第四節:『捕食者』
「……っ」
僕は辺りに広がる異様な光景を見回し、思わず息を呑むしかなかった。
パニックに陥った人混みの中を夢中で駆けていたと思ったら……いつの間にやらあの喧騒は何処へ、直前までの騒々しい繁華街の雰囲気は何処にもなく、辺りにはゾッとするほどの静けさと、一切の人気が消失した陰険な空気だけが残っていた。
「猫又さんは……何処に行ったんだ?」
姿を見失ってしまったから、気付けば先ほどの彼女との接続が——『捕食者』の異能による脚力強化の恩恵が抜け落ちており、今の僕は本当にただの無能力者と変わらない状態に戻ってしまった。
猫又豹子……『捕食者』の異能者。彼女の能力は簡単に言えば誰かを追いかけている時、脚力が爆発的に強化される、というものだ。
出来なくは無いが、本来はその性質上逃走向きの能力では無かったはず。だというのに……なぜあの時、彼女はわざわざ僕に背を向けたのか。
一体彼女は、何処に向かおうとしていたのか。
……そして今、当の僕はどんな異世界に迷い込んでしまったのか。
「一年生の異能は大体知識があるけど……こんな異空間に人を迷い込ませる能力なんて、あったかな……」
そう呟きながら、僕はとりあえず辺りをウロウロと歩き回ってみる。
猫又さんが何処に消えたのかも気になるが、まずはこの奇妙な空間から抜け出す術を探さなければならない。
「クソ……携帯、学園の生徒会室に置いてきちゃったか」
携帯を使えば外部にこの状況を連絡出来るかもしれないと思ったが、あまりにも間が悪く僕の現在の持ち合わせは買い出しの為の最低限の用意しかない。
ポッケの中にはハンカチと、寮室の鍵と、ほとんど空っぽの財布と、それから——
「——スペルカード、か」
先ほど魔宮木さんから貰った、五枚の色鮮やかなカード。
ただの色紙にしか見えない、何の変哲もない……カード五枚。
……何とも心許ない装備品だった。
というか魔宮木さんも何処に行ったんだろう——と思ったが、それについては僕の独断専行の所為なのか。
今の僕は本当にただの一人きり、身一つでこの事態を打開するしかないということ。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかという憤りは一度脇に置き、原状回復に努めなければならない。
それが僕が所属する、この学園都市の秩序を維持する異研学科生徒会の心構えだから。
その自覚も後付けに過ぎないのかもしれないが、それでもとにかくだ。
「……まずは、僕の他にこの異空間に巻き込まれた被害者がいないか探さないと。それに並行して、先輩達に連絡する手段も探して――」
と、そんな風に次にやるべきことをブツブツと口に出しながら思考を整理し、誰もいない街中を歩き出そうとした時のことだった。
――後ろの方から、何かの物音がしたのを聞いたのは。
「……ん?」
ズザっと短く、靴が地面のタイルと擦り合ったような……そんな、誰かの足音が聞こえたような、気がした。
何かの聞き間違いだろうかと思って、その音がした方を僕はちらりと振り返るが、まさにそのときのこと。
「――ッ!?」
「――うおおおおッ!」
――刹那、路傍の物陰から一人の人影が咆哮を上げて飛び出し、立ち尽くす僕の方に向かって一直線に突進してきた。
完全に不意を突かれた僕は咄嗟に反応できず、その人影の……『彼女』の素早い足払いを受けて体勢を崩し、そのまま腕を強引に引っ張られて僕は顔から硬い地面に強く叩きつけられた。
クソ、本当にこの同輩は容赦が無いな。
僕が全身に走る鈍い痛みに悶絶し倒れていると、上の方から見知った少女の勝ち誇ったような声が聞こえてくる。
「へっ、わりーな。こうでもしないとてめーは止まらないからな。しばらくそこでおねんねしててもらうぜ」
「……闇﨑さん、違うよ。君が僕に何らかの恨みでも持っていない限り、それは多分人違いだと思う」
「……あ?その声……お前もしかして、勇原か?」
と、そこで自分の勘違いに気付いたかのように、灰色セミロングの髪をした、ノーマルな学園制服の少女、闇﨑古々見は……僕の生徒会のもう一人の同輩は、気まずそうに指で毛先を弄りながら、その勝ち気な笑みを引き攣らせていたのだった。
* * *
「――マジですまん、勇原……辺りが薄暗くて、はっ倒すまでお前だって気づけなくてな……」
「いや、大丈夫だよ。本当に全然、気にしてないから」
「『巻き戻し』て無かったことにするか?」
「……いや、そっちの方が面倒くさいからいいよ」
それから僕は闇﨑さんに身体を起こしてもらい、彼女とお互いの事情を共有することになった。
どうやら彼女が僕に襲い掛かってきたのは私怨ではなく完全な勘違いで、その件について口調は荒いが人の良い彼女はとても申し訳なさそうに頭を下げていた。
闇﨑さんは陰々蛇さんと同じく僕の生徒会の同期の少女であり、所謂ところの『巻き戻し』という強力な異能を有している。
その能力はとても簡単に言えばあらゆる事物の状態を今よりも前の状態に復元する……というもの。
例えば、ドロドロに溶けたアイスクリームを溶ける前の綺麗な状態に戻したり。
例えば、壊れた道具を新品のように直したり。
……例えば、限られた範囲内の時間ごと、タイムスリップのように遡ったり。
色々な制限や制約も多いが、それでも極めて有用な能力であることに変わりはない。
実際、
彼女の能力はあまりにも、
――魅力的だった。
なんとしてでも
うばわなければと
こがれるほどに
「それで……次はこの奇妙な空間についてなんだが――と、どうした?勇原」
「あ、い、いや……なんでもない。なんでもないよ」
「わりーな……オレにはっ倒されたダメージが今になって効いてきちまったか……」
「それは大丈夫なんだけど――そうだよね、今の状況を整理すれば、どうやら僕らは二人してこの誰もいない異世界に迷い込んだ、ということだ」
「マジでお前と合流できて良かったぜ。こんな不気味な空間、一人きりでずっといたら気が狂っちまうわ」
闇﨑さんは白い歯を見せてニイっと笑い、握り拳を僕の方に向けてきた。僕もそれに釣られて、自分の拳を彼女の拳にこつんと合わせる。
彼女は僕なんかよりもずっと逞しく、それでいて男勝りな熱いハートを持つ少女だ。
同期の陰々蛇さんとはその性質からして正反対のようにも思えるのだが、存外彼女らはそれでも相性が良いらしく、生徒会室でもいつも小粋な漫才を披露していたりする(どちらがツッコミ役に当たるのかは言うまでもない)。
……と、そうだ。忘れていたが、ここで闇﨑さんと合流出来たのなら、その陰々蛇さんにでも――それか、他の生徒会メンバーの先輩の誰かにでも、連絡をしてもらうことは出来ないだろうか。
「そういえば闇﨑さん、携帯持ってたりする?」
そう僕が訊くと、だが彼女は困ったようにため息をつき、その灰色髪の毛先を指で弄りながら億劫そうに口を開く。
「お前の言いてーことは分かるぜ。ケータイで外部と連絡が取れるかもしれねーってことだろ?」
「う、うん……そうなんだけど」
「それならこの画面を見てもらった方がはえーな……ほら、これだよ」
そう言って彼女はポケットから、やはりちゃんと持っていたのか自身の携帯端末を取り出し、その画面を僕の方に向ける。
即座に目に入ったのは、画面右上の、電波やバッテリー残量等の欄に表示されている、その異様な二文字の文字列だった。
「――圏外、か」
「繁華街のど真ん中でこんなことあり得ねーだろ?だから嘘だと思って試しに姐さんとかに掛けてみたんだが……ダメだった。マジで誰にも繋がらねーんだ」
「……本当に奇妙な状況だ。こんな異空間に人を迷い込ませるだけでなく、あまつさえ電波まで遮断できる異能者なんて、僕は全く心当たりがないんだけど」
「だよなー……。それでオレはここに迷い込んでからニ十分くらい、途方に暮れて彷徨い歩いてたところだったんだが――そんな時丁度、お前の人影を見つけたってことになるな」
とすると、闇﨑さんは僕よりも随分先にこの異空間に迷い込んでいたということになる。
なるほど……大体事情は分かってきた。
――もちろん、この奇妙な状況のカラクリはまださっぱり掴めていないが。
とりあえず、彼女がここに迷い込んだときの状況をもう少し具体的に聞いてみようか。
「この異空間に迷い込んだときのことって覚えてる?正直言って、僕の方は直前の記憶が大分曖昧で……気づいたらここにいた、という感じなんだけど」
「オレもそんな感じであんま変わんねーぞ。元々別件でこの繁華街まで来てて……って、まあそれについては後でも良いか。ともかく、オレは確かにこの繁華街の人混みの中にいた。それは絶対に間違いねー。――ただ」
「ただ?」
「――『捕食者』をこっちが追いかけてるっていう、変な状況ではあったな。何か様子のおかしい猫又のヤツを、心配でオレは後を付けてたんだよ」
「……え?」
待て、今彼女は……何と言った?
「……猫又さん?」
「……あ?なんだ勇原、もしかしてお前も何か心当たりでもあんのか?」
僕が訊き返すと、彼女は興味を引かれたようにその形の良い眉を顰めてこちらに視線を送ってくる。
僕は首を縦に振り、今度は自身の事情を彼女へと説明することにした。
「うん。実は僕もここに迷い込む直前、急に逃げ出した猫又さんを追いかけてて……それで、その追跡の途中で気付いたらここに迷い込んでいた、という感じだったんだよ」
「そうなのか……つーかアイツ、何か今日クラスでもずっと様子が変だったんだよな……さっき見かけた時も、何か普段は見ねー格好してたし」
「ダボダボの赤いパーカーにフードまで被っててね」
「部屋着みてーなボロボロの全身ジャージでな」
「……ん?」
「……あ?」
僕らは二人して他方に向かって小首を傾げた。
微塵も掠りもしない、互いの証言の不気味なほどの不一致。
不整合。
不調和。
何かが『おかしい』と、心臓が募る焦燥にうるさいくらいに早鐘を打ち始める。
僕はつい先ほど、あの『魔法少女』から似たような話を聞いたことはなかっただろうか。
――出遭ったという人はそれぞれ、見た目の特徴について全然違う証言をしているのよ。
猫又豹子。
『捕食者』の異能者。
誰かを捕まえる為の異能。
獲物を逃がさない為の異能。
……でも捕まえて、それでじゃあ次は。
獰猛な肉食獣は、その獲物をどう扱うのか――――
「――見ィつけタ、にゃァ」
その瞬間、僕の嫌な予感が的中したように、上から。
上から悪意に満ちたその猫撫で声が
き
こ
え
テ。
「――ぁ」
「――ッ、勇原――ッ!!!」
気づいた時には闇﨑さんのその喉が割れるような絶叫すら遥か遠く。
僕の首はいとも簡単に、上空から強襲した『捕食者』 の脚に、撥ね飛ばされていて――――




