16.ごめんなさい
恐怖すら覚えさせる激怒を身体でビリビリと感じて、シュリは一気に目が覚めた。昔はとても優しくて、何をしても甘やかしてくれた男だったので、彼女が受けた衝撃たるや凄まじいものがある。
『それは、い、いやっ!』
シュリはもう無我夢中である。色々と思い悩んできたことなど頭から吹っ飛んで、ただただ夢中で翼を広げる。
飛ばなければいけないけれど、怖い。飛ばなくたって、カイゼルの傍にはいられるんだからいい。
そんな子供の頃の甘えは、もう許されない。
今、飛ばなければ、カイゼルが死ぬ。自分が弱かったから、王都陥落の折、彼を守れなかったことを思い知っている。
彼は自分に多くの事を求めていない。
ただ、飛べと言う。『お前もいつか飛べる』と、カイゼルだけは昔も今も信じてくれていた。
――カイゼルが言うのなら。
シュリは翼に力を込めた。
ぐんっと風を手で掴むような感覚がして、落下する一方だった体が止まる。その感覚を覚えた瞬間、シュリは自信を持てた。更に力を込めて翼を動かして、空を舞い上がると、落ちてきた彼の身体を背で受け止める。
彼の体重が背にかかり、少しばかり高度が下がったが、すぐに上空を目指した。
崖の上には、地竜がいる。
突如舞い戻って来た飛竜を見て、怒り狂ったように吠えた。地竜は、空に逃げられてしまうと手出しができない。飛び去って行く姿を、ただ空しく見送るしかないのだ。
そんな地竜を見上げ、カイゼルはシュリに伝えた。
「⋯⋯シュリ――」
シュリは一気に崖上まで飛び出すと、己を見上げ空しく咆える地竜を見下ろす。カイゼルもまた、彼女の背の上に座し、剣を握り締め、宿敵ともいえる地竜を冷然と見据える。
そして、カイゼルは優しくシュリの身体を撫でた。
「――大きくなったな」
カイゼルがシュリを見つけた時、彼女はまだ子供だった。
両腕に抱きしめられるくらいの痩せた小さな竜は、親に捨てられたせいで、初めはまったく心を開いてくれなかった。でも、本当は寂しがり屋で、可愛がっていたら懐いてくれた。
竜は子供でもあっという間に大きくなる。
数年経つと、シュリはあっという間にカイゼルの背を越すくらいの大きさになったが、やはり同じ年の竜に比べて一回りも二回りも小さかった。
カイゼルはそれでもシュリが可愛くて仕方が無かったし、彼女もいつも擦り寄ってくれた。
騎士団に入った後も言葉は交わせなかったが、背に乗れといいたげな時もあった。カイゼルはその想いは嬉しかったし、ありがたかったのだが、「大きくなったらな」と、はぐらかした。
ただでさえ空を飛べずにいるシュリに、武装した男は重いだろうと思ったのだ。
僅かなことでも、彼女を落ち込ませたくない。
そもそも、飛竜はプライドが高い生き物だった。軍属の竜は一緒に戦ってくれはしたが、人を乗せるものなどいなかった。だから、飛べないシュリがそんな真似をしたら、また仲間内でいじめられかねないと危惧した。
傍にいてくれるだけで充分だと、カイゼルは当時思っていた。
だが、今や王都が陥落して国は滅亡し、飛竜は住む地を失った。
ならば――もう、昔のままではいられない。
『逃げる気か!』
罵倒するしかない地竜を見据え、シュリは一気に急降下した。カイゼルは何も言わない。竜の言葉は彼には分からないからだ。だが、彼の意図は先ほど充分に聞いていた。
誘い出されたと思ったのか、地竜が嘲笑した。鋭い牙が覗き、シュリは怯えた。自分よりも遥かに大きな相手で、怖くて仕方がない。
それでも、無我夢中で牙を剥く。噛みつかれる直前で身を翻し、思いっきり足で鼻先を蹴りつける。噛みつかれたら引きずり倒される恐怖はあったが、今はただカイゼルを信じた。
地竜は飛竜へと全ての注意を向けていた。
だから、その背から小さな人間が飛び降りて、鋭い剣の切っ先を己の首に向けていたことに、気付かなかった。無防備にあいた地竜の急所を、カイゼルは容赦なく突いた。
地竜は短い悲鳴を上げてよろけ、大きく体勢を崩した。崖に身が傾いたが、そのまま立て直すことはできず、巨躯の身体は奈落の底へと落ちて行った。
カイゼルは既に地竜の背から飛びのいて、易々と着地している。硬い皮を破った剣を鞘に納めながら、冷然と呟いた。
「貴様ごときが、シュリに挑めると思うな。俺で充分だ」
溺愛する飛竜を殺そうとした地竜に、一切の情けをかけるはずはない。
その凄まじい殺気は、シュリが地に降り立って竜から人へと変わった事で消えたが、その眼は今度は違う意味で鋭くなった。
服が全て破けてしまったので、シュリは裸のままだ。なんとも気まずげに体を手で隠す彼女の元に歩み寄り、カイゼルは上着を脱いで身体にかけると、腕を組んだ。
「俺に言うことがあるよな?」
カイゼルに冷ややかに尋ねられ、シュリはうつむいた。
たくさんあったが、言えない。涙が出てきて、止まらなくなってしまったからだ。
百回くらい、ごめんなさいと言いたい。
シュリはぼろぼろと大粒の涙を流し嗚咽の声を必死で堪えていたが、カイゼルは昔のように一切慰めようとしなかった。
カイゼルは生き地獄を味わっていた。
本当は、ものすごくシュリを抱きしめたいし、泣かなくていいと言ってやりたい。
昔、まだ小さな竜だった時のように、よしよしと頭を撫でてやりたい。
しょうがねぇな、の一言で済ませたくなるほど、竜でも人でもシュリはいじらしくて可愛い。落ち込んだ様子を見ただけで、怒りなんてどこかに吹っ飛んでしまっていた。
だが、黙って勝手にいなくなったから、少し反省させなければと心を鬼にしている。ついうっかり抱き締めないように腕を組んで、必死で堪えてもいた。
シュリが口を開くまでの時間はそう長くはなかったが、カイゼルには実は悪夢の一時でしかない。
挙句に、彼女は相変わらず頑固だった。
「⋯⋯ないわ」
「あぁ?」
「なにも⋯⋯ない⋯⋯」
カイゼルへの思慕も、醜い嫉妬も、行き場のない番への執着も。
言ったところで、お互い苦しいだけだ。人化の力を手に入れた時、カイゼルと結ばれる身体になれたと喜んだが、とんだ思い違いだった。自分は醜い生き物になっただけだ。
悲しみがこみ上げてきて、シュリは上着を脱いで突き返すと、また飛竜の姿になった。そんな彼女を見て、カイゼルはなんとも苦々しくなった。
「⋯⋯おい、それは反則だぞ」
カイゼルには竜の言葉が分からないから、姿を変えられるとシュリと会話ができない。彼女は一声哀しげに鳴いただけで、うつむいてしまう。
「シュリ。人の姿に戻れ、な? こっちも可愛いが、あっちも可愛いぞ?」
――俺は何を言っている。これじゃ説得にならねぇ。
焦るカイゼルだったが、シュリは答える代わりにくるりと背を向けて、とぼとぼと森に向かって歩き出した。今の今までシュリは飛べなかったのが幸いしてか、飛び去るという選択肢が頭に出てきていないようだ。しかし、それに勘づかれたら終わりである。
「待てよ! あぁくそ⋯⋯っ」
カイゼルは上着を拾い上げて、慌てて後を追った。
シュリがとんでもなく落ち込んでいるのは分かるし、怒ったのは自分だ。初めて強く叱ったが、二度と嫌だと、罪悪感で打ちのめされながらカイゼルは思った。いっそ自分が罵倒されたほうがはるかにマシである。
ただ、シュリはまた一緒にいると誓ってくれたのに、いつの間にかいなくなっていて、挙句に地竜に殺されそうになっていた。
――俺は寿命が縮んだぞ、どうしてくれる。お前と少しでも長く生きていたいのに。
そう窘めようとしたが、悔しいことに、揺れる太く長い尻尾が、どうしようもなく可愛い。愛らしくて見惚れてしまう。まさに、この世のものとは思えない美しさだ。
シュリが巨体を左右に揺すって歩くたびに、ずしぃん、ずしぃんっと大きな音が響き渡り、大地が震えた。元気でよい。力強くもなったと嬉しくて仕方がない。
久々に飛竜の姿を見たが、想像していた以上に彼女の首は太くなっていた。特注した例の特大のリボンは、美しい尻尾の方に結んだほうがいいだろうか。痕がつかないと宥めれば、可愛い物が大好きだった彼女はつけてくれるかもしれない。
理由をつけて彼女に服や髪飾りを選ばせたから、シュリの好みは全て把握済みである。
可愛い飛竜にはリボンをつける。これは竜の国の新常識だ。異論は認めない。
ティナ王女も、シュリがいかに可愛い飛竜かで意気投合したから、生きていたら間違いなく同意してくれるはずだ。
――いや、そんなことを本気で考えている場合じゃねぇ。だめだ、気が散る!




