この世は煉獄、皆亡者
1945年10月 ロンドン
冬の寒気が石造りの官邸の壁に染み込み、暖炉の火でさえ部屋の寒さを追い払えずにいた。
外では霧が垂れ込み、街灯の光がぼんやりと滲んでいる。
ロンドンは無傷だった。少なくとも、物理的には。
だが街を覆う空気は、ドイツより空襲を受けている頃よりも、更に重かった。
そして……机の上には、各地から届いた報告書が積み上がっている。
積まれた報告書を前に、一人の男は無言で紙をめくっていた。
ニューヨークへの核攻撃による北米東海岸の港湾機能の低下、オーストラリア諸都市の壊滅による混乱と無政府状態、大陸側ヨーロッパの不穏な気配……
沈黙の中、チャーチル首相と協力関係にある野党代表であり副首相、クレメント・アトリーは書類から視線を外し、疲れ切った目を指で押さえた。
「……アメリカからの輸入が完全に止まれば……いや、半減だとしても年が明ける頃には今の配給制度は維持できない」
低い声。
シカゴの崩壊、それが致命的だった。
あそこはアメリカの国内物流網における心臓と言っても過言ではない。
そこが喪われたとなれば……あとは彼の国の四肢が腐れ落ちていくだけだ。
「現在の配給量を維持できるのは、良く見積もって三ヶ月。カナダだけでは埋められない、インドからの輸送を増やすにしても、日本海軍が来れば……」
暖炉の火がぱちりと鳴る。
「穀物、野菜、肉……何もかもが足りない。国民は戦争に耐えたが……飢えには耐えられない」
暖炉の前に立っていた首相、ウィンストン・チャーチルは、葉巻を咥えたまま振り返る。
「耐えてもらうしかない。今までもそうしてきたように」
「今までとは違う……!」
アトリーは机上の紙束を軽く叩いた。
「アメリカはもう世界の倉庫ではない。インド航路は危険地帯になり、豪州は輸入はおろか救援一つ送れない。ドーバーの対岸もこれから先どうなるか分からない。我が国の土台そのものが崩れかけているんだ」
露骨に焦りを見せるその様子に、チャーチルは返事をせず窓の外の夜霧を見た。
「……中立国経由で接触があった」
ようやくチャーチルが口を開く。
アトリーが顔を上げ、チャーチルは机の上の封筒を指先で押した。
「日本から、だ」
部屋の空気が僅かに張り詰める。
「…………内容は?」
「終戦に向けた提案。いや、“交渉”と呼ぶべきかもしれんな」
チャーチルは苦々しく笑った。
「日本は、オーストラリアで発生した難民を英国が全面的に受け入れるならば─────インドの統治権について、譲歩する余地があると言ってきた……表現は曖昧だが、連中は“英国がインドを維持できる形”での戦後を認めると言っている」
アトリーが眉を寄せる。
「難民?」
「難民という表現では足りんな。事実上、残りのオーストラリア全人口だ」
部屋の空気が止まった。
暖炉の薪が崩れ、小さく火の粉が跳ねる。
オーストラリアの現状は全てが灰と煙の中にあり、現地政府ですら正確な生存者数を把握できていない。
「……何だと?」
「驚くのも無理はない」
チャーチルはゆっくり椅子へ腰を下ろした。
「連中は豪州を死の大陸に変えた。だが同時に、そこに残った生存者を抱える意思は無いらしい」
「だから、我々に押し付ける……と?」
「インドと引き換えに、だ。その為ならば、インド洋の安全な通行を保証するとも言ってきた」
チャーチルの指が、インド関連の報告書へ向く。
「連中は理解している。我々が今、最も必要としているのは……食料だ」
アトリーは沈黙した。
インド、英国を支える巨大な穀倉。今や、大英帝国が生き延びるための最後の綱。
理解はしていた……ベンガルは被害を受けたが、インド全体が死んだわけではない。
インドという大英帝国の版図の中で、まだ大量の穀物を動かせる余地は存在する。
そして、英国本土には今まさにそれが必要だった。
だが同時に、最も危うい土地でもある。
「……インド人が黙って従うと思うか?」
アトリーは低く言った。
「例え日本が我々の船を素通りさせたとして……この状況で徴発を強めれば現地では暴動が起きる。独立運動も過激化する。それに飢餓が広がれば、我々は統治どころではなくなるぞ」
チャーチルの目が細くなる。
「ならば、我らの帝国を飢えさせるか?」
「そうは言っていないだろう」
「同じことだ」
葉巻の煙が重く漂った。
「今、帝国が弱っていると示せば、奴らは必ず足元を見る。民族主義者も、地主も、宗教勢力もだ。我々が状況に屈したと理解する」
チャーチルの声は次第に硬くなる。
「アメリカは沈み、ソ連は消え……そして欧州の秩序は崩壊した。そんな時に帝国最大の財産を手放せば……大英帝国は、終わりだ」
アトリーは視線を落とした。
机の上には、新たな法律の試案が書かれた書類が乗っている。
危機を口実に穀物等の更なる徴発を可能とする、冷酷で傲慢な書類。
「……オーストラリアの人口全てを受け入れるなど、あまりにも無謀だ」
「だが、日本はそれを条件にしてきた」
「しかし、我が国にはその様な大人口を一度に受け入れられる土地も余裕も──」
前のめりになってなるアトリーを制したチャーチルが、自身の声をその言葉に被せる。
「これはただの植民地政策の話ではない、アトリー。この瞬間にも、国家の寿命は削られている……これは大英帝国そのものが生き残れるかどうかの話なのだ………それに、土地なら近くに存在するだろう……インドという土地が」
「………!」
目を見開いたアトリーの顔が映すのは、驚きか絶望か。
しばらくして、疲れたように椅子へ深く沈み込んだ。
「……日本を、信用しているのか…?」
「いいや全く」
チャーチルは即答した。
「だが、それは何時もの事だろう?」
暖炉の火が揺れる。
「……連中は今、世界から恐れられている。だからこそ、その恐怖を最大限活用し事を成そうとしている」
「そして我々も、それを利用すると?」
「……生き残るためにな」
長い沈黙、外では霧笛が鳴っている。
ロンドンは……イギリスにはまだ、自分の足で立つ余地が残されているように見えた。
そして、その手には“採算の取れない赤字事業”から“苛烈な攻撃から守り抜いた至宝”に看板を変えたインドの大地が。
……だが、その足元の世界は既に崩れていた。
同月 アルゼンチン
ブエノスアイレス
大統領府の廊下には重い沈黙が漂っていた。
外では物々しい軍靴の音が断続的に響き、武装した兵士たちが要所を固めているものの、銃声は一発も聞こえない。
権力の移行は、少なくともこの建物の中では、流血を伴わない静かな緊張の中で進んでいた。
大統領執務室の扉が開き、数名の将校を伴ったアルゼンチン陸軍大臣および副大統領……フアン・ペロンがゆっくりと室内へ足を踏み入れる。
執務机の向こうでは、現大統領エデルミロ・フリアン・ファーレルが立ち上がることもなく、そのまま静かに来訪者を見つめていた。
互いにお互いを知る者同士である……だからこそ、この場に野暮な説明は必要なかった。
しばらく沈黙が続いた後、ペロンが口を開く。
「────閣下」
短い呼び掛けだった。
ファーレルは静かに頷く。
「……来ると思っていた」
その声には怒りも驚きも同居しておらず、ただ、深い疲労だけが滲んでいた。
ペロンは一歩前へ進む。
「軍の支持は、すでにこちらにあります……政府内も同様です。これ以上、大統領閣下が政権を維持することは困難でしょう」
言葉は丁寧だったが、その意味は明確…………所謂、退陣要求である。
ファーレルは机の上へ置かれた新聞へ目を落とす。
そこには北米各地の壊滅、世界経済の混乱、そしてアルゼンチン国内で高まる政府批判が大きく報じられていた。
彼は新聞を静かに閉じる。
「……まさか……………戦争の行く末が、このような形になるとは思わなかった。」
誰へ向けた言葉でもなかった、小さな呟き。
アルゼンチンは半年前、日本に対して宣戦布告していた。
丁度世界が今のように壊れ始める、まさにその時に。
形だけの対日宣戦布告……当時は外交上の判断として、多くの者が妥当だと考えていた。
連合国との関係を保ちながら、実際の軍事行動には踏み込まない。
…………誰もが、それで済むと思っていた。
しかし世界は、その想定を容易く踏み越えてしまった。
日本軍による防御不可能の驚異的な攻撃によってアメリカは国家存続の危機へ追い込まれ、その余波は南米にまで及び始めている。
かつて安全牌だと思われていた外交判断は、今や政権そのものを揺るがす重荷へと変貌していたのだ。
ファーレルはゆっくりと立ち上がり、窓の外へ目を向ける。
「私は…………もっと穏便に終わるものだと思っていた」
ペロンは何も言わず、否定も肯定も表さない……ただ静かに聞いていた。
ファーレルは帽子を手に取る。
「まぁ、そうだな……私の存在で、祖国を危険に晒す訳にはいかないだろう」
彼はペロンの方を向く。
「退陣要求を受け入れよう」
室内の空気がわずかに緩み、将校達は無言のまま姿勢を正した。
ファーレルはペロンの前まで歩み寄る。
「……祖国を、頼む」
その一言だけを残し、ゆっくりと執務室を後にした。
扉が静かに閉まる。
ペロンはその閉じられた扉を数秒間見つめ続ける。
その表情に勝者の高揚は無く、むしろ、旧友を見送るような複雑な感情が浮かんでいた。
「……気の毒な人だ」
そうして、誰にも聞こえないほど小さく漏らす。
しかし感傷に浸る時間はなかった。
ペロンはすぐに振り返り、待機していた将校と政府官僚へ鋭い視線を向ける。
「時間がない……あらゆる外交ルートを総動員しろ」
机上の地図を指で叩く。
「日本との関係修復を最優先事項とする。どんな手を使ってでも、国交正常化の筋道を立てるのだ」
部下の一人が頷く。
「至急、外務当局へ伝達します」
ペロンは窓の外を見る。
ブエノスアイレスの街並みは、まだ平穏を保っている。
しかし世界は、わずか数か月で自らが寄って立つ常識そのものを書き換えてしまった。
これまでの外交の前提も、南米の均衡も、遠い大国に依存する安全保障も、すべて揺らいでいる。
その新しい世界でアルゼンチンが生き残るには、過去の判断に固執する余裕は残されていなかった。
アルゼンチン10月政変……当人達にどのような想いがあったにせよ、その内心は歴史に残らない。
ただ確実なのは、この政変が後も埋め火のように燻り続ける南米諸国の混乱…………その始まりの一端になったという事だけだった。
10月上旬
中国 上海
会談室には重苦しい空気が流れていた。
机の中央には分厚い資料の束が積まれ、その最上段には、日本側が新たに提示した経済協力要求の一覧が置かれている。
日本軍の傀儡政権である汪兆銘政権……その首班たる汪兆銘亡き後、残されたその政権は陳公博へと受け継がれた。
政情の急激な変化があってか、それでも変わらずに外交部長を任されていた彼……褚民誼。
資料をめくっていたその手が、ぴたりと止まる。
彼はもう一度数字を見返し、見間違いではないことを確かめるように静かにページを戻した。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
その視線の先には、日本側全権として出席している外交官、重光葵がいた。
褚民誼はしばらく言葉を失ったまま資料を見つめていたが、やがて静かに口を開く。
「……重光閣下……この数量は、誤記ではないのですか」
重光は短く頷く。
「誤りではありません」
「…………」
褚民誼は深く息を吐き、机の上へ資料を置き直して両手を組む。
「率直に申し上げます……これは、とてもまともな輸出要請とは、到底呼べません」
彼は資料を指先で軽く叩く。
「穀物、石炭、鉄鉱石、非鉄金属材料、燃料、家畜……どの項目も、中国国内の需給へ直接影響する規模です」
明らかな困惑の色、重光は黙って耳を傾ける。
「これだけの数量を短期間で供出すれば、地方経済は大きく混乱します………徴発と受け止められても不思議ではありません」
そう語る褚民誼の声は、徐々に重みを帯びていった。
「農村では反発が起きるでしょう。都市でも物価は上昇します。未だに重慶には抵抗勢力が籠っており、北では共産主義者も根強い……地域によっては暴動はおろか、反乱へ発展する危険性すらあります」
室内は静まり返る。
日本側随員も、中国側出席者も誰一人として口を挟まない。
しばらく沈黙が続いた後、重光が静かに答える。
「…………ご懸念は、理解しております」
その口調は穏やかだった。
褚民誼は眉をひそめるが、重光は構わず言葉を続けた。
「しかし、日本政府の判断は変わりません…………現在の対米戦争において我が国は、貴国側へ大きな軍事的負担を求めておりません。大規模な兵の動員も、対米作戦への直接的な参加も要求していない…………その前提に立てば、東亜民族連帯の為、戦争遂行への協力は、経済・物資の分野でお願いせざるを得ません」
褚民誼はすぐに応じる。
「しかし、それにしても限度があります。我が国は体こそ大きいが、それでもこれは……余りにも過大すぎる……」
「……承知しております」
重光はわずかに目を伏せる。
その返答は、相手の懸念を否定するものではなかったが、しかし、要求を引き下げる意思も示していない。
「しかし、これは政府として決定された方針です。…………私は、その内容をお伝えする立場でしかありません」
再び沈黙が訪れる。
褚民誼は椅子にもたれ、小さく首を振った。
「貴国は、この要求が中国社会へ与える影響を理解した上で、それでも必要だと判断されたのですね」
重光は数秒考えた末、静かに答えた。
「……はい、そう考えて頂いて構いません」
その短い返答だけが、会談の結論となった。
数時間後。
会談を終えた重光を乗せた車は、静かな街路をゆっくりと走っていた。
一定の速度を保ったまま石畳を進み、窓の外では市場へ向かう荷車と、それを追い越す自転車、道端で客を呼び込む商人たちの姿が静かに流れていく。
簡素ながらも市場には人々が集まり、露店には数々の品物が並び、子どもたちが路地を駆け回っている。
第二次上海事件以来、軍による抑圧を免れず疲弊した上海……それでも前線からは遠く離れている故か、目の前にあるのは、戦争の薫りを感じさせない平穏の光景だった。
重光はその景色を眺めながら、先ほどの会談を反芻していた。
───褚民誼の危惧は正しい。
あの規模の輸出を実施すれば、中国国内が混乱する可能性は高い。
地方経済へ大きな皺寄せが行くことも避けられないだろう。
そうすれば、当然の如く反乱に結び付く。
それは外交官として、容易に想像できる…………だからこそ、理解できなかった。
なぜ政府は、ここまで危険な方法を選ぶのか。
戦争が国家へ極限の決断を迫ることは理解している。
しかし、その決断が将来どのような禍根を残すのかを、誰も考えていないはずはない。
それでも、日本政府は方針を変えようとはしない。
いや────変えようとしないのではない。
そのような判断を下す政府へ変わってしまったのだ。
重光は小さく息を吐く。
この数か月、日本の政界では表立った大騒ぎになることこそなかったものの、静かでありながら極めて大きな政変が進んでいた。
新聞の号外が飛び交うような出来事ではない。
先の事件の様に軍が首都を制圧した訳でもなければ、宮城前に扇動された群衆が溢れた訳でもない。
しかし、官庁の廊下を歩けば誰もが気付く。
昨日まで決裁していた人物が姿を消え、発言力を持っていた者が会議へ現れなくなり、代わりに見慣れない顔ぶれが要職へ座っている。
対米戦争を指導してきた旧来の有力者たちは米英相手に「勝ち切れなかった」現状と─────東京、大阪への攻撃という結果を突きつけられ、その影響力を急速に失っていった。
勇退か病気療養、もしくは引責辞任か。
形はともかくとして、彼等は権力の中心から静かに押し出されていった。
その空席へ入り込んだのは、あの新型爆弾の開発計画へ深く関わっていた技術者や軍人と、それに近しい官僚たち、そして彼らを支持する新たな政治勢力だった。
戦局を覆したという一点だけで、彼らは巨大な発言力を手に入れた。
軍事、経済、政治……あらゆる分野で、その影響が広がり始めている。
重光自身は、その変化の渦中にありながら外務大臣という立場へ留め置かれた。
国外との交渉経験を持つ者が他に少ないという事情もあるのだろう。
職責は変わらず、肩書も変わらない。
しかし、省内で回ってくる決裁書類も、会議で交わされる議論も、半年前とはまるで別の国のもののようだった。
前例も伝統も何もかもを無視した案件が、驚くほど短時間で決裁される。
以前なら政治的影響を憂慮して見送られた要求が、戦争遂行を理由に次々と実行へ移される。
まるで国家全体が、自国の最終的な勝利という一点だけを見据え、それ以外のあらゆる損失を受け入れる覚悟を固めてしまったかのようだった。
重光が窓の外へ目を向けると、異国の街並みは静かに流れている。
穏やかな景色とは対照的に、その支配者たる日本の内地では、政経軍のあらゆる事柄が、音を立てずにその姿を何か別の……形容しがたいモノへと変化している。
外交官として世界各国を見てきた彼には分かっていた。
国家というものは、とあるひとつの切っ掛けを理由に大きく姿を変える事がある。
そして今、日本という国は、かつての延長線上では測れない国家へ変貌しつつあるのではないか。
車は何事もなかったかのように走り続ける。
しかし彼の胸中には、祖国そのものが未知の領域……決して入ってはいけない所へ足を踏み入れてしまったのかもしれないという、拭い切れない違和感だけが静かに積もっていた。
同時期 シンガポール市内
会談室の扉が静かに閉まる。
廊下へ出たスバス・チャンドラ・ボースは、足を止めることなくゆっくりと歩き始めた。
窓の外には、湿気を帯びたシンガポールの港が広がっており、停泊する船の煙突から立ち上る煙が夕暮れの空へ静かに溶けていた。
その湿った空気は廊下から流れ込み、軍服の襟元にまとわりつく。
「……もはや、日本軍はアテに出来ないか」
思わず漏れた独り言は、自分自身への確認でもあった。
…………日本は変わった。
数か月前、静かな政変があったという情報は耳にしていた。
対米戦争を主導しながら勝利を掴み切れなかった旧来の指導者たちは、表舞台から次々と姿を消し、新たな政権は国家の存続そのものを第一に据えている。
その変化は、今日の会談ではっきりと形になって現れた。
「日本は、もはやインド独立のために直接的な軍事行動を行う余力はない」
その言葉は、冷淡というより率直だった。
長年に及ぶ戦争で、日本という国家そのものが限界へ近づいている。
故に、インドへ軍を送り英国と全面的に戦うことはできない。
数年前の日本ならば、もっと大きな約束を口にしただろう。
しかし今日の日本に、これ以上戦線を広げる余裕は残されていない。
だからこそ、日本政府はインド独立運動への直接介入から退くこととした。
その代わりに差し出されたものは、現実的な妥協だった。
機材や資金の援助といった秘密裏の支援の継続、そして独立が実現した際の速やかな外交的承認の約束。
独立の日が訪れたなら、日本はインドを正式な国家として認める──その一文だけは、驚くほど明確だった。
ボースは苦笑した。
彼らの真意くらい、理解できる。
インドに兵力と資金を縛り付けさせ、本国への食料や物資の流れを断ち切り、英国を疲弊させる。
大方、それが目的だろう。
日本側にとってインド独立闘争の激化は、そのための手段でもある。
…………しかし、それで構わない。
国家とは、そういうものだ。
自国の利益を第一に考える。それを責める資格は誰にもない。
問題は、その利益がどこで一致するかだけだ。
窓辺まで歩き港を見下ろせば、海の向こうには故国がある。
飢えに苦しみながらも耕作を続ける農民、徴発に耐える村々、独立を夢見ながら、今日も英国の旗の下で働かされる何千万もの人々。
彼らを救うのは、日本軍ではない。
いや、どの外国でもない。
「……結局、インドはインド人自身の手で勝ち取るしかない」
世界は混乱している。
大国同士が互いに傷を負い、これまでの国際秩序は音を立てて崩れ始めている。
だからこそ、この混乱は同時に機会でもあった。
帝国が弱れば、その隙間から新しい国家が生まれる。
その機会を生かせるかどうかは、我々インド人自身に懸かっている。
これまでは、日本という大きな力を頼りにしてきた。
だが、その時代は終わる…………いや、終わらせなければならない。
外国の軍隊が与えた独立は、いつか外国の事情によって左右される。
しかし、自らの手で勝ち取った独立ならば、その責任も誇りも、自分たちのものになる。
本当にインド人の為の国を築くのであれば、その一歩は自分たちの足で踏み出さなければならない。
だからこそ、自分たちが踏み出すのだ。
廊下の向こうから、副官が静かに歩み寄ってきた。
「閣下、皆がお待ちです」
一度だけ会議室の扉を振り返る。
「…………行こう」
そして、前を向いて歩き出す。
これから先、日本は味方であり続けるかもしれない。
あるいは、いつか利害が分かれる日も来るだろう。
それでも構わない。
独立は、誰かに与えられるものではない。
インド人自身が、自らの意思と血と覚悟で築き上げるものだ。
その時に初めて、その独立は誰にも奪われることのない、本当の意味での独立になるのだと、彼は静かに確信していた。




