または、世界は如何にして心配するのを止めたのか
1946年初頭
テキサス州ヒューストン
港に停泊する船の向こうから、見慣れない軍服を着た兵士たちが次々と姿を現していた。
小柄な背格好にカーキ色の野戦服、自分達とは異なる人種、そして白地に赤丸の旗…………日本軍、大日本帝国軍だった。
兵士たちは整然と桟橋を進み、港湾施設に並べられた車両へ向かっていく。
歩兵銃や機関銃を携行している者も多かったが、周囲へ威嚇するような動きはない。
上陸部隊はただ必要な装備を確認しながら、淡々と自分たちの仕事を進めていた。
その様子を、港の周囲に集まった市民達が遠巻きに眺めている。
「……本当に日本軍なのか?」
「そうらしい」
「戦争には負けたんだろ?」
「北部の連中がそう言っているだけだ」
人々の間に、落ち着かないざわめきが広がっている。
しかし、その表情に絶望の色は薄かった。
ヒューストン……テキサス州は比較的温暖な土地であり、冬季故の混乱とは無縁だった。
また物理的な距離もあることで、北部の大都市で起きていた破壊や物資不足、避難民の流入といった混乱も、ここではまだ遠い出来事に感じられている。
しかし、ラジオから流れてくるニュースは深刻だった。
主要都市が破壊されたこと、各地で物流やインフラが破綻していること、連邦政府が降伏したこと……
………そして、日本軍がアメリカ本土へ上陸を開始したこと。
それでも、それらの情報はヒューストン市民の日常を一夜にして変えてしまうほど身近なものではなかった。
その情報のギャップが、却って現実感を失わせてくる。
だからこそ、目の前に日本兵が現れて初めて、戦争の終わりを現実として意識する者もいた。
「こいつらが、俺たちを負かした軍隊なのか……?」
誰かが吐き捨てるように言った。
別の男が、低い声で答える。
「本当に負けたのか?このイエロー共に」
日本軍を見つめる市民たちの中には、敵愾心を隠そうとしない者もいた。
腕を組み険しい顔で日本軍兵士の列を睨みつける者や、家族を自分の後ろへ下げる者、何かあればすぐに逃げられるよう準備を始めた者。
しかし、誰も彼も進んで騒ぎを起こそうとはしなかった。
市と州の当局から、繰り返し自制を求める声明が出されていたからである。
「挑発行為を避けること」
「日本軍との無用な衝突を起こさないこと」
「治安維持を妨げないこと」
日本兵の側も、市民を相手にするつもりはないらしい。
兵士達が次々とトラックへ乗り込んでいくと、順次発車して港のゲートを通って市内に繰り出す。
彼らは港を出ると、そのまま西へ向かっていった。
市民たちは道の端に立ったまま、何事もなくその後ろ姿を見送っていた。
当然誰も手を振らないし、歓声もない。
ただ、遠ざかっていく軍用トラックを、複雑な表情で見つめている。
その光景を見ながら、一人の老人が小さく呟いた。
「……あれが、占領軍というものなのか」
ヒューストンより西に270km。
テキサス州第三の都市サンアントニオでは、広場や街角には市民が集まり、数十人……時には百人近い群衆ができていた。
誰かが声を張り上げる。
「俺たちはファシストの支配に屈するつもりはない!」
それに応じる声が上がった。
「南部の誇りを忘れるな!」
「テキサスを外国軍に渡すな!」
「政府が降伏したからといって、俺たちまで奴らの言いなりになる必要はない!」
言葉は次第に大きくなっていった。
彼らの多くは、軍事的な抵抗の具体的な方法を持っているわけではない。
銃を持っている者もいたが、それは農場や家庭に置かれていた猟銃や拳銃の類で、組織だった部隊とはほど遠い。
それでも、敗戦を受け入れようとする空気に対する反発だけは強かった。
北部で何が起きているのか、彼らも断片的には知っている。
遠い都市で起きた破壊と混乱は、ラジオを通じて伝わってきていた。
だが、それを知って尚、彼らの多くは自分たちの土地を外国へ売り渡す事を認めようとはしなかった。
「南部まで奴らの言いなりになる必要はない!」
その時遠くから、折り重なったエンジン音が聞こえてきた。
群衆の会話が途切れると同時に、道路の向こうに複数の軍用車両が姿を現す。
数台の先導車、さらにその後方に何台ものトラックが続いた。
荷台には、日章旗がはためいている。
「……日本軍だ」
誰かが呟き、群衆の間に緊張が走る。
先ほどまで叫ばれていた言葉は消え、その代わりに車列を見つめる沈黙が広がった。
日本軍の車列は、群衆へ近づいても速度を落とさなかった。
兵士たちは銃を手にしているものの、市民へ向けることはない。
運転手は前だけを見て、先頭車両の後を一定の間隔で追っていく。
そして車列は、市街地を抜け、市街地外れの一角にある米軍施設……フォート・サム・ヒューストン陸軍基地へ向かった。
門が開くと先頭車両が入り、続いてトラック、装甲車、小型車両が次々と基地の中へ消えていく。
最後の車両が門を通過すると、警備兵が門を閉じた。
群衆は、しばらく誰も動かなかった。
先ほどまで「南部の誇り」を叫んでいた男が、閉じられた基地の門を見つめる。
「……日本軍が、我が国の基地に入ったのか」
隣の男が答える。
「ああ」
その声には、先ほどまでの勢いがなかった。
だが、怒りが消えたわけでもない。
むしろ、目の前に外国軍の存在を突きつけられたことで、それまで漠然としていた反発が、初めて具体的な形を持ちはじめていた。
陸軍基地に日本軍が入城してから、数日が過ぎた。
その間、日本軍兵士は基地の外へほとんど姿を見せなかった。
朝になると車両が動き、倉庫や兵舎へ兵士が出入りする。
何らかの作業が続いていることだけは、市街地からでも分かった。
時折、軍用トラックが門を出て近隣の業者から食料や日用品を購入し、しばらくすると基地へ戻ってくる。
……………だが、それだけだった。
市当局への政治的な要求や、住民へ向けた声明は無い。
占領行政を開始するといった宣言も行われておらず、アメリカ人を集めて忠誠を要求することもない。
日本軍は、まるでサンアントニオという街そのものに関心がないかのように、自らの作業だけを続けていた。
「何をしてるんだ?」
街角で市民が話す。
「基地を使っているんだろう」
「それは見ればわかる……これからどうするつもりなんだってことだよ」
「イエローの考えることなんぞ知らんよ」
無言。
市民にとって、かえってその沈黙が不気味だった。
彼らは、敗戦国の市民として、ある程度のことを覚悟していた。
日本軍が街を管理し、警察を監督し、行政へ命令を出す。
場合によっては外出禁止令を発し、政府機関を接収して学校や新聞を監視する。
少なくとも、そういうものだと考えていた。
ところが、何も起きない。
数日後の朝、基地の門が開いた。
中から出てきたのは、日本軍の先導車。
続いて、その荷台に大量の箱や木箱、梱包された機材を積んだ車両が現れた。
その姿は、先日とは明らかに様子が違っている。
荷台はほとんど隙間がないほど物資で埋め尽くされている。
燃料容器、弾薬箱、通信機材、工具、医療品、保存食、予備部品。基地内に残されていた物資を可能な限り運び出しているようだった。
車列はゆっくりと基地を出ると、そのまま東へ向かっていく。
市民達は道路脇から、その車列を見送った。
「……帰るのか?」
「あっちはヒューストン……奴らが来たとこだ……」
誰も彼もが困惑している。
最後のトラックが門を出ると、基地の中から雑踏の音が消え去った。
日本軍が去った後に残されたのは、奇妙なほど静かな基地だった。
倉庫を開ければ、ほとんど何もない。
兵舎も空になっており、通信施設も運び出せる機材は持ち去られていた。
基地そのものを破壊したわけではない……ただ、使えるものをすべて持っていったのだ。
その光景を見た市民たちは、しばらく意味を理解できなかった。
「……本当に、いなくなったのか?」
「そうみたいだ」
そこへ、武装解除された元米軍兵士達が姿を現した。
市民たちは一斉に彼らへ詰め寄る。
「何があったんだ?」
「日本軍は何をした?」
「これから俺たちはどうなる?」
質問が次々に飛ぶ。
兵士の一人は疲れ切った顔で、それらを聞いていたが、やがて簡単に答えを出した。
「“旧連邦資産”を全部持っていったんだ」
「……何?」
「武器も、弾薬も、車両も、通信機材も。軍が持っていたものは、使えるものは『賠償』ってんで片っ端から回収していった」
「じゃあ、基地は?」
「空だ」
市民たちは互いの顔を見合わせる。
「…………それで終わりなのか?」
兵士は肩をすくめた。
「そうらしい」
「でも、日本軍はアメリカを占領するんじゃないのか?」
兵士は少しの間、黙ってから答えた。
「知らなかったのか?……奴ら、占領する気なんて端から無いぞ」
その言葉は、奇妙なほどあっさりしていた。
日本軍の手段があまりにも強力で苛烈だったからこそ、誰もがその先にある当然の展開を想像していた。
敗北した以上、日本軍がアメリカを直接支配する……そう考えるのが自然だった。
だが、彼らは武器を奪い、軍事施設の資産を回収すると、その他には目もくれず去っていった。
ただ、旧連邦政府が保有していた資産を賠償として回収するためだけに。
同じことが、全米各地で起きていた。
日本軍の部隊が旧米軍基地、もしくは連邦政府所有の施設へ入り、武装解除を受けた兵士から施設を引き継ぐ。
武器、弾薬、燃料、車両、航空機、通信機材、工業設備、備蓄物資──
それらは「旧連邦資産」として整理され、日本軍によって接収されていった。
しかし、その後に日本軍の行政官が残ることはなかった。
州政府や州議会に干渉せず、警察組織を日本軍の指揮下に置くこともない。
日本軍は必要なものを回収すると、そそくさと去っていく、それだけだった。
それは、占領という言葉から多くの人々が想像していたものとは、あまりにも違っていた。
そして、やがてその事実が各地へ伝わり始める。
日本はアメリカ合衆国を滅ぼした。
しかし、各州を直接統治するつもりがない…………その意味を最も早く理解し始めたのは、政治家達だった。
連邦政府が崩壊し、日本軍も州政府を上から押さえつけるつもりがない。
ならば、その間に残されている権力は誰のものなのか。
答えは、極めて単純だ。
各州政府自身である。
これまでアメリカという国家の構造は、州政府の上に連邦政府が存在することが前提だった。
その連邦政府が命令を出し、行政を動かし、州同士の利害を調整していた。
しかし今、その頂点が消えた。
その代わりに日本が新たな頂点へ座ることも無い。
上から押さえ付ける存在が、居ない。
その事実が広く知られた瞬間、アメリカ各地で、それまで辛うじて維持されていた『アメリカ合衆国』という“幻想”の枠組みが、音を立てて緩み始めた。
州政府は、自分たちの権限を以前より広く解釈するようになる。
州兵の再編を考える者が現れ、隣接州との直接交渉を始める者も出てくる。
軍事や外交、本来ならワシントンが決めていた諸問題について、州政府は自分で判断しなければならなくなった。
そして、その判断を止める者はいなかった。
その時になって、旧アメリカ人たちはようやく理解し始めていた。
自分たちは、日本に支配されることになったのではない。
逆に、国家を差配していた巨大な権力が消えた跡に残された広大な空白…………その空白を、どのように使うのか。
それを決める権利だけが、突然、彼らの手元へ戻されたのだ。
1946年3月、中国北部
某農村
その村は死んでいた。
家々の戸は開いたままになっているものが多く、土壁の隙間から冷たい風が吹き込んでいる。
道端に人の姿は無く、井戸や作業場にも、動くものは何も無い。
風が吹き戸板が軋んでも、人の声だけは聞こえない。
家々の屋根には雪が積もり、畑には収穫を終えた跡だけが残っているが、次の季節に向けて冬を耐える村人達の気配はなかった。
一軒の家では、粗末な寝台の上に老人が横たわっていた。
別の家では、母親と二人の子供が身を寄せ合うようにして横たわっていた。
寒さから逃れようと、最後まで互いの身体を温めようとしていたのだろう。
そして、誰も起きなかった。
村の中央にある井戸のそばには、空になった桶がいくつも置かれていた。
納屋にはほとんど何も残っていない。
隅の方にわずかに残された食物は、冬を越すための備蓄というより、次の徴税までに見つからないよう隠された最後の糧のように見えた。
この村がこうなったのは、突然の災害によるものではない。
1940年代の中国では、戦争による荒廃だけでなく、長年の内戦と、日中戦争による物資不足が人々の生活を圧迫していた。
そして現在、その上に新たな負担が加わっていた。
上海の陳公博政権……日本の支援によって成立した汪兆銘を継ぐこの政権は、国内の統治を維持する一方で、日本から求められる輸出物資を確保しなければならなかった。
日本側から要求された数量は、国内の生産力から見れば極めて重い負担だった。
燃料、鉱物、食料品。
日本への食糧や物資の『輸出』を求められた上海政府は、各地の地方行政機関に対して過大な徴税と物資の徴発を繰り返していた。
それに加え、途中で地方官吏がさらに米や金銭を取り立て、自分たちの取り分として横領することも珍しくなかった。
中央から課された数量に加え、役人が自分たちの取り分を上乗せする。
輸送費や管理費という名目で新たな負担を作り、徴収した物資の一部を横流しする。
中央政府がどれほどの量を要求したのか、そのうち何割が日本へ送られたのかそして……その途中でどれだけの物資と金銭が消えたのか。
農民の身分に知る術はなかった。
ただ、役人が来るたびに納屋が空になっていった。
その結果、村には冬を越すための食料さえ残らなくなる。
寒さが深まる頃には、村の食料庫はほとんど空になっていた。
家畜を売り、なけなしの衣服を売り、農具まで手放して、何も持たない家が増えていく。
食料品がなくなれば病人が先に弱り、老人や幼い子供たちが続いた。
やがて、村の中から人の姿そのものが減っていった。
逃げることのできた者は、まだ余裕のある親類や都市を目指して村を出た。
しかし、その途中で力尽きる者も少なくなかった。
残された者たちは逃げることすらできず、凍える家の中で最期を迎えた。
…………この村だけが特別だったわけではない。
同じような光景は、すでに各地で繰り返されていた。
やがてその村へ、とある一団が姿を現した。
街道の向こうから、十数人ほどの男たちが歩いてくる。
粗末な衣服に身を包み、肩から銃を提げている者もいたが、その足取りには盗賊特有の警戒心や浮ついた雰囲気は無かった。
彼らは村へ入ると、まず周囲を見回す。
「誰かいるか!」
一人が声を張り上げるが、返事はない。
別の男が家々を回り、戸を叩く。
「聞こえるか!誰か!いるなら出てきてくれ!」
それでも、村は沈黙したままだった。
男たちは顔を見合わせる。
慎重な手つきで村人を探して家の中を覗くたび、見つかるのは死者ばかりだった。
やがて一人の男が、村の中央へ戻ってきた。
その顔には、言葉にすることを躊躇うような表情が浮かんでいる。
「……ここも、全滅しているようです」
彼が報告した先には、一団を率いているらしい男が立っていた。
男はそれに応えず、ただ、村の奥へ歩き始めた。
仲間たちも何も言わず、その背中を追う。
やがて男は、一軒の納屋の前で足を止めた。
半ば開いていた扉から中へ入ると、そこには何もなかった。
空になった袋、壊れた木箱、割れた甕。
そして床には、わずかな米粒の欠片が散らばっていた。
男はしゃがみ込むと、指先でその米の屑をそっと掴み上げる。
ほんの僅かな量。
男は掌の上に乗ったそれを、しばらく無言で見つめた。
やがて、指がゆっくりと閉じていく。
少しの沈黙の後、男は立ち上がり外へ出る。
冷たい風が吹き抜ける村の向こう、東の空には薄い雲が広がっていた。
その方角に何があるのかを、彼は知っている。
傀儡たる上海政府と、その背後にいる日本。
そして、彼等の支配に苦しむ民草。
目の前に広がる死者達の姿は、単なる一つの村の悲劇ではない……この国そのものが、どこへ向かっているのかを示す光景だった。
男は東の空を睨む。
その眼差しは険しいが、迷いはなかった。
──────彼の名は、毛沢東。
彼は何も言わない。
ただ固く握り締めた拳を下ろし、しばらくその空を見つめ続けていた。




