6
減圧室の壁には、誰が赤い塗料で書き殴ったのか『真空は嘘をつかない』という古いスクラッパーの格言が残されている。
ひどく蒸し暑い室内には、先ほどからガルドの異常に荒い呼吸音が響いていた。
汗と古いオイルの匂いが充満する中、ベンチに腰掛けたカイは、手のひらに収まる小さなデータロガーを無言で差し出した。そこには、先ほど外殻で記録してきた『完璧な傷』のホログラムデータが収められている。
「……見ろ。デブリの削れじゃない」
ガルドは残された左目でそのデータを覗き込んだ瞬間、さっと血の気を失った。
浅黒いシワだらけの顔が、恐怖に引き攣る。
パァン、と乾いた音が室内に響いた。
ガルドが強烈な勢いでカイの手を弾き飛ばしたのだ。データロガーが床のグレーチングに落ちて、無機質な音を立てる。
カイは目を丸くした。普段は口汚く怒鳴り散らすだけの師匠が、これほどまでに怯え、狼狽えた姿を見せたのは初めてだった。
「……消せ」
ガルドの声は、いつものしゃがれた怒声ではなかった。真空のように酷く静かで、震えていた。
彼はカイの胸ぐらを油まみれの手で乱暴に掴み上げ、残された左目を至近距離で見開いた。
「いいか、坊主。星を見るな、足元のボルトを見ろ」
吐き出される息は熱く、強烈な焦燥と恐怖に満ちている。
「この船で、上の連中が書いたマニュアル以外のモンを見つけるな。真空より恐ろしいのは、人間の決めた掟だ。……いいな? そのデータは今すぐ完全に消去しろ。二度と口に出すな」
胸ぐらを掴まれたまま、カイは静かにガルドの目を見返した。
師匠の怯えは本物だった。触れてはいけないタブーを知る者の、骨の髄まで染み込んだ恐怖の匂いがした。
「……わかった。圧を下げる」
カイは短く答え、胸ぐらを掴むガルドの腕をゆっくりと外した。
床に落ちたデータロガーを拾い上げ、削除のコマンドを入力する。ホログラムの光が消え、ガルドは大きく息を吐き出して、崩れ落ちるようにベンチへ座り込んだ。
しかし、カイの冷徹な思考は止まっていなかった。
彼はガルドから背を向け、ロッカーに旧式の個人端末をしまうふりをしながら、スパナの柄で極小の物理スイッチを押し込んだ。
データロガーのメインメモリからは消去した。だが、その直前のコンマ数秒で、カイは自身の旧式端末の隠し領域へ、傷のデータを密かに物理転送していたのだ。
世界の論理が破綻しているのなら、それを直さなければならない。
カイの網膜の奥で、幾何学的な傷がまだ冷たく輝いていた。
面白いと思われましたらページ下部の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援お願いします!




