一服の茶、二つの行く末
「同じ水で淹れた茶であっても、注ぐ者の手によって異なる味わいを生み出すことがある」
夕暮れから夜へと移ろう時刻、平安京に静けさが降りてきた。
夕刻に御所の庭を濡らした雨が、湿った土の香りを残している。
清盛の邸宅の東側に佇む小さな茶室へと続く小道。
そこに並ぶ石灯籠が、かすかな黄色の光を放っていた。
その建物は質素だった。
貴族たちが集う壮麗な殿内のような華やかさはなく、宮廷の宴会が開かれる豪華な広間とも違っていた。
しかし、その簡素さゆえに、あたりはよりいっそう静寂に包まれていた。
一人の武士が、静かに障子を開けた。
「朝様、平清盛様がお待ちでございます」
朝は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
部屋の中には、二つの茶碗だけが置かれていた。平清盛は、ただ一人でそこに佇んでいた。
男は静かな所作で茶を注いでいた。
「まだ湯気が温かい。朝様、お気に召すと良いのだが」
朝は彼の正面に、静かに膝を突いて座った。
「お招きいただき、ありがとうございます。光栄に存じます」
清盛は茶釜の柄杓を置くと、口を開いた。
「光栄なのは私の方だ」
「伊勢の斎王であられる朝様に、こうして直接お目にかかりたいと、何年もの間願っていたのだからな」
彼は茶碗の一つを、朝の方へとゆっくり押し出した。
「さあ、どうぞ」
朝はその茶碗を両手で持ち上げた。
すぐには口をつけず、まずは立ち上る茶葉の香りを深く楽しんだ。
「素晴らしい香りでございますね」
清盛が薄く微笑んだ。
「宇治の茶だ」
「今季の初物でな」
朝はそれを一口、ゆっくりと含んだ。
「とてもまろやかでありながら、深い苦味が心地よく残る味わいでございます」
清盛はしばらくの間、朝をじっと見つめた。
「国というものも、時にそのようなものだ。苦い決断こそが、より良い未来を残すことがある」
部屋に再び静寂が戻ってきた。
夜の風が、竹の御簾を静かに揺らし始める。
庭からは、春の虫の音がおだやかに聞こえていた。
「朝様も、私が太政大臣に任ぜられた報せはすでに耳にされていることだろう」
朝は頷いた。
「伊勢の地にあるころに、伺っておりました」
「その大任、心よりお祝い申し上げます」
清盛はすぐには言葉を返さなかった。
彼は自分の茶碗に浮かぶ茶の表面をじっと見つめていた。
「ある者はそれを名誉と呼び、またある者はそれを脅威と呼ぶ」
朝は微笑み、こう返した。
「官位というものは、往々にして、その職に就く人間そのものよりも多く語られるものでございますから」
その言葉を聞いた清盛は、低く笑い声を漏らした。
「そのような答えを返す者は、滅多におらぬな」
彼は自分の茶碗を持ち上げた。
「では、一つ尋ねさせてもらおう。朝様が不快に思われぬのであれば、だが」
朝は頷いた。
「どうぞ、お尋ねください」
清盛は、変わらず落ち着いた声で語り始めた。
「何世代もの間、藤原氏は朝廷の柱石として数々の功績を挙げてきた。それを否定する者は誰もいない」
清盛はそこで一度、言葉を区切った。
「しかし、この国は変わったのだ。都の外にある脅威は、日増しに現実のものとなっている」
「港を厳重に警備せねばならず、異国との交易も盛んになっている」
「武士たちは、かつて貴族たちが考えもしなかったほどの重責をその肩に背負っているのだ」
彼は朝の目を真っ直ぐに見据えた。
「朝様、なぜ私が重要な官職に、己の信頼する身内を配し始めたか、疑問に思われたことはないか?」
朝はすぐには答えなかった。もう一度ゆっくりと茶を啜り、それから静かに口を開いた。
「それは、平清盛様が時代の変化を加速させたい、と願っておられるからではございませんか?」
清盛は頷いた。
「その通りだ」
「ある者は私を強欲だと非難する」
「朝廷を我が一族で埋め尽くそうとしている、とな」
「だが、もし私が一族の栄華だけを望むのであれば、これほどまでの重荷をわざわざ背負う必要などないのだ」
清盛の声は平坦だったが、次の瞬間、声を少し張り上げて続けた。
「私はこの国を、動くことのできる者たちに率いさせたいのだ」
「過去の栄光に縋るばかりの者たちではなくな」
「藤原氏は国に多くのものをもたらした」「だが、彼らの思考はもはや、この激動の時代についていくことはできぬ」
「私は憎しみで彼らを排除しているのではない」「この国が、確かな力を持つ頑強な手を必要としているからだ」
「時に、詩を詠むことしかできぬ腕よりも、鉄の拳の方が求められることがあるのだ」
二人の間に、重い沈黙が降りてきた。
清盛は、よりいっそう鋭い視線で朝を見つめた。
「もし朝様が私の立場であったなら」
「この決断に反対されるか?」
朝はすぐには答えなかった。
彼女は茶碗をそっと畳の上に置いた。
両手を静かに膝の上に重ね、それから静かに語りかけた。
「平清盛様」「熱すぎるお茶は、確かに早く飲まねばなりませぬ。しかし、茶葉が底に沈み切る前に口にしてしまえば...」
「私たちは、その真の味わいを知ることはできません」
清盛は何も言わなかった。
朝が、単なる一杯の茶のことではなく、それよりも遥かに大きな
「国の行く末」について語っていることを、彼は瞬時に理解した。
朝は言葉を続けた。
「私は主上(帝)に仕える身でございます」
「藤原氏の味方でもなければ、平氏の敵でもございません」
「いかなる決断であれ、それが国のためになされるものであるならば、私は常にその成就を祈り続ける所存です」
朝は顔を上げた。その眼差しはどこまでも優しかったが、今回は決して視線を逸らさなかった。
「ですが、国というものは力だけで成り立つものではございません」
「それは『信頼』の上にも立っているのです」
「平清盛様」
「どうぞ、慎重にお歩みください。民が恐れから従うばかりになり、信頼することを止めてしまわぬように」
その夜、清盛は初めて長い沈黙に陥った。
それは憤慨したからではない。
目の前に座る朝という少女が、自分に反対しているわけでも、かといって盲目的に支持しているわけでもないことに気づいたからだ。
朝はただ、諭していた。一人の神職として、皇女として。
そして何よりも、この国を心から愛する一人の人間として。
やがて、清盛は静かに息を吐き出した。
「朝様、ようやく理解いたしました」
朝は首を少し傾げた。
「何を、でございますか?」
清盛は立ち上がり、黒染めの装束の袖を整えると、朝に向かって完璧な所作で深く一礼を捧げた。
そして、こう告げた。
「朝様は、まず『人間』をご覧になり、その後に『官位』をご覧になるからでございますな」
その答えを待つことなく、彼は静かな足取りで茶室の部屋を出て行った。
朝はただ一人、その場に座り続けていた。
彼女の茶碗は、すでに空になっていた。
朝は星々が満天に広がる夜空を見つめ、自分自身に語りかけるように、ぽつりと呟いた。
「神々がこの国の行く末を導いてくださいますよう。たとえ、どのような未来が待っていようとも...」
遥か彼方から、宮廷の夜の鐘が一度だけゴーンと響き渡った。
朝自身はまだ気づいていなかった。
この何気ない一杯の茶を巡る対話が、平清盛の心に計り知れない衝撃を与え、彼女を単なる清らかな象徴ではなく、いずれこの国の未来を大きく左右する存在として見なす契機となったことを。




