みんなの異常な愛情
1945年末 ロンドン
会議室の長い机には、ドイツ西部の地図が広げられていた。
アメリカ軍の軍政下地域を示す線、そこにはヘッセンからバイエルンに至る広大な地域、そしてドイツ南部の主要都市や主要交通路が含まれていた。
アメリカ合衆国が降伏した今、この地域を誰が管理するのか…………それが、本日の議題だった。
フランス代表団の前には、すでに詳細な占領案が用意されていた。
行政、鉄道網、商工業、食料供給、さらにはドイツ人労働者の管理に至るまで、要求事項は細かく整理されている。
対するイギリス代表団も、独自の案を持参していた。
ただし、両者の資料を見比べれば、その姿勢の違いは明らかだった。
簡単に言えば、フランスは何を得るかを考える一方で、イギリスはフランスに何を与えないかを考えていた。
会議の冒頭、フランス代表が地図を指し示した。
「我々は、旧アメリカ占領地域のうち、少なくとも南部および西部の主要区域をフランスの管理下へ移すべきと考えます」
彼の指先が、ライン川沿岸から南へと動く。
「我が国はドイツによる侵略を二度受けました。今後、同じ事を再び繰り返さない為には、ドイツ西部に対する恒久的な安全保障体制が必要です。加えて、我が国含む西欧の経済再建には、ドイツ南部の石炭、鉄鋼、輸送設備の確保が不可欠です」
「……それでは、貴国の具体的な要求は……」
イギリス代表が促すと、フランス代表は用意していた資料を開いた。
「第一に、ザール地方を含むドイツ西部の工業地帯について、フランスによる長期的な管理権を認めること。第二に、旧アメリカ占領地域のうち、バイエルン州を我が方の占領地域へ編入すること。第三に、ドイツの石炭および鉄鋼生産について、フランスの復興需要を優先的に満たす配分制度を設けること」
フランスの要求は、日米ソという押さえが無くなった影響か、事前の予想よりもかなり踏み込んだものだった。
イギリス側にとっても、フランスの事情は理解できる。
戦争によってフランスは疲弊し、国内の産業基盤と財政状況は不安定な状態だ。
さらにアメリカの降伏によって、これまで期待されていた経済援助や物資供給を得る事は叶わなくなっていた。
日本への債務も、フランスにとって無視できない重荷となるだろう。
だからこそフランスは、ドイツから得られるものを少しでも多く確保しようとしていた。
イギリス側の代表たちは、互いに視線を交わす。
「…………それでは、フランスはドイツ西部から南部にかけて、連続した広大な占領地域を持つことになります」
「我々は、それが必要だと考えています」
「もしやバイエルンの先……オーストリアにおける占領地も、フランスの管理下に置くお考えですか?」
「ドイツを抑え、地域の安定を維持するために必要な措置であれば、当然検討の対象となります」
イギリス代表は、ゆっくりと椅子へ背を預けた。
フランスは、ドイツ封じ込めという名目で中央ヨーロッパにまで影響力を広げようとしている。
「フランスの安全保障上の必要性については、我々も理解しています」
イギリス代表が、慎重に言葉を選ぶ。
「しかし、旧アメリカ占領地域や権益の大部分をフランスへ移管するという案には、いくつか問題があります。特に、ドイツ南部の主要交通路と工業地帯を一国が一括して管理することについては、慎重な検討が必要でしょう」
フランス代表は表情を変えなかった。
「では、貴国はどのような案を考えておられるのですか?」
「まず、暫定的な措置として旧アメリカ占領地を地域ごとに分けるのではなく、同一地域を英仏両国で共同管理することです。フランスの安全保障上の要求を満たすと同時に、ドイツ経済の再建に必要な最低限の機能を維持する。鉄道、河川輸送、石炭の配分については、共同管理機関を設置すべきです」
「共同管理機関……ですか」
フランス代表は、地図から目を離した。
「つまり、我々が得た占領地域の資源についても、イギリスの承認を必要とする、ということですか?」
「ドイツ経済は地域ごとに独立しているわけではありません。一国が大きく囲いこもうとすれば、他の占領地域にも影響が及びます」
「その理屈であれば、ドイツのあらゆる資源について、英仏両国が相互に拒否権を持つことになりますな」
フランス代表の声にはわずかな皮肉が滲んでいたが、イギリス側代表はその言葉を否定しなかった。
「少なくとも、欧州全体の安定に関わる事項については、そうあるべきでしょう」
会議室の空気が、わずかに硬くなる。
フランス側が求めているのは、単にドイツの一部を占領する権利ではなかった。
ドイツの工業力を自国の復興に利用し、国境の安全を確保し、さらには欧州大陸におけるフランスの発言力を取り戻すこと。
そのためには、ドイツの広域に拡がる資源と産業基盤、そして交通網を一体として掌握する必要があった。
そして、イギリスはその意図を理解していた。
フランスが強くなること自体は、必ずしもイギリスにとって不利益になる訳ではない。
問題は、強くなりすぎることだった。
勢力圏の空白、その空白を埋める国がフランス一国となれば、イギリスは大陸における影響力を大きく失うことになる。
かといって、イギリス自身が広大な占領地域を引き受ける余裕もなかった。
国内の財政は逼迫し、不穏さが増してきた帝国各地の維持にも莫大な費用が掛かる。
アメリカからの援助が途絶えた今、ドイツの占領行政に新たな人員と物資を大量投入することは、イギリスにとっても無謀な賭けになる。
だからこそ、イギリスは占領地の拡大を抑える代わりに、フランスの要求へ制限を加えようとしていた。
「……つまり貴国は、我が方への全面的な移管については否定的ということでしょうか」
「現時点で、無条件に承認することはできないという意味です……しかし、フランスの安全保障上の必要性を無視するつもりもありません。ザール地方における特別な管理体制を設けることについては、交渉の余地があるでしょう」
「バイエルンについては?」
「その帰属については、改めて検討する必要があります」
フランス代表は、わずかに眉を動かした。
「検討、ですか」
「はい。どちらにせよドイツ南部の行政再編による混乱は不可避であり、どのように安定を維持するかという問題もありますので」
会議は、その後も長時間に渡って続いた。
占領地域の境界線、鉄道の運用、資源配分、ドイツ人行政官の扱い等々。
双方は互いの譲歩を引き出そうと、細かな条件を積み上げていった。
フランスは、より広い占領地域を求め続けた。
イギリスは、その要求を完全に退けることはせず、しかしフランスが大陸で突出した地位を得ることを防ぐため、共同管理と相互監視の仕組みを繰り返し提案していく。
そうして会議が休憩に入ったのは、午後三時を少し回った頃。
地図上に引かれた境界線は午前中よりも増えていたが、合意に近づいたという実感は誰にもなかった。
廊下では、各国の外交官や軍人たちが小声で意見を交わしている。
その中で、あるイギリス外務省高官が、窓際に立つ同僚へ声を掛けた。
「日本人は、本当に何も言ってきてないのか?」
「えぇ、何も。『欧州の事は欧州諸国間で協議されたし』とのことです」
高官は、短く息を吐いた。
「日本にとっては、欧州がどうなろうと構わないのでしょう。少なくとも、今のところは」
高官は窓の外を眺めた。
「高みの見物、というやつか……」
アメリカは最早、ヨーロッパの勢力均衡に影響を与える存在ではない。
ソ連もまた、中央政府の消失によって、従来のような統一された国家として振る舞えるかどうかすら不透明になっている。
そして日本は、欧州の秩序再編にほとんど関心を示さなかった。
戦勝によって得た太平洋からインド洋にかけるアジアの権益、そして貿易上の優遇措置。
それらを確保した後、日本政府は欧州の占領地域やドイツの将来について、英仏に事実上の自由裁量を与えてしまったのである。
日本は今次戦争を通して、英仏両国に対して仲裁を強制できるだけの力を持つに至っていた。
少なくとも、両国が日本の意向を無視して行動することは、以前ほど容易ではない。
その日本が欧州に関与しない……つまり英仏が自由に交渉し判断できるということは同時に、交渉が拗れた際に両国の頭を押さえつける外部の仲裁者が存在しないという意味でもある。
その日の夕刻、イギリス代表団の宿舎では、少人数による非公式の協議が行われていた。
しかし、机の上に広げられていたのはドイツの地図ではなく、アフリカ大陸のそれだった。
フランス領アルジェリアから西アフリカに渡るフランスの植民地帝国、それを構成している広大な地域が、赤鉛筆で囲まれている。
「どのような形にせよ、フランスがドイツ南部を掌握すれば、彼らの大陸における影響力は大きく増すでしょう。そうなればイタリアもフランスに靡きかねません。イタリアがフランス側に着けば、地中海の制海権もそれに続き……アフリカにおける彼らの植民地との接続も強固なものとなるでしょう」
「しかし、現状のフランスだけで、その占領地域と海外領土を同時に維持できるとは思えません」
「ドイツから得られる資源を復興へ回せば、話は変わります。フランスは今よりも強い軍隊を持ち、植民地の統制を強化し、地中海から西アフリカに至る地域で、我々と対等以上に振る舞うようになるかもしれません」
「ならば、ドイツで譲歩させるだけでは不十分ということか」
「フランスが大陸で強くなりすぎるのであれば、その外側での均衡を模索する必要があります」
会議室に短い沈黙が落ちた。
やがて、別の高官が地図の西アフリカを指す。
「アフリカのフランス植民地に対して、何らかの手段を講じることは可能でしょうか」
それは、軍事侵攻を意味する発言ではない。
現地の政治勢力との接触、反仏感情を持つ有力者への秘密裏の支援、経済援助を装った影響力の拡大、あるいはフランスの植民地行政を不安定化させるための諜報工作活動。
いずれも、正面からフランスと衝突することなく、その行動を制約するための手段として考えられた。
「実行に移せば、当然フランスは我々の犯行を疑うでしょう」
「それでも、フランスによる大陸覇権を見過ごすよりかは、選択肢として検討する価値がある」
一方、フランス側でも、似たような議論が始まっていた。
会議を終えたフランス代表団の一人は、宿舎の執務室で、植民地省と外務省から届けられた資料を読んでいた。
その表紙には、イギリス帝国の海外領土と自治領を示す地図が添えられている。
インドでは独立運動が続いており、対してイギリスの統治能力は戦争によって疲弊している。
北アイルランドを含むアイルランド島では、統一を求める勢力とイギリスの支配を維持しようとする勢力との対立が続いていた。
帝国の各地に存在する反英派はイギリスにとって潜在的な負担であり、フランスにとっては外交上の選択肢となり得た。
「イギリスは、我々がドイツで主導権を握ることを恐れている。ならば、あらゆる手段で我が国を妨害してくることはまず間違いないでしょう」
資料を読んでいた外交官が言った。
「それならば、彼ら自身の帝国に対しても、我々が無関心である必要はない……とは考えられませんか?」
同席していた植民地省の官僚は、すぐには答えなかった。
「……インドの独立運動に接触するのですか?」
「現時点でそう決めたわけではありません。ただ、彼らがその海外領土に対して、どれほどの統制力を残しているのかを調査する必要はあるでしょう」
それは、直ちに反英勢力を支援するという決定ではないが……仮にイギリスがフランスの邪魔をするならば、直ぐにでも手を出すという意思の表れでもあった。
「もちろん、我々にも余裕はありません」
外交官は資料を閉じた。
「ですが、イギリスが我々を抑え込もうとするなら……我々もまた、イギリス人達が何を失いたくないのかを知っておく必要があります」
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同時期 ドイツ、ツォッセン
ソ連占領軍司令部
ドイツ東部を占領するソ連赤軍の最高指揮官であるワシーリー・ソコロフスキーの机には、何ヵ月も前から同じ問題を記した報告書が積み重なっていた。
食糧、燃料、輸送手段の不足、そして兵士たちの士気の低下。
どれも深刻さを増す一方で、解決に繋がる報告は一つとして届いていない。
「第61軍の一部は、鉄道沿線の倉庫を独自に管理下へ置いています。第69軍では、師団単位で部隊を分散させ、各地で食糧を確保する動きがあると。その過程で、大隊規模で司令部との連絡を絶った部隊も確認されています」
「連絡を絶った、か」
最高指揮官のなんとも言えない表情を前に、参謀長は返答に窮した。
意図的な反抗なのか、それとも通信手段の喪失によるものなのか、現時点では判別できない。
だが、ソコロフスキーにとっては、その違いすら無意味に思いつつあった。
師団長達は、もはや最高司令部の命令を待つつもりは無いらしい。
彼らは自分の部隊を維持するために、独自に行動するほかなかった。
食糧を確保できる地域へ移動し、燃料を持つ部隊と交渉し、場合によっては他の赤軍部隊と物資を奪い合う。
軍としての統一性は、旗や階級章の上にしか残っていない。
「綱紀粛正のために処分することも考慮すべきですが………しかし、現状処分を実行する部隊を送る余裕がありません」
参謀長の声には、疲労が滲んでいた。
ソコロフスキーは窓辺へ歩み寄り、薄暗いツォッセンの街並みを見下ろす。
通りを進むトラックの荷台には、兵士たちが身を寄せ合っている。
車体には泥がこびりつき、排気管から吐き出される煙が、冷え込んだ空気に冷やされていく。
「本国は今、どうなっている?」
「確定的な情報はありません。何れの軍管区とも通信は困難です。いくつかの地域では、地方の司令部や行政機関が独自に動いているとの報告もありますが……」
参謀長は言葉を切った。
「国家としての統一的な指揮統制は、確認できません」
ソコロフスキーは振り返らなかった。
ソビエトロシアの広大な領土では、鉄道網が寸断され、資源供給が止まった結果として、都市ごとに生き残りを懸けた動きが始まっているらしい。
地方の構成国や都市が独自行動を始め、行政機関が手元の資源を囲い込み、各地の部隊が独自の判断で移動する。
それが一時的な緊急措置なのか、中央政府の再建まで続く暫定的な分権なのか、あるいは国家そのものの分裂なのか。
ドイツからでは、判断する材料が足りなかった。
「我が軍の撤退は、可能か?」
「現状では不可能です」
参謀長は即答した。
「輸送手段を確保できません。自動車や鉄道が不足しています。徒歩で移動させるにしても、碌な補給も無く万単位の兵員と車両、重装備を維持したまま、一体どこまで後退できるのか……それに、そもそも何処へ撤退すべきなのかも判然としません」
撤退とは、単に前線から兵を引き揚げることではない。
兵を受け入れ、再編成できる“後方”が必要となる。
そんな余裕のある“後方”が存在するかどうかは、全くもって分からない。
仮にドイツの占領地域を放棄したところで、彼らを待つのが崩壊した祖国と、互いに連携を失った地方だけならば……それは撤退ではなく、自主的な組織解体にほかならなかった。
「では、我々はここに留まるしかないということか」
「少なくとも、現時点では」
ソコロフスキーは再び椅子に腰を下ろした。
ドイツに留まれば、いずれ食糧も燃料も尽きる。
部隊の独自行動は拡大し、現地住民との衝突も増えるだろう。
統制を取り戻そうとすれば、同じ赤軍の兵士たちに銃を向ける事態は避けられないかもしれない。
かといって徴発を強めれば、それこそドイツ人の反発を招く。
現地住民全てが敵に回れば、占領行政そのものが崩壊するだろう。
だが兵士達に何も与えず、命令だけで耐えさせることにも限界があった。
いっそのこと、赤軍の暴力によって反抗的なドイツ人達を無理矢理黙らせる事も考えたが、今の赤軍にはそのための力が足りない。
あらゆる無理を押し通せる程の大軍は、前任者であるジューコフと共に極東で消滅していた。
「各司令部へ、改めて通達を出せ」
ソコロフスキーは、静かな声で命じた。
「無許可の徴発と部隊移動を禁止する。ただし、現地の食糧確保については、軍政機関と協議のうえ、必要最小限の措置を認める。部隊同士の武力衝突は、いかなる理由があっても避けろ」
「承知しました」
……取り敢えず、命令を出すことはできる。
だが、それがどこまで届くのか、彼には分からなかった。
もし、ドイツでの徴発が限界に達したら。
もし、占領地域の住民から奪えるものが尽き、兵士たちが自分の部隊を維持するために、さらに強硬な手段へ走り始めたら。
そのとき、この司令部には何が残されるのだろうか。
参謀長が退室した後、執務室に静寂だけが残った。
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同時期 リトアニア
カウナス近郊の某農村
村の広場には、ソ連赤軍のトラックが二台停まっていた。
兵士たちは銃を肩に掛け家々を回っては、残っている穀物やジャガイモ、家畜を差し出すよう住民に要求していた。
徴発命令を携えた下士官が、通訳を介して村長に何かを告げる。
村長は拒否するように何度も首を振ったが、兵士の一人が銃床で村長を殴り付けると、やがて諦めたように納屋の鍵を差し出した。
「もう、これ以上は何もないんです。冬を越す分しか……」
老人の訴えに、下士官は苛立たしげに手を振った。
「貴様らをナチから解放してやったのは我々だぞ!この恩知らずめ!」
徴発に加わっている兵士たちの顔にも、余裕はなかった。
軍服は泥に汚れ、靴底が剥がれている者もいる。
食事は数日前から満足に支給されず、部隊内では脱走が相次いでいた。
上級司令部からの命令は途絶えがちで、士官らも次の補給がいつ届くのかを知らない。
兵士達が穀物の袋を運び出し、家畜を引き立てていく横で、泣き出した子供を母親が抱き寄せる。
老人はただ、空になっていく納屋を見つめていた。
────その時、村の外れに銃声が響いた。
最初の一発では、皆が呆気にとられ動けなかった。
続けて森の縁から短い連射音が鳴り響くと、トラックの運転席の窓が砕け散る。
「伏せろ!森だ!」
兵士達が叫びながら慌てて銃を構えたが、彼らに敵の姿は見えなかった。
彼らが右往左往している内に木々の間から断続的に銃弾が飛来すると、広場にいた兵士の一人が倒れる。
…………村の東側、森へ続く小道から、武装した男たちが姿を現した。
リトアニア自由軍。
赤軍の再占領以来、森や農村に身を潜めながらソ連の支配に抵抗を続けてきた地下武装組織の一隊だった。
彼らは地形を熟知し、村の周辺に赤軍が現れる時刻を見計らっていた。
徴発部隊が少人数で、しかも警戒を怠っていることを知ると、機を逃さず襲撃に踏み切ったのだ。
「撃て!奴らを近づけるな!」
下士官の怒号が響くが、赤軍兵士達の反応は鈍かった。
鉤十字の軍勢を相手にした嘗ての敢闘精神など既に無く、慌てて銃を構える者と、抵抗を諦めトラックの陰に身を隠す者が入り乱れる。
森からの銃撃が続くたびに、彼らは互いに意味の無い怨み言を怒鳴り合い、命令は銃声と罵倒の中へ埋もれていった。
自由軍の男達は広場の正面から押し寄せるのではなく、家屋と柵、そして木々を遮蔽物にしながら左右へ広がっていく。
赤軍の注意が一方向へ偏った瞬間、別の位置から銃撃を加え、徴発部隊の隊列はたちまち分断された。
「駄目だ!後退!後退!」
一人が銃を投げ出して走り出すと、隣の兵士もそれに続いた。
数日前から脱走を考えていた者もいたのだろう。
彼らにとって、最早ここで踏みとどまる理由は見当たらなかった。
下士官が拳銃を抜き、逃げる兵士を怒鳴りつける。
だが、その声を聞いて立ち止まる者はいない。
トラックの荷台に積み込まれていた穀物袋が地面へ落ち、家畜が縄を引きずりながら走り出した。
自由軍の攻勢はさらに激しさを増す。
赤軍の抵抗は、組織的な戦闘というより、恐慌に駆られた個々の逃走へと変わっていた。
兵士達は村の通りを駆け抜け、倒れた仲間を置き去りにしながら、森とは反対側の道へ散っていく。
徴発部隊の指揮官は最後まで部隊をまとめようとしたものの、残った兵士は僅かだった。
しかし、やがて彼らもまた村から逃げ出した。
銃声はまばらになり、戦闘の音は鬱蒼とした森の中に溶けて消えていった。
広場に残ったのは、逃げ遅れて倒れた兵士達と散乱した荷物、そして徴発されかけていた食糧だった。
自由軍の男達は、慎重に周囲を確かめながら広場へ集まった。
彼らの一人が赤軍のトラックを覗き込み、荷台に積まれた穀物袋を見つけると声を上げた。
「村の物を……村を、取り戻したぞ!」
その言葉に、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
村人たちが家々から顔を出し、恐る恐る広場へ近づいてくる。
先ほどまで納屋の前で立ち尽くしていた老人は、地面に落ちた袋を拾い上げ、しばらくそれを抱きしめていた。
自由軍の若い兵士が、仲間の肩を叩く。
「奴ら、逃げていったぞ。あのロシア人どもが、俺らを見て逃げたんだ!」
笑い声が起こり、誰かが拳を高く突き上げた。
別の男は、森の向こうを見据えながら、興奮を隠せない声で言った。
「やれる……俺達はやれるんだ!」
彼らはこれまで、夜陰に紛れて襲撃し、追跡をかわし、仲間を失いながら森へ戻ることを繰り返してきた。
赤軍の兵力と装備の前では、正面から勝利を得ることなど望めない。
抵抗を続けることそのものが、敗北を先延ばしにする行為だと考えていた者も少なくなかった。
だが、今は違う。
赤軍は退き、徴発された食糧は村へ戻った。
自由軍の仲間達は初めて勝利らしい勝利を手にしたのだ。
指揮官の男は、浮き立つ仲間たちを見回し、静かに頷いた。
「奴らの残していった武器と弾薬を集めろ。他に手の空いた者は負傷者の手当てを始めるんだ」
冷静に勤めるような命令だったが、その声には、以前よりも確かな自信が滲んでいた。
彼らは勝利を祝うように笑いながらも、手を休めることなく、広場の片付けを始める。
彼らの祖国には、まだ多数のロシア人がいる。
その内の幾つかは、何れ報復に戻ってくる可能性もあるだろう。
それでも、今この瞬間だけは、村の人々も、自由軍の兵士たちも、確かな手応えを感じていた。
────赤軍は、決して無敵ではない。
「聞いたか?エストニアやラトビア、それにフィンランドの兄弟達も立ち上がったらしい……真の勝利は近いぞ」
ソ連の支配が揺らぎ始めた土地で、その事実は銃弾よりも速く、人々の間を駆け巡ろうとしていた。




