第五節:『呪いと祝福』
「――見ィつけタ、にゃァ」
「――ッ、勇原、危ねえ!」
その瞬間、僕の嫌な予感が的中し、上から悪意に満ちた猫撫で声が聞こえて、だがそれと同時、《《まるで先が見えているかのように》》血相を変えた闇﨑さんは叫んで僕の身体を乱暴に突き飛ばす――その、次の瞬間だ。
――先ほどまで僕が立っていた位置を、上空から急襲した『捕食者』の人間離れした脚力の爪先が一閃し、その衝撃波だけで辺り一帯を覆いつくすような爆風が巻き起こった。
「ぐっ――一体、な、にが……」
「狼狽えてる場合じゃねー!さっさと逃げるぞ!」
辺りを包み込む砂煙の中、状況に頭が追いつかない僕に対し、素早く立ち直った彼女は地面を転がった僕を無理やり引き起こし、焦燥に駆られたように顔色を変えて叫んでいる。
「今の猫又は正気じゃねー、完全に肉食獣の狂暴性に呑まれてやがる!勝ち目なんてありゃしねーよ!」
「……っ、分かった!」
その彼女の必死の主張に僕は今度こそ無駄な思考を断ち切って立ち上がり、先行していく彼女に続いて走り出す――が。
『捕食者』に正面から立ち向かうことほどの愚行も無いが。
――その『捕食者』に、背を向けて逃げ出すこともそれと同じくらいの愚行であることも、またどうしようもない事実だった。
「ニャヒヒヒヒ……に~げ~る――にゃァ!」
「だークソ、あの化け猫……速すぎんだろ!逃げらんねーよ、こんなのッ!」
刹那、『捕食者』は手足を地面に付いて獣のような四足歩行のフォームを取り、地を蹴って爆風を撒き散らしながら本気の疾走を開始する。
彼我の距離が一瞬にして詰められ、もはやその魔の手が僕らの背に届くのも時間の問題。並走する闇﨑さんが堪え切れなくなったかのように悲鳴を上げる――だから!
「――頼む、役割の『借用』っ!」
「――にゃ、ァ?」
その肉食獣の魔の手が闇﨑さんの背を捉えるまさにその瞬間、僕は己の異能を『捕食者』に向かって行使。――部分的にその脚力を削がれた彼女は走行のリズムを崩し、勢いよく手足を投げ出してその場に勢いよく倒れ込んだ。
――そして!
「闇﨑さん、ちょっと担ぐよ!」
「――って、うおおっ!?」
僕は軽くなった身体で先行していた彼女の背にすぐに追いつき、彼女の軽い身体を強引にお姫様抱っこのフォームで抱えて、『捕食者』から部分的に奪った脚力で、風を切るような速度で加速して駆け出した。
「てめー後で覚えとけよ!?」
「ごめん、出来れば忘れて欲しい!」
屈辱で顔を真っ赤にしたお姫様から抗議の声が上がるが、脚力が強化された僕が彼女を抱えて走った方が遥かに速いのだから仕方が無い。
だが当然、これしきであの本気の『捕食者』から逃げおおせる筈も無く――
「――にゃアあアアあァッ!」
「――ッ」
後方から空気を震わせるような雄叫びが轟き、ちらと後ろを振り返れば一度捕え掛けた獲物を取り逃がして激昂した彼女は全身の毛を逆立てて猛然と駆けてきている。――明らかに、あちらの方が今の僕よりずっと速い。
「勇原!今の猫又のヤツからはどの程度力を『奪取』出来てるんだ!?」
「大体二割くらいだよ。つまり今の彼女の脚力は、本来の八割程度ということになる」
「それでも馬力が四倍も違うじゃねーかよ!?このまま逃げ続けててもジリ貧だぞ!」
「――だから、君の『巻き戻し』の異能だ」
そう僕は、焦燥で頭を掻きむしる闇﨑さんに向かって静かに言う。
「状況を何度かやり直して、一番良いルートを探して欲しい。僕は君の指示にすぐに従う」
闇﨑古々見は『巻き戻し』の異能者。
時間すら巻き戻せる彼女は恐らく、既に何度もこの事態を短期的に繰り返し経験しているはずなのだ。
* * *
――『捕食者』の異能は、本来は逃走する対象を決して逃さず追跡することが出来る能力だ。
誰かを追いかける時、脚力が爆発的に強化される。かつ、この効果が適用されている間は一切の肉体疲労が起こらず、スタミナを無視して永遠に走り続けることができる強力な副作用がある。
あくまでも異能の本質は能動作用。獲物がいないところに捕食者はいない――が。
その性質を悪用すれば、この力は逃げにも転用することが出来る。
獲物がいないのなら、自分で作ればいい。
ただ視界に映っている目的物を、自身の中で獲物と定義すればそれでよく――
「――勇原!そこで右折、突き当たりを左に曲がれ!」
「了解!」
疾走の最中、僕の腕の中で抱えられている闇﨑さんは鋭い声を上げて指示を飛ばし、僕はそれに即応して進路を右方へと転換する。
遥か遠く、視界に映る一つの街灯を目印に……否、それを獲物と定義することで、僕の脚は自身にとっての紅一点、ただ一つのターゲットなるその街灯へと真っすぐに、風を切るような加速を得て動き出す。
無論、そんな僕の背には尚も『捕食者』の魔の手は迫っているが――
「――ちイいイイいいいッ、にゃァ!」
「へっ、バーカ……てめーは真っすぐにしか走れねーんだよ!」
後方、僕が右折した岐路の真中で、まるで爆速で走行するフォーミュラカーが急ブレーキを掛けたかのような激しい摩擦音を轟かせ、足を長く伸ばして強引に静止した彼女は苛立たし気に舌打ちしてまた駆け出すが……それでもすぐにトップスピードに乗れるわけではない。大幅に速度を落としてこちらを追う彼女に、腕の中の闇﨑さんは勝ち誇ったように叫ぶ。
――『捕食者』の異能は、急な方向転換に脆弱だ。
人の身に余る爆発的な速度を得られる代わりに、獲物に向かって真っすぐにしか走ることが出来ない『捕食者』は、このような市街地では十分にその性能を発揮できない。だからたびたび、最適なタイミングで進路を変えれば、基礎的な馬力が劣っていても逃げおおせることは不可能ではない。
「つっても……お前が猫又のヤツの力を削ってくれてるからそれでようやくギリなんだけどな。なあ勇原、もうちょっと頑張れば半分くらいは力削れんじゃねーの?」
「無理だよ。一番調子が良い時で三割弱だ。酷いときは一割も力を削れないときもあるし」
「お前の異能って本当にピーキーだよな……」
「……まあね」
……少し前までなら、完全に相手の異能を奪うことも出来たのだが。
なんにせよ、今の僕の役割の『借用』の異能は既にその役割を終え、既にピークは過ぎている。
異能は人に与えられた『役割』だから。
その『役割』を自ら放棄した者には、絞りカスのような力しか残らない。
使命も責任も矜持もあの日の後悔も、何もかもから背を向けた今の僕には、その落ちぶれた力が象徴するようにもう何も残っていなくて――
「――それでも、オレはお前を頼りにしてるぜ、勇原!」
「……っ!」
屈託のない笑顔で迷わずそう言い切った彼女に、沈みかけた心が明るく照らされたように。
――胸の奥で曖昧に揺蕩う自身の本質が、熱く脈動する。
分かったよ、まだやれるのなら……やってみせるよ、ドラマツルギー!
刹那、疾走する僕の両脚は更なる加速を得て後方の『捕食者』を大きく引き離す。
「って、うおおおおッ!?何か急に速くなったな!?」
「闇﨑さん!次は何処に行けばいい!」
「次は……つっても、もう大分引き離せてるぜ。猫又のヤローも大分速度を落としてるし、このまま走ってれば撒けるんじゃ――」
そう、勝ちを確信したように彼女が言葉を紡ごうとした――だが、まさにその瞬間のこと。
――カシャッと、シャッターが切れるような無機質な音が、不意に辺りに響き渡った。
「……あ?何だ今のお――ト?」
「が――ア?」
その音が聞こえた瞬間、僕らは互いに顔を見合わせて小首を傾げて、そして、止まった。
ピタッと、
止まった。
すべてが、
とま
* * *
「ニャヒヒヒヒ……やァっと、追いついタ、にゃァ」
「ク……ソ、が。身体が……動か、ね……力が、使え、ね……え」
――意識が戻った時、最初に感じたのは鉛のように重くなって身体が動かせない、喉が詰まるような壮絶な閉塞感だった。
カシャッと、シャッターが切れるような音が聞こえたような気がした。
そしてその次の瞬間には、まるでテレビの電源が落ちたかのようにプツンと意識が途切れて。
次に目が覚めるまで数秒かあるいは数分か、まるで時間が永遠に静止したかのような、永遠の停滞の中に閉じ込められていた気がする。
そして今も尚、その停滞の後遺症は重たく全身に残留し――まるで、ただの指一本の動かし方まで忘れてしまったかのように、嘘のように身体が言うことを聞かずに動いてくれない。
そして、それは無慈悲にやって来た。
赤パーカーの悪魔が。
赤い悪魔の化け猫が、真正の『捕食者』は、フードの中の丸い目を狂気的にギラつかせて、その場に縫い留められたかのように動けなくなった僕らを、見下ろしている。
見下している。
「あーしの狩場ニ……むざむザと誘イ込まれタ獲物二匹……今日の『捕食』ハ中々楽しいにゃァ?」
「ねこ、またさん――きみが、『吸血鬼』……なのか」
「あア知ってんのカ、ゆウにゃん」
――と。
そこで猫又さんは初めて僕を認識したかのように、細い顎をしゃくり上げてその丸い瞳を楽しそうに細める。
「ゆうニゃんもこコにゃんも、生徒会デ『吸血鬼』の噂でも追ッてたのカにゃァ?だとしたらざまアねえにゃァ……あーしを止メられるトでも思イ上がったか、にゃァ」
「なんで君はこんなことを……するんだよ!色んな人の大事な物を奪っていると聞いた!それに至って君は、僕らの命まで遊びのように奪うのか!」
「ダって猫のようニ我儘に暴れるのハ楽しいにゃァ。あーしは生マれながらの『捕食者』……にゃンだかラよ」
ニャヒヒヒヒ……と、残虐に笑いながら、彼女は悠長に、獲物をじっくりと嬲るようにこちらに歩み寄ってきている。
クソ……一体何が、彼女をここまで狂わせた。
僕は彼女とそれほど仲が良かったわけではない。一か月ほど前に、少しの間彼女と関わる機会があった。話す機会があったというだけだ。――それでも彼女の人となりに触れる機会が、確かにあったんだ。
「君は……そんな人間じゃ、なかっただろ」
「あーしは元かラ人間よりモ獣なの、にゃァ」
「……っ!」
――ゆうにゃん、あーしは自分のこの異能があんまり好きじゃないのにゃ。
――たまに頭に血が上って、ケダモノみたいに理性を失っちゃうことがあるからにゃ……。
在りし日に、切なげにそう零していた彼女の言葉を思い出す。
『捕食者』の異能は、人間を獣に変える呪いだと。
彼女から人間らしさを奪う残酷な呪い。
生まれつきそんな力を持ってしまった彼女は、最初から人間になることを許されなかったというのか。
――あーしは、オトモダチを傷つけるだけの力なんていらなかった。……のにゃ。
この学園では、誰しもが異能という名の役割を背負う。
祝福と呪いは表裏一体。世界から祝われて生まれた少年少女は、同時に強固な呪いに縛り付けられている。
猫又豹子は、その『捕食者』の呪いに縛り付けられている限りは、どう足掻いても普通に生きることはできない。
だからこうして自分を見失う。
だからこうして化け猫になる。
だからこうして――『吸血鬼』になる。
そんな彼女を目前にして、僕は無力に倒れ伏すしかなく――――
『――その程度の挫折で全てを諦めようとするなんて、怠惰だわ』
「……え」
――声が、した。
その声は不遜に高慢に見下げるように、僕の頭の中から唐突に響き渡った。
どこかで聞いたことがあるような声。どこかで聞いたことがあるような口調。
それでも記憶の中の誰とも結び付かない『それ』は、きっと少女なのだろうと不思議と僕は奇妙な確信を得ていた。彼女は僕の言葉を待つのすら億劫だと言わんばかりに、面倒臭そうに早口に語り声を続けて響かせる。
『面倒臭いけど、しょうがないから力を貸してあげる。ほら、手を出して』
その言葉に釣られ、僕は鉛のように重くなった腕をどうにか動かし、そして手を開く。
その瞬間だ。ポケットの中が不意に熱くなり、その中に入っていた『魔法少女』のスペルカード、その内の一枚がひとりでに動き出して、僕の手の内に握られる。
淡く発光する、黄色のカード。
仄かな熱を放つそれを確かに握り締めた瞬間、何かが僕の中に流れ込んできて――
「――『怠惰』の魔法、『自堕落の腐食』!」
「――ッ、なんにゃァ!?」
まるでカードの中に込められていた意志に導かれるように、僕は声高にその『魔法』の偉力を世界に知らしめるかのように――詠唱する。
その確かな詠唱を世界が認めた瞬間、未曽有の特異的事象が戦場を覆い尽くす。
森羅万象が、あるいはこの大陸そのものが『怠惰』の原罪に甘んじるかのように、在るべき形を失い、在るべき秩序を失い、あらゆる構造を構成を、連結を連成を無に帰して、不格好な歪を晒しながら自堕落に腐り落ちるように、深淵に向かって沈み込んで行く。
――大地が、ドロドロに崩壊し始めていた。
さあ、舞台は『怠惰』に始まった!




