4.知らねぇな
シュリは足元が音を立てて崩れていくような気がした。
確かに彼と別れて月日が経ち、シュリの容姿はかなり変わっている。彼の記憶にある姿は子供の頃の姿のままだろうから、無理もないことだろう。
だが、かつて毎日のように呼んでくれた名前を名乗りさえすれば、彼も気付いてくれるかもしれないという淡い期待も抱いていた。彼に会いに来るに至るまでの経緯を、人の目が多くある場所で打ち明けるのは得策ではない。始まりは、彼の両親との不和からでもある。
シュリは震える声で、諦めきれずにもう一度言った。
「私を⋯⋯覚えていないの? シュリよ」
「人違いだろう」
あっさりと言い切られて、それ以上の事を言うのを、シュリは止めた。
「そう⋯⋯ね。ごめんなさい」
「いや」
シュリは俯いて、踵を返すと街中へ消えようとした。
「――気をつけていけよ」
びくりとシュリは体を震わせて、涙を必死で堪えた。突き放してくれただけならよかったのに、カイゼルはやっぱり優しい。
逃げるように人混みに紛れて去り、人通りの少ない裏道へ入ると同時に、涙が溢れて顔を両手で覆った。
姿を見られただけで充分だ。そもそも、たとえ容姿が変わっても、叶う恋ではないと分かっていたではないか。カイゼルが自分の事を忘れてしまっていることが哀しくて、辛くもなったが、早々に現実が見えたことをありがたいと思おう。
自分は親に捨てられた能無し。片や彼は今もなお部下を従える立派な戦人。
祖国を失っても、その瞳の奥には強い光を放っている。そんなカイゼルに、自分の恋心は敬愛の念に変えられるはずだ。
シュリは必死で自分にそう言い聞かせる。ただ、切り替えるのは時間が必要だと思った。止めどなくあふれる涙に苦心していると、ぽつぽつと冷たい雫が頬を打ち、空を見上げた。
日暮れの空は厚い雲に覆われて、これから激しい雨が降ることを教えて来る。ちょうどいい、とシュリは自嘲気味に思った。
自分の涙を一緒に洗い流してくれるはずだ。
日が落ちて、周囲はすっかり暗くなった。大きな雨粒が止めどなく降りそそぎ、街からは人の姿は消えている。裏道の奥まった場所にあった空き家の軒先で、シュリは膝を抱えて座っていた。誰の目にも止まらず、迷惑もかけず、泣ける場所だと思ったからだ。
全身はずぶ濡れだったが、平気だった。子供の頃に戻ったと思えばいい。そう考えて、泥だらけの足元を見つめていると、ふっと影が差して、自分の周りだけ雨が止んだ。
「こんな所で、何をしている」
苦々しい顔で傘を差してくれていたのは、カイゼルだった。彼の後ろを見れば、少し離れた所にやはり数人の武装した兵がいて、彼らは傘と一緒にランプも手にしていた。
「⋯⋯貴方こそ」
「俺は見回りだ。夜で雨となれば見通しが悪くて、城下町で不穏な真似をする奴が出ることがあるからな」
「⋯⋯そう」
昔も今も、彼は人々を護るための騎士なのだ。シュリは小さく微笑んで、また視線を落とした。
「俺の質問に答えていないぞ。ここで何している。家はどうした?」
「⋯⋯ないの」
「宿は」
「お金も⋯⋯ないわ。ずっと⋯⋯旅をしていたから」
親に見限られ、唯一の居場所だったカイゼルの傍にはいられない。思いつくとしたら、かつて捨てられていた森だ。しかし、子供だろうが大人だろうが、迂闊に入れば獣の餌食だ。
それを考えれば、街の中で雨に打たれていたほうがはるかにマシだとシュリは思ったが、カイゼルは小さく溜息を吐いた。
「しょうがねぇな。城に来い、誰かに世話をさせる」
「遠慮するわ」
シュリは少しだけ、むっとした。
昔からカイゼル以外の他人に世話を焼かれるのは、あまり好きではなかった。僅かなプライドがそうさせるのか、彼以外の者をよく拒絶して、周りを困らせてしまったものだ。カイゼルは「しょうがねぇな」と言って苦笑していた。
尤も、彼は自分の事などすっかり忘れているから、そう言い出すのも仕方がないかもしれないと思い直す。そもそも雨の中にいたところで困りはしないから構わない。
カイゼルが辟易とした顔をした。
「意地を張るな、風邪をひくぞ」
「ひかないわ。私は頑丈なの」
「子供か、お前は」
それは早く大きくなりたいと願い続けてきたシュリにとって、最も言ってはいけない言葉である。シュリは真っ赤になって、
「いいえ、私は大きくなったわよ⁉ よく見て!」
と叫び、すくっと勢いよく立ち上がった。すると、カイゼルが表情を変えた。
「全員、後ろを向け! 見るんじゃねぇ!」
雷が落ちたのではないかと思うほどの、カイゼルの大声だったものだったから、シュリも飛び上がった。背丈はカイゼルよりも頭一つぶんくらい低かったが、街の女性達と比べるとシュリは少し背が高いくらいだった。だから、体の大きさは充分だと思っていたが、まだ見られたものではなかったようだ。
うろたえるシュリに、カイゼルは小さく溜息を吐き、傘を差し出してきた。持てということらしいと理解してシュリが受け取ると、カイゼルは自分の上着を脱いでシュリの体に掛け、濡れた肌に触れないように注意しながら、前のボタンも全て止めていった。
冷えた体に温もりが僅かに戻る。カイゼルの上着からは仄かに彼の匂いが香って、シュリは子供の頃を思い出した。自分を拾ってくれた時も、彼はこうして上着を脱いで、優しく包んでくれたものだった。ただ、あの時は優しい眼差しを惜しみなく向けてくれたのに、今は不機嫌そうである。
見知らぬ女と思っているからだろう、と少し胸が痛みながらも、シュリは礼を言った。
「⋯⋯ありがとう」
「夜にこんな濡れた体で突っ立っていてみろ、男に襲われるぞ」
「大丈夫よ、なんとかなるわ」
実際、ここに来る道中で行き違った男たちのような野卑な眼差しで、声を掛けてきた男達が何人か誘ってきていたが、シュリは丁重に断ってお帰りいただいている。
だが、カイゼルは益々不満顔になった。
「ならねぇよ。いいから城に来い」
有無を言わさぬ勢いのカイゼルに圧倒され、シュリは頷いてしまった。




