。
いや、関わってはいけない相手だ。
分かっている。
それなのに麗華の頭に浮かんだのは、神代の龍という肩書きでも、三人の男を一瞬で沈めた姿でもなかった。
『よかった』
自分が無事だと分かって、笑った顔。
麗華はスマートフォンを伏せ、殴り書きのメモを鞄から取り出し見つめた。
「…………神代蒼真」
誰にも聞こえない声で、その名前を口にした。
この出会いが神代と東雲。
龍と、東雲の一人娘。
二人の運命を大きく変えることになるなど——。
この時はまだ、誰も知らなかった。




