#22 帰ってきた心臓
しぶきのような泥のカーテンのなかで熱射が発動し、蟻地獄の底から空へ向かって伸びる。石像が吼える。吼える。アーシェを睨み、なんとかたどりつこうと何度も何度も渦をかくが、かえってそのために身動きがとれなくなるようだった。石像の下半身が、腰が、それからついに胸までが沈んだころ、リーたちはようやく我に返る。
「追いかけてこーへんやろな…」
亀裂とおうとつだらけの市街地を駆けながら、アーシェが何度も神殿の方をふりかえった。目指すのは丘の上の王宮だ。あそこから来たのだから帰りも同じ場所だろう、というのがアーシェの主張だった。フリーマンも同じ考えらしく、反対を唱えなかった。
来たときにはびっしりと人骨で埋まっていた丘への道は地形変動のためかすっかりきれいになっていた。ただ、巨人がこしらえた階段のような段差ができていて、一段あがるのも一苦労だった。石像兵二体を倒し、満身創痍のフリーマンならなおさらだろう。
そう思ったのはリーだけではなかったらしく、アーシェが遠慮がちに申し出る。
「よかったらオレ、上まで背負いましょうか」
フリーマンがあからさまに眉根を寄せた。
「年寄り扱いするな。不愉快だ」
「そんなつもりはあらへんかったんですけど」
しゅん、とアーシェが肩を落とす。リーは黙って上の段から父へと腕を伸ばした。一度は不要とばかりに睨んだものの、最終的にはフリーマンがその手をとる。
そうして三名が王宮にたどりついた頃、リーは空が不思議に明るいことに気づいた。神殿に到着したのが正午をやや過ぎた頃だったはずなので不自然ではないのだが、この、今まさに日昇を迎えたようなまぶしさはどうだろう。もともと廃墟であったがさらに変わり果てた地上の姿に、リーは身がすくむような思いになる。終末の時とはこのような光景なのかもしれない。
にもかかわらず、丘の上の建物はなにごともなかったかのようにたたずんでいた。中は静寂に満ちていて、外の地響きひとつ聞こえてこない。
フリーマンの話では灯台にひらいたモンザ・ケビーラへの入り口は開きっぱなしだったということだが、記憶にある地点まで来てもそれらしいものが見当たらない。
「“鍵”は反応しとるのに」
呟きながら、アーシェが胸の紋をうらめしそうに見下ろす。黄金色の花はただ黙して咲いているばかりだ。
リーも考えてみた。来るときにあって、帰るときにないもの。
「魔法のランプ…?」
「! それや!」
アーシェが青ざめた。だが、魔法のランプは二人の目の前で消えてしまった。あの、口は悪いけれど面倒見のいい精霊はもう二人を助けてくれない。
このままマハラ・ヴィーラに帰ることはできないのだろうか。すわりこみ、頭を抱えたアーシェに、フリーマンがため息をついてみせる。
「落ち着きなさい。きみの花紋はきちんと反応をしている。手立てがまったくないわけではないはずだ」
「オトンさん……」
「私はきみの父親にも義父にもなった覚えはない」
うるうると見上げるアーシェに、フリーマンがぴしゃりと言った。フリーマンの仮説は理にかなっている、とリーは考える。考えながら、何気なく視線を王宮の奥へと移した。
(あ、)
柱のかげで何かが動いた。見間違えたかとも思ったのだが、まるでリーを誘導するようにちらちらと姿がのぞく。
なんだろう。ふらりとそこから離れたリーに、フリーマンもアーシェも気づかない。まるで別世界のようにしずかな白い柱の森をひとり、リーは走る。
『やあ、来たね』
柱からあらわれたのは長身の青年だった。したしげな笑みを浮かべ、少女のように小首をかしげて見せる。
『あいつが王嫁を選んだっていうから。話をしてみたくてね』
「あなたは、」
うつくしい調和された音楽をそのまま建築物にしたような世界にあらわれた、正体の知れない青年。人間離れした美しいかたちに、しかし警戒心がちっとも起こらなかったのは、彼の容姿のせいに違いなかった。
月色の長髪に神秘的な紫色の瞳。それから胸元の開いた長衣からのぞく、黄金色の花紋。ただし、リーの知っているものよりも花弁の数がやや多く、花自体も大ぶりだ。
リーは首をかしげる。
「アーシェ?」
『ちがうよ。“僕”をベースにしているから、たしかに共通点はいくつかあるかもしれないけれど』
青年がわらった。顔かたちが何しろ精巧な彫刻のようなので冷ややかな印象を受けるのだが、笑うととたんに人懐っこさが増す。それでいて全体からただようような老成した、アンニュイな雰囲気がある。精霊のようなひとだな、とリーは思う。
青年が自身の胸元をゆびさした。
『アーシェだったかな、彼を見ているならわかるだろう。イムラーンだよ。我らが友よ』
「友?」
『彼から祝福を贈られただろう、あれはね、ずっとずっと昔、ひとりのイムラーンがモンザ・ケビーラ最初の王に贈った友情の証なのさ。…当時、モンザ・ケビーラはまだ力のない小国で、東西を大きな国に挟まれ、いつ呑まれるともしれない恐怖におびえていた。イムラーンはどうにかして王の力になりたかった。三つある心臓のうちひとつを使って王に武器を与え、残り二つを武器の動力源として使うことを許した』
「武器」
『“イオール・ビアーマ”。壊してくれただろう、ハーディのかわりに。あれはどちらか一方の力だけでは砕くことができないんだ』
「…あなたは、“サハル”?」
すらすらと、まるで書物の文字を読み上げるような語り口。どんな学者も識者もかなわなかったというイムラーンの話を、リーは思いだす。
ハーディの記憶を封じ、ランプの精霊にしたひと。
『…どうかな』
青年はあいまいに首をかしげただけだった。王宮の入り口の方から壁の崩れるような音と振動が響く。青年がそちらを留めるように見、胸元の花紋に手を添えた。花紋が光ったことで、リーは彼の顔色が悪いことに気づく。
『僕はずっと疑問だった。なぜイムラーンとして生まれただけで道具と呼ばれなければならないのか。愛してもいない王のために胸を切りひらかれ、心臓を“献上”しなければならないのか。どれだけ呪ったかしれない。初代王のつくりあげた国の発展を願い、初代王に祝福を与えたイムラーンを。初代王が死したのちも彼の国と子を守りたいと願い、彼の血を引く者たちに心臓を使うことをゆるしたイムラーンを。大国として発展したのちも祝福をイムラーンに返すことなく利用し続けた王家の連中を』
「……」
『僕は自由になりたかった。“心臓の入れ物”となりさがったイムラーンを解放したかった。だけど先述の通り、あの忌々しい“贈り物”は一方の力だけで破壊することはできない。だから僕は一人の王子に近づき、復讐と自由を同時に手に入れようとした』
「ハーディを殺そうとしたの?」
「そうでなければ意味がないだろう? 一滴でも残せば僕たちは永久に解放されることはないんだ。利用するつもりだった」
青年がきれいに笑む。だけど、と言葉が続いた。
『あいつはあいつなりに王家とイムラーンの在り方に疑問を持っていた。そのためにあいつはありもしない罪をかぶせられ、投獄された。だから僕は計画を変更するしかなかった』
今度は二か所で崩落音が聞こえる。続いてもう一か所。青年の上体がかしぎ、額から汗がすべり落ちる。思わずリーが駆け寄ろうとするのを、青年は片手を挙げて止めた。
『愚かだと思うかい? だって別にあいつとはっきり約束したわけじゃないんだ…。だけど僕はずっとこの日を待ってた。あいつが帰ってくる日を、僕たちが解放される日をずっと待ち続けた』
ありがとう、と青年が言う。
『かつて王に許した二つの心臓がようやくかえってきた。残ったひとつの心臓は、真心は、最後の友よ、…あなたに』
白皙がさらに透けて、彼の後ろにある柱を映した。人間ではなかったのか。初めてそれに気づき、リーは驚く。
アーシェの、リーを呼ぶ声がこだました。今度は視界の端で天井が崩れる。
『帰り方がわからないのだったね、…ほら、彼の“鍵”を開けた。早くここを出るんだ』
「でも、あなたは、」
『初代王とひとりのイムラーンがかわした友情は、かつて彼らの愛したこの国とともに永久に眠るだろう。何人たりともそれをけがすことはできない、二度と』
行くんだ。
青年が言った。約束のように。
『伝えてくれないか、“おまえが僕たちを心臓と呼ばなかったから”だと』
誰に、とは、リーはたずねない。
うなずいて、青年に背を向けた。




