9.カイゼルの名前
シュリはカイゼルから接客の方法を学ぶのが楽しくて仕方がなかった。
もちろん、店主からも一通り習っていたが、どうにもうまくいかなかった。店主に叱責されると、かつて母親に見捨てられた記憶が呼び覚まされ、頭が真っ白になってしまった。そして、一方的に言われ続けると、自分の中にある不要なプライドも邪魔をして、悔しくなって、もう一度尋ねることができない。
失敗を繰り返して叱られる、の悪循環だった。自分が悪いと分かっていても、どうしても委縮した。
カイゼルは窘めこそしたが、怒鳴ったり責めたりはしなかった。かつて子供の頃に接してくれた時と少しも変わらなかったので、シュリは安心して彼の話が聞けた。何が正しいのか明確に実践させてもくれたから、少しだけ自信がついた。
店主の話も一つ一つ、確認をとるようにしよう。ここは彼女の店であり、従うべきだ。自分のちっぽけなプライドなど、何も役に立たないのだと戒める。
シュリはそう思いながら、テーブルに向かっていた。目下せっせと書いているのは領収書だ。母親への贈り物が決まり、カイゼルは支払いを済ませていたが、折角だから領収書の出し方も覚えるといいと言われたのだ。
テーブル向かいで待っているカイゼルは、とっても居心地が悪そうである。彼の言う通り、女装の趣味はなさそうだと、シュリは胸を撫で下ろしつつ、書き上げた領収証を彼に差し出した。
「見て、カイゼル。私、貴方の名前が書けたわ!」
「あ? あぁ⋯⋯よかったな?」
「うん!」
カイゼルは領収書を受け取って、軽く目を瞠ったので、シュリは少し不安になる。
「下手すぎて読めないかしら?」
「⋯⋯いや。上出来だ」
それでもじっと紙を見つめた後、シュリを見返してきた。優しく穏やかな眼差しを向けられて、シュリは嬉しくなった。何か言葉を求められているような気がして、はっと我に返った。
肝心なことを忘れていた。
「ありがとうございました!」
「⋯⋯なぁ、シュリ⋯⋯?」
「なに?」
一通り接客ができた奇跡に、シュリは眦を下げる。すると何故かカイゼルの視線が泳ぎ、薄っすらと頬を赤くしたかと思うと、「またな」と呟いて、贈り物を片手に店を飛び出していった。
あっという間に去って行ってしまった彼に、シュリは寂しさを覚えつつも、またな、という言葉を残してくれたことに希望をもつ。
まずは、自分がぐちゃぐちゃにしてしまった陳列棚を整頓しようと棚へと進み、シュリは真剣な顔で唸った。
「並べて見やすくしたほうがいいのね⋯⋯その感覚が私にはなかったわ」
子供の頃、まだ家族と一緒にいた時は、兄弟が食べ残した物か、彼らが嫌って食べなかった物しか口にできなかった。
量も少なかったが、種類もそう多くはない。果物など特に、同じ物ばかりだった。だから、色んな種類が混在している方が嬉しいし、楽しいだろうと思ったが、普通の感覚は違うのだ。
勉強になったと思いながら、シュリはせっせと棚を綺麗に整えて、ついでに掃除の仕方もカイゼルが教えてくれたので、その通りにした。
やがて店主がやって来て、様変わりした店内を見回して驚いた顔をした後、初めてシュリを褒めてくれた。シュリは嬉しくなって、顔を綻ばせた。
――カイゼルのお陰ね。相変わらず、優しいわ⋯⋯。
そう思うとともに、胸の奥にしまったはずの恋心がちくりと痛んだ。
★ ★ ★
店を飛び出したカイゼルは、街角で足を止め、小さく溜息を吐いて、髪をくしゃりと搔いた。
「⋯⋯俺はどうかしているのか?」
最後の挨拶をしてきた時のシュリの、キラキラと輝くような眼差し。なかなかの美女であるにも拘わらず、子供のように無邪気で、まるで大きな尻尾をぶんぶんと全力で振ってくる姿にさえ見えた。
「⋯⋯シュリ⋯⋯」
かつて同じ眼差しで、全力で自分に懐いてきた子供がいた。
捨てられたことが大きな心の傷になったのか、子供は何をするにしても不安そうで、自信がなかった。カイゼルは大げさすぎるくらい褒めて、自尊心を育てたものだ。
自分の元にきた家庭教師の話を聞いて、子供は字を読めるようになっていたが、どうしても書くことができなかった。相当悔しかったらしく、ボロボロと大粒の涙を零して泣いていたので、カイゼルは必死で慰めたものである。
シュリが書いた領収証に、カイゼルは視線を落とす。
『カイゼル・ライヴァット』
姓も名も、丁寧に書いてある。間違ってはいない。しかし、今は正しくない。
国の滅亡と共に、多くの貴族が名を奪われ、改姓を迫られた。ライヴァット家も滅びた貴族の名だ。そんな古い名を、彼女は知っている。
「⋯⋯まさか、お前なのか?」
カイゼルは愕然として立ち尽くした。




