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15.飛べ

 顔見知りになっていた城兵に頼み込み、シュリはまだ薄暗いなか、城下町を後にした。行く当てなどどこにもなかったが、とにかくカイゼルから出来るだけ離れなければならないと思った。

 人目につきたくなくて、大きな道から外れて、森の中へと入った。その頃にはすっかり周囲も明るくなっていたが、シュリの心は暗いままだ。


 やがて、足が止まった。


 気付けば崖の傍に立っていたからだ。のぞき込んでみても、谷底は見えず、耳を澄ませてみると、辛うじて水音が聞こえた。飛竜の聴力は優れていて、同族の咆哮もよく届く。

 夜にティナ王女が生存しているという噂が聞こえてきたのも、遥か高い上空で飛竜達が騒いでいる声が聞こえたからだ。彼らはシュリに気づくことなく飛び去って行った。そのまま王女の元に向かったのかもしれない。


 だが、シュリはティナ王女に近づくわけにはいかなかったし、成人してもやはり身体は飛竜にしては小さいほうだったから、仲間達からも歓迎されないだろう。


 深い谷底を見つめ、シュリは小さくため息をついた。

 そして、背後から感じていた嫌な気配を確かめるべく、のろのろと振り返った。


『鈍いやつだ。やっと気づいたか』


 嘲笑交じりにそう告げたのは、一頭の巨大な地竜だった。

 人間のシュリの背丈の三倍はあろうかと言う巨躯だ。地上で圧倒的な速さで駆ける太い二本の両脚で、しっかりと大地を踏みしめて立っている。前脚は細長く大きな手があり、鋭い爪が伸びている。

戦場では地竜はその足の速さで敵を追いかけ、踏み潰し、あるいは前脚の爪を使って切り裂き、大きな牙で止めを刺す。地上戦で圧倒的に優位に立つ地竜の目は今、ちっぽけなシュリに向けられている。


 無遠慮に匂いを嗅ぎ、同族が化けていると気づいていたようだ。


『飛竜のなれの果ては、ここまで無様か』


 嘲る地竜の言葉は、シュリの胸を突いた。

 かつて空を支配していた飛竜の名は、国の滅亡と共に地に堕ちた。海に生きる水竜は地上に出てこられない事もあり、今や地上世界の覇者は地竜である。

 今や飛竜は三種の竜族の中で最弱と言われ、そんな飛竜の中でも最弱と言われた小さな竜は、何もできなかった。


 かつて全身を血で染め上げて、倒れ伏したカイゼルの姿が脳裏に過る。


 シュリの体はがくがくと震え、顔は蒼白になった。

 地竜が大きな口を開けて、己を食いちぎろうとしてきたが、微動だにしなかった。


 一瞬で自分の命を奪うであろう鋭い牙を見ても、恐怖を覚えなかった。ただ、虚ろな目で、自分の死だけを見つめた。


「シュリ、逃げろ!」


 森に響いた絶叫に、シュリは我に返った。声の主を探してみれば、剣を片手に持ち、こちらに向かって必死に駆けてくるカイゼルがいた。


 無論、声に反応したのはシュリだけではない。地竜の目もまたカイゼルへと向く。

 正体が飛竜とはいえ怯えきった小娘と、凄まじい敵意を滲ませて俊敏な動きを見せる騎士。

 難敵となるのがどちらか地竜は素早く判断し、標的をカイゼルへと変えた。


「やめて⋯⋯!」


 地竜がカイゼルに向かっていくのを見て、シュリは飛竜に戻ろうとした。彼を守ろうとした。だが、憔悴しきった心は、体の活力をも奪ってしまったかのように、動いてくれない。

 カイゼルと巨大な地竜は相対し、勝負は一瞬にして終わった。彼に向って振り下ろされた鋭い爪は空を切る。地竜の体勢が崩れたのを見逃さず、彼はその身体の下に滑り込み、先に引き抜いていた剣でその太い足を斬りつけた。


 だが、硬い鱗で覆われた足に傷すらつかない。硬い、と苦々しそうにカイゼルは舌打ちして言いながら、そのまま地竜の下を潜り抜け、すぐに起き上がって、シュリの元へと駆けた。


 巨躯でありながらも、地竜は俊敏である。

 すぐさま振り向いて、カイゼルに牙を剥いて追いかけてきた。

 迷っている暇はない。


 カイゼルはシュリの身体を片腕に抱きしめると、地を蹴った。

 二人の身体は宙に舞い、地竜の牙が空を切るとともに、そのまま崖下へと落ちた。

カイゼルは彼女の身体を強く抱きしめ、シュリもまたしがみついて縋った。彼は素早くもう一方の手にある剣を崖の壁へと突き立てる。落下の勢いと二人の体重が一気に腕と剣にかかったが、カイゼルは腕に力を込めて耐えた。


 崖からの落下は止まったが、状況は最悪と言えた。

 カイゼルは片手で剣を握り締めて二人の身体を落下から守り、もう一方の手でシュリを抱きしめている。しかし、岩肌はほぼ垂直で降りられそうな場所はなく、両腕が塞がっている状態ではどうにもならない。

 上を見上げれば、地竜がのぞき込んできていて、獲物がどうなるかを確かめようとしていた。


 上に行こうが、下に落ちようが、いずれも死が近い。


 だが、カイゼルは落ち着いていた。腕の中でぶるぶると震えているシュリに、優しく声をかけた。


「飛べ」

「え⋯⋯?」

「大丈夫だ。お前なら行ける。俺と何度も練習しただろう?」


 いったい彼は何を言っているのだ。シュリはそう思ったが、迷いのない眼差しに息を呑む。


 カイゼルは、私が飛竜だと気付いていたのだ。

 知っていて――でも、何も言わなかった。カイゼルにとって、自分はその程度の存在に過ぎなかった。だから、シュリは安堵した。


「そうね⋯⋯大丈夫」

 ――貴方は、私がいなくても大丈夫だ。


 シュリは淡く微笑んだ。


 カイゼルはやはり強い騎士だった。

 今も自分は足が竦んでしまったのに、彼は地竜にも怯まず挑んだ。きっと、頼もしい王女の騎士になるだろう。その雄姿を垣間見られただけで、充分だ。


 自分の役目は――もう終わった。

 ならば、彼の重荷になるような真似だけはしまい。カイゼルの強さがあれば、一人でこんな崖だって登っていけるに違いない。


 シュリは彼の腕をすり抜けて、空中へと躍り出る。意識を集中させて、人から飛竜の姿へと変化を遂げた。その背の二枚の翼は空の支配者である証でもあったが、シュリがそれを開くことはない。

 ただ、そのまま落ちていく。


 カイゼルはその異変にすぐに気づいた。


「何してる、シュリ! 飛べ。飛んでくれ!」


 彼の絶叫が聞こえたが、シュリは聞こえないふりをした。


 堕ちてしまえばいい。

 かつて、親に見捨てられた弱い小さな竜は、どう頑張っても飛ぶことができなかった。

 今も、醜い嫉妬しかできない人間の体は、やはり飛ぶことはできない。

 地竜も飛竜が無様に落ちていく姿を見れば、ひとまず満足して去っていくだろう。カイゼルは隙を見て逃げればいい。

 そう思ったのに――。


『どう⋯⋯して⋯⋯』


 シュリの瞳から、彼の姿は遠ざからない。竜の翼が開かないと見るや否や、彼は崖の壁を蹴って、剣を引き抜き、そのままシュリの後を追ったのだ。


 そして、カイゼルは大声で怒鳴りつけてきた。


「翼を広げろ! いい加減にしねぇと⋯⋯俺は()()()お前に本気で怒るぞ!」

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