宮殿の屋根の下で
「刀で国を征服する者がいる。一方で、静かに語られる一言だけで、それを成し遂げる者もいる」
朝の一行は、ついに平安京の深部へと足を踏み入れていた。
立派な総檜造りの門が厳然とそびえ立ち、宮廷の正装をまとった衛兵たちの隣には、絹織物をあしらった甲冑に身を包む武士たちが並んで警備に当たっている。
何年も前に朝が都を離れたときには、決して見ることのなかった光景だった。
今や、世界は変貌を遂げていた。
しかし、その変化は突発的に訪れたわけではない。
かつて宮廷の近衛兵だけが守っていた場所に、今や当たり前のように武士たちが佇んでいる。
その存在感を通じて、新しい時代は静かに、しかし確実に浸透していた。
「朝様がご到着されました」
一人の役人の声が、長い回廊に厳かに響き渡る。
朝は帝のおわす御所の方角に向かって、深く一礼を捧げた。
「主上は現在、御休息中でございます」
「お上の宣旨により、お召しがあるまで別室にてお待ちいただくよう、お言いつけでございます」
朝は静かに頷いた。
「分かりました」
その表情には、落胆の色など微塵もなかった。
彼女にとって、待つこともまた宮廷の重んじる礼儀の一部に過ぎなかった。
宮殿の回廊は、多くの貴族たちでごった返していた。
何重にも重ねられた豪奢な絹の装束が、視界を鮮やかに埋め尽くしている。
そこにいる者の大半は、名門・藤原氏の一族だった。
朝がその横を通り過ぎると、彼らのひそひそ話がぴたりと止まった。
貴族たちは皆、彼女に向かって敬意を込めて深く頭を下げる。
朝はそれに対し、いつもの優しい微笑みをもって応えた。
彼女は気づいていなかった。その視線の多くが、単なる高貴な者への敬意だけではないことに。
それは、宮廷を激しく揺るがす大きな変化の嵐に対し、この清らかな斎王の帰還が、何らかの均衡をもたらしてくれるのではないかという、貴族たちの切実な「希望」の眼差しだった。
回廊の薄暗い隅で、二人の藤原氏の貴族が、声を極限まで潜めて話し合っていた。
「あの斎王様が戻られたとなれば....」
「あるいは、この国の形も、まだ完全には変わらぬやもしれぬな」
「しかし、あの太政大臣が....」
「しっ、その名をあまり大声で口にするな」
別の足音が近づいてくるのが聞こえ、二人の会話は唐突に遮られた。回廊は一瞬にして張り詰めた静寂に包まれる。
誰もが息を呑み、深く頭を垂れた。
上卿と呼ばれる公卿たちでさえも、一斉に道を譲る。朝がゆっくりと顔を上げた。
そこには、黒染めの最高位の装束を堂々と身にまとった、五十歳ほどの男が歩いてくる姿があった。
太政大臣としての圧倒的な威厳が、その身から放たれている。
平清盛。
その表情は酷く冷静だった。男は朝の数歩手前で足を止めると、恭しく深く一礼をした。
「天皇家が、朝様を伊勢の地へと送り出されて以来、誠に久しい歳月が流れましたな」
朝もすぐに丁重に礼を返した。
「伊勢からの旅路は至って平穏でございました。こうして無事に都へと戻ることができ、深く感謝しております」
朝は微かに微笑んだ。
「出会う人々が皆、私たちの一行をとても親切に扱ってくださいました。旅がこれほど穏やかだったのも、そのおかげでございます」
一瞬の間、清盛はその表情を一切変えることなく、朝をじっと見つめた。
「左様でございますか。なれば、この国は未だ、朝様に対して最も美しい顔を見せているようでございますな」
言葉自体は極めて単純なものだった。
しかし、朝はその言葉の底に隠された、深い意味の棘を汲み取ることはなかった。
彼女はただ、純粋に答えた。
「この国が、本当に平穏な時代の中にあることを、心より願っております」
朝はもう一度、小さく頭を下げた。
「私に届いたあの書状、誠にありがとうございました」「あの見事な筆跡には、深く感銘を受けました」
....
二人の会話を固唾を呑んで見守っていた役人たちは、互いに顔を見合わせた。
どす黒い政治の陰謀が渦巻く宮廷の回廊において、二人の言葉の交わし合いは、驚くほどに互いへの敬意に満ちたまま幕を閉じたからだ。
「太政大臣様」
「お部屋の用意が整いました」
清盛は小さく頷いた。そして立ち去る間際、再び朝に向かって一礼を捧げた。
「長旅でお疲れのことでしょう。
朝様におかれましては、どうぞごゆっくりとお休みくださりませ」朝もまた、上品に礼を返した。
「太政大臣様のお仕事も、滞りなく進みますようお祈り申し上げます」
清盛が翻した黒い装束の裾は、静かに閉まった木扉の向こうへと、ゆっくりと消えていった。
....
平安京に、静かに夜が帳を下ろした。
朝のために用意された臨時の邸宅では、幾つもの油灯に火が灯されていた。
一人の若い武士が、礼儀正しく扉を叩いた。
入室を許されると、彼は床に膝をつき、恭しく伝言を述べた。
「朝様」
「太政大臣様からの伝言を携えて参りました。もしお差し支えなければ、明日の夕刻、一服のお茶をご一緒させていただきたいと、そう望まれております」
朝は少し驚いた。昼間に会ったばかりの当の本人から、直々に招待が届いたからだ。
彼女は穏やかに頭を下げた。
「感謝の意をお伝えください。喜んでそのお招きにお応えいたします」
若い武士はもう一度深く一礼をすると、静かに退室していった。
再び、重い扉が閉まる。
庭の向こうからは、夜の冷たい風が宮殿の敷地を優しく吹き抜けていく音が聞こえる。
朝は、夜空に浮かぶ細い三日月を見つめていた。
明日交わされるその一杯のお茶が、この美しい都の「真実の顔」を少しずつ暴いていく、すべての対話の始まりになることなど、彼女はまだ知る由もなかった。




