10月
薄暗い作戦室には幾枚もの海図が掲示され、赤や青の駒が地図上の太平洋全域へ置かれている。
しかし自軍を示す駒は日を追うごとに数を減らしていき、かつて太平洋を埋め尽くしていた海軍戦力は、今では空白が殆どとなっていた。
部屋の中央では海軍作戦部長アーネスト・キングが腕を組み、海図を見つめている。
その向かいには、海軍大将ウィリアム・ハルゼー・ジュニアが立っていた。
手渡された書類へ目を通したハルゼーは数秒間黙り込んだ後、机へ書類を叩きつけた。
「────冗談だろう。これが本気の作戦だと言うのか?」
部屋へ低い声が響くが、キングは表情を変えない。
「あぁ、本気だ………」
「大西洋艦隊まで引き抜いてか?」
「その通りだ。太平洋艦隊の残存戦力と合流させ、日本本土へ突入する」
ハルゼーは思わず笑うが、しかし、それは愉快故のものではなかった。
「正気じゃない。本土の沿岸を丸裸にするつもりか?……しかも相手は、一機ごとに新型爆弾を積んでいる可能性もある敵だ。戦闘になれば、敵は陸上機一編隊でもこっちを殲滅できるんだぞ!」
「だからこそ全艦隊を糾合し、持てる全てを叩きつける」
ハルゼーは机へ身を乗り出した。
「多少戦力を集中したところで結果は同じだ!我々は航空優勢を取れない!制海権も同じだ!そのうえ敵は都市を一撃で吹き飛ばす兵器を持ち、それを対艦攻撃にも使う!そんな相手に真正面から突っ込めと言うのか!」
作戦室が静まり返り、誰も二人へ口を挟まない。
キングはゆっくりとハルゼーを見る。
「…………ならば、他に方法はあるか?」
短い問いだった。
「沿岸防衛を続けるか?敵は既に太平洋を飛び越え本土の全域を射程に収める兵器を実用化している。弾頭は新型爆弾で、それを防ぐ術は発射基地を直接叩く以外存在しない」
ハルゼーは拳を握った。
無謀な作戦を展開する彼の話に反論したいが、その反論は自分でも思いつかなかった。
キングは静かな口調のまま続ける。
「知っているか?日本は我が国に無条件降伏を要求してきている………ニューヨーク、シカゴ、フィラデルフィア、デトロイト、ロサンゼルス……日本が攻撃したこれらの都市は、いずれも我が国の大人口地域、いや、トップ5の大都市だ。奴らはアメリカ国民…ひいては合衆国そのものを徹底的に消すつもりだ。そして、無条件降伏では、国民の安全や権利は保障されない……」
ハルゼーはゆっくりと椅子へ腰を下ろすと、両手で額を押さえ、深く息を吐いた。
「………この作戦で、日本の攻撃能力を撃滅できる保証は?」
「無い」
即答だった。
キングは一歩前へ出る。
「帰って来られる保証もない……だが、座して待っていれば合衆国は確実に消滅する。日本は好きな時に好きな場所を攻撃し、我々は帰るところの無い艦隊からその残骸を眺めるだけになる……それが傍観の末の敗北だ」
長い沈黙が流れる中、作戦室の時計だけが規則正しく時を刻んでいる。
ハルゼーは歴戦の提督だった。
幾度となく危険な作戦を指揮してきた。
しかし、目の前にある計画は大胆という言葉では足りない。
艦隊……いや、合衆国海軍そのものを賭け金にした、一度限りの勝負だった。
しばらくして、ハルゼーは顔を上げる。
「……私は、反対だ」
その声には、先ほどまでの激しさはなかった。
キングは黙って聞いている。
「今でも、この作戦は無謀だと思っている。だが………代わりの作戦を示せと言われれば、答えられん」
再び沈黙が訪れる。
「命令なら従うが、成功すると約束はできない。合衆国の為に最善は尽くすが……それだけだ」
キングは静かに頷いた。
「…………それでいい」
作戦室を出るハルゼーの足取りは重い。
彼はなお、この計画が正しいとは思えなかった。
だが同時に、この戦争はすでに「勝算のある作戦」を選べる段階を過ぎ、「まだ可能性が残る作戦」に賭けるしかない局面へ追い込まれていることも理解していた。
その現実だけが、彼に最後の同意を口にさせたのであった。
1945年10月中旬
ドイツ、米軍占領地域バイエルン州
ミュンヘン市庁舎
灰色の雲が低く垂れ込める朝。
かつてドイツ国防軍の兵舎だった建物は、今ではアメリカ軍政府の司令部として使われていた。
廊下には慌ただしく将校や軍政官が行き交い、机の上には処理しきれない書類が山積みになっている。
しかし、その多くは決裁を待ったまま止まっていた…………決裁すべき本国が、沈黙しているからだった。
会議室では数名の将校が地図を囲んでいた。
壁にはアメリカ軍占領地域の行政区画図が貼られ、各都市の治安状況や食料備蓄量が細かく書き込まれている。
その前で、一人の高級将校が静かに口を開いた。
「……ワシントンから、追加の連絡は」
通信担当将校が首を横へ振る。
「ありません……輸送船も、先月に入港したきり来ておらず、本土の詳細な状況は不明です……」
部屋の空気が重く沈む。
この時代の大陸間通信の多くは海底ケーブル経由の電信によって行われており、彼等が利用していた北米東海岸と欧州を繋ぐ海底ケーブルの結節点が………ニューヨークであった。
直接国境を越えてカナダ経由での通信は可能なものの、それにしても往時のような頻度でのやり取りは困難だった。
高級将校は机へ視線を落とす。
「我々の物資はどのくらい持つか」
兵站担当士官が資料を開く。
「燃料は、現在のペースでは凡そ二か月……節約すればもう少し延ばせます。武器弾薬は、治安維持のみならば当面は大丈夫です。食料は……既に現地調達の割合をかなり増やしており、地域の生産力に左右されます」
誰も驚かなかった。
強大な合衆国陸軍とはいえ、今は所詮、本国から遠くヨーロッパの内陸部に孤立した軍団でしかなく、十分に予想できる数字だった。
………問題は、その先である。
「……しかし、本国への帰還も当分は不可能です。本土に大損害を受けている場合、我々を帰還させる為の船団を派遣する余力は無い筈です。英仏も、それだけの船をこちらに貸与する余裕は存在しないかと……」
「………つまり……ここにいる全員が、いつまでドイツに留まらなければいけないのか、分からないと」
誰も否定しない。
兵士たちの間でも同じ噂が流れていた。
『もはやアメリカへ帰れないかもしれない』
まだそうと決まった訳ではないが、その言葉は日に日に現実味を帯び始めている。
高級将校はゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
机上の占領行政報告書へ目を通しながら、低い声で言う。
「……この先、我々だけで統治することは困難かもしれんな」
何気なく放たれた一言で、部屋に沈黙が広がる。
「本国から人員も、物資も、予算も来ない。この状況で軍政を続ける余裕は無いだろう」
法務担当の軍政将校が資料を差し出す。
「各市の行政職員ですが、審査を終えた者から復職を始めています。ですが……十分に職員を選別する余裕は無く、非ナチ化は不十分とならざるおえません」
「……まぁ、それも止むをえんだろうな。構わん。可能な限り早急に、行政を現地に戻していく」
「しかし……旧体制の関係者が多くなりすぎると政治的な問題が……」
若い佐官が慎重に尋ねるのを、高級将校は静かに遮った。
「分かっている。だが、政治的なアレコレに拘って行政が躓けば本末転倒だ」
彼は窓の外を見る。
復旧工事が続く街並みでは、ドイツ人労働者たちが瓦礫を運び出していた。
「行政は、行政の専門家に戻す。無論、監督は続けるが………日常業務まで我が軍が抱え込む余裕は、もう無い」
その言葉に、部屋の全員が静かに頷く。
それは紛れもなく、遠い地で生き残るための判断だった。
本国から絶え間なく補給が届き、命令が下り、必要なら部隊を交代させられる………そんな前提は、既に望めない。
今や彼等に求められているのは、占領地を管理することではない。
アメリカの支援がなくとも最低限の秩序を維持できる行政機構を、一日でも早く立て直すことだった。
「……それに加えて」
全員の視線が集まる。
「本国との連絡が、このまま回復しなかった場合。もしくは、我々だけで占領地を維持できない事態になった場合は────」
彼は地図上の北側を指先でなぞる。
「───英軍と協力する」
「なるほど…………英軍も台所事情は厳しいようですが、少なくとも彼等は本国から近い」
「一時的な指揮権委譲と引き換えに物資の供給を受けられれば、ある程度の余裕は出来るかもしれませんね」
高級将校は静かに頷いた。
「我々は占領地域を支配するために来たのではない。必要ならば、英軍との協力をためらう理由は無いだろう」
部屋の空気がわずかに和らぐ。
その時、若い佐官が慎重に口を開いた。
「……フランス軍との協力は?」
再びの沈黙。
数名の将校が互いに顔を見合わせる中、高級将校は考える間もなく答えた。
「却下だ。現時点では協力対象に含めないこととする」
その口調には迷いが無いが、厄介ごとを思い出したかの如く首を横へ振り、報告書を一冊取り上げる。
「向こうの占領政策は、我々とも英国とも大きく異なる。この状況で共同管理など行えば、かえって混乱を拡大させる」
誰も異論を唱えなかった。
部屋の隅で資料を読んでいた情報将校が、小さく呟く。
「……あちらでは、既に治安の悪化が相当に進んでおります」
同時期、フランス軍占領地域
街外れの農村では、軍用トラックが砂埃を巻き上げながら村へ入っていく。
兵士たちは住民を広場へ集めると倉庫の扉を開かせ、保管されていた穀物や家畜、農機具までも次々と接収していった。
泣きながら抗議する老人を兵士が突き飛ばし、若い農夫が拳を握る。
しかし、その場では誰も動かなかった………兵士達の銃口が向けられていたからである。
そうしてトラックが去った後、村には深い静寂だけが残った。
収穫したばかりの畑を見つめる農民たちの表情には、怒りよりも諦めが浮かんでいる。
───だが、その諦めは長くは続かなかった。
暫くして、山道を走るフランス軍の小型車両が、路肩で突然爆発する。
土煙の中から銃声が響き、生き残った兵士たちが慌てて応戦する。
襲撃した男たちは森の奥へ姿を消し、現場にはドイツ軍の空薬莢と、軍歴のある者でなければ難しい正確な待ち伏せの痕跡だけが残されていた。
報告書には、突発的な農民反乱と簡潔に記されている。
しかし、現場を調査した将校たちは理解していた。
…………元ドイツ軍人たちが動き始めている、と。
それだけではない。
都市部でも変化は現れ始めていた。
食料倉庫が夜のうちに襲撃されたかと思えば、徴発部隊へ集団での投石が行われる。
軍用電話線が何者かによって切断され混乱が広がる中、巡回中の兵士が路地裏から殴打され武器だけ奪われる。
一件一件は取るに足らない、単なる占領軍への反抗だったが、その数は日に日に増えていく。
そして、人々は次第に口にし始める。
「フランス人に抵抗した者がいる」
「兵士から武器を奪った」
「隣町ではフランス軍の基地が襲われたらしい」
噂は噂を呼び、恐怖はやがて勇気へと姿を変えていく。
占領開始直後には沈黙していた民衆の間に、少しずつ「唯々諾々と従うだけでは終わらせない」という空気が広がり始めていた。
それに呼応するように、フランス軍の対応も一層強硬になる。
検問の増設と夜間外出の禁止、反乱分子狩り出しの為の家屋捜索は日常となっていくが、その結果、住民の反感はさらに強まって新たな衝突を招く。
混乱が混乱を呼ぶ悪循環が、フランス軍占領地域全体へ静かに広がり始めていた。
フランス パリ
パリ市内の通りで売られていた朝刊は、どれも似たような見出しを並べていた。
『ドイツ占領地域で再び襲撃事件』
『武装集団がフランス軍車列を攻撃』
市民は新聞を手に取り、カフェではその話題で持ち切りになる。
しかし、数日も経つ頃には、新聞の記事よりも人々が口伝えに語る曖昧な噂の方が速く街を駆け巡るようになっていた。
「────聞いたか?……どうやら全部、スペイン人の仕業らしい。」
市場で野菜を並べる店主が、小声で向かいの肉屋へ話しかける。
「スペイン人?」
「あぁ、欧州に残る最後のファシズム国家だろう。それが、ナチスの残党を支援しているそうだ」
肉屋は眉をひそめ、店主は肩をすくめた。
「……本当なのか?」
「さあな。でも、新聞にゃそれらしいことが書いてあった。軍人もそんな感じの話をしていたぞ」
昼になると、その話は別の形へ変わる。
「国境を越えて武器が密輸されている」
「元ドイツ軍将校がスペインへ逃げ込んだ」
「マドリードのフランコ政権が秘密裏にドイツ軍残党に資金を流している」
誰も確かな証拠を持っていない。
それでも、人は次々と話を付け足し、やがて噂は事実であるかのように独り歩きを始め………フランス南部では、さらに過激な声も上がっていった。
「軍を送って、スペイン国境を閉鎖しろ!」
「放っておけば、次はフランス国内へ火が付くぞ!」
街角では新聞売りが大声で号外を叫び、酒場では客同士が興奮気味に議論を交わし、人々の不安は、次第に「誰かが裏で糸を引いている」という物語へ収束していった。
同じ頃、パリの政府庁舎。
執務室では、フランス解放以降に臨時政府の首班となったシャルル・ド・ゴールが、机いっぱいに広げられた報告書へ目を通している。
国内外の現状が記されている書類の束の中、情報機関が集めた市中の風説についての報告が混ざり混んでいた。
一人の情報担当官が静かに報告する。
「…………国内では、スペイン関与説が急速に広まっています。とはいえ、現時点で、それを裏付ける決定的証拠は確認されておりません」
ド・ゴールは報告書を閉じる。
「証拠は無い。……………………だが、国民は信じ始めている」
担当官は静かに頷いた。
噂は、もはや単なる噂に留まらず、新たな世論の風潮になりつつある。
ド・ゴールは窓際まで歩き、パリの街並みを見下ろした。
フランスもまた、戦災によって疲弊していた。
アメリカの半壊による流通の混乱と、それに伴う民需・軍需問わない物資の不足。
その不足分を埋めるため、占領地域から資源や物資を調達している現実がある。
加えて、それだけでは足りないという現実も。
正当な手続きだけでは国家は維持できない……その苦い現実を、彼は誰よりも理解していた。
だからこそ、この新たな状況もまた、一つの政治的材料として考えざるを得なかった。
「……利用できるかもしれんな」
誰へ向けるでもない独り言だった。
担当官が顔を上げ、ド・ゴールはゆっくりと言葉を続ける。
「もし国民が、南からの脅威を現実のものとして受け止めるなら………南に向けた軍備の強化や外交的圧力、そして、彼の国により強い影響力を及ぼす議論も……以前より受け入れられやすくなる」
「スペイン政府への圧力を強める、と?」
担当官は慎重に確認するが、ド・ゴールは即答しなかった。
しばらく考えた後、静かに言う。
「状況は慎重に見極めねばならん……だが、政治は綺麗事だけで動くものでもない」
その言葉には苦渋が滲んでいた。
望んで生まれた状況ではない、しかし、現状ではアメリカもイギリスも、此方に口を出す余裕は無い筈だ。
故に、これを機に何らかの形でスペインを手中に収める……もしくは影響下に置く事が出来れば、フランスの西欧での地位は確固たるものとなり、その分だけフランスが生き延びる可能性も高くなるかもしれない。
国家を維持する立場にある以上、フランスという国家が利用できるかもしれない材料を見過ごすことはできなかった。
数日後
ピレネー山脈付近、フランス・スペイン国境地帯
山岳地帯の検問所では、新たな鉄条網が張られ、補充された装甲車が道路脇へ配置されていく。
巡回部隊は増員され、双眼鏡を構えた兵士たちが尾根の向こうを警戒していた。
一方、スペイン側でも国境警備隊が配置を強化し、互いに監視し合う光景が日常となる。
兵士たちは引き金に指を掛けることこそない。
それでも、双方の視線には明らかな緊張が宿っていた。
国境に砲声は響いておらず、まだ一発の銃弾も飛んでいない。
しかし、噂から始まった不信は、やがて両国そのものを張り詰めた空気で包み込み、西欧に新たな火種が静かに生まれようとしていた。
夕暮れが近づき、曇天の下に広がるフランス中部の農村には、収穫を終えた畑が一面に横たわっていた。
刈り取られた麦の切り株だけが土の上へ規則正しく並び、風が吹くたびに乾いた藁が静かに揺れる。
一人の農夫は農具を肩へ担ぎ、畑仕事を終えて村へ戻ろうとしていた。
その時、遠くから低い唸りが聞こえてくる。
農夫は足を止め、街道の方へ目を向けた。
やがて丘の向こうから、軍用トラックの長い車列が姿を現す。
緑色の車両が何十台も連なり、荷台には完全武装の兵士たちが肩を寄せ合うように座り、何門もの野砲が牽引され、弾薬を輸送する車両や燃料車がその後ろへ続いていた。
誰一人として談笑している者はいない。
車列は一定の速度を保ったまま、黙々と南へ向かって走り続ける。
農夫は帽子を軽く押さえながら、その様子を見送っていた。
暫くして、最後尾のトラックが土煙を上げながら視界の向こうへ消えていく。
再び辺りは静けさを取り戻した。
農夫は小さく息を吐き、帰ろうとして何気なく空を見上げる。
──────厚い雲の切れ間から、白いものがゆっくりと舞っていた。
その一片が袖へ落ち、すぐに溶けて消える。
雪だった。




