第九節:『巻き戻しと歴史』
「――ふう。ぶじふじちゃく」
「はあ、はあ……陰々蛇てめー、運び方が雑過ぎんだよ……ジェットコースターよりもヒヤヒヤしたぜ……」
「でもはやかったでしょ?」
「まあ、あの薄気味悪ぃ白女からは何とか逃げられたけどな……」
そう安堵したように言って地面にどっと腰を下ろした闇﨑さんは、額を濡らしていた冷や汗を服の袖で拭う。
今しがた僕と彼女は――陰々蛇さんに雑に背中を掴まれて、爆発的な跳躍力で空を飛んだ彼女による……極めてスリリングな長距離フライトに興じていたところだった。
『音楽家』の演奏会も遥か遠く、微塵もあの頭が割れるような超音波が聞こえなくなったところで、彼女は路地裏の一角へと無事、不時着と相成ったわけだった。
と、そこで――
「あう……なんかすごいつかれた」
「お、おい陰々蛇?」
「あたまいたい……」
そのとき、唐突に陰々蛇さんは糸が切れたように闇﨑さんの胸へと倒れ込む。――同時、彼女の全身を染め上げていたコーラルピンクが完全に消失した。
「……魔法の効果が切れたんだ。きっとその反動だよ」
「みてーだな……って、気付いたらオレの身体の赤も無くなってんな。感覚もいつも通りに戻ったみてーだ」
そう自分の身体を見返しながら言う闇﨑さんも、その見た目は勿論、先ほどのような語気の強さも見られなくなっている。彼女の方も、『憤怒』の魔法による効果がようやく切れたようだった。
しかし……闇﨑さんの方は、そこまで大きく消耗しているようには見えなかった。
「……なんで陰々蛇さんはこんなに疲れ果てているんだろう。ここまで差が出るものかな」
「身体が軽ぃからって、あんなに激しく飛び回ってたらそら体力使うだろーよ。そら陰々蛇、平気か?」
「うごけない……しばらくここから、はなれられないかも」
「てめーそれをベタベタする口実にしてねーだろうな!?」
「……ちっ。やっぱユーバラのほうにすればよかった」
なぜか不機嫌そうに陰々蛇さんは舌打ちして、渋々といった様子で怒鳴る闇﨑さんの胸からフラフラと起き上がる。
しかし……やっぱり見てて辛そうだな。
そんな風に心が痛む思いで彼女を見ていると、その紙袋の中の赤色の双眸とふと目が合う。
じっと、赤い瞳が僕を見つめる。
なぜか背筋が、ぶるりと震えた。
そんな僕の戦慄を余所に、彼女は感情の読み取れない、抑揚のない声音でぶっきらぼうに語り出した。
「……ユーバラ、おまえの目の前でかよわい女の子がつらそうにしています」
「う、うん?」
「なにが、『かよわい』だよ……」
「そこ、うるさい。おまえはいいやつです。かよわい女の子がこまってたら、まよわずたすけてくれるよね」
「そりゃ、僕にできることなら何でもしてあげたいよ」
「――じゃあ」
と、彼女は鬼の首を取ったかのようにズイと高圧的に這い寄ってきて、耳元で囁く。
淡々としているのに、不思議と脳が蕩けるように甘ったるく感じる。
「しばらく、ぎゅってさせて」
「……え?」
「ぼく、抱き枕がないとねむれないタイプ。でも非道なアンザキは冷酷無比にぼくをひきはがした。だから、しょうがないからおまえで我慢してあげる」
「えっと……それは」
とても切実な相談だったが、倫理的に困るというか。
不純異性交遊に抵触しかねるというか。
そんな言葉にしづらい、暗黙の了解とでも言うべき男女の適切な距離感というものを、しかし目の前の少女はときおり軽々とぶち壊して踏み込んでくることがある。
「……嘘つくの、ユーバラ。何でもしてくれるって、いったじゃん」
「それは確かに、そうなんだけどさ」
「ことわざにもこんなものがある。『嘘つきは嘘つき魔女の始まり』って」
「それは多分……君しか知らない慣用句だと思う。少なくとも広辞苑には、そんなことわざを今まで僕は見ていない」
「でも、何でもするっていった……っ」
その顔色は窺えないが、もしかすると紙袋の中で彼女は不貞腐れたような膨れっ面を浮かべているかもしれない。
困った。
どうしよう。
……詰んだか、これ?
言質を取られた時点で、既に逃げ道は無くなっているのかもしれない。
「……勇原、まあご愁傷様だ。言っちまったもんの責任は取ってやれよ。やり直しが利くわけじゃあ、ねーんだからな」
「あ、闇﨑さん、なんで梯子を外すの!?」
遠くの方で高みの見物を決め込む彼女は、憐れむような目で詰め寄られる僕を見つめている。
もはやこの場に、もう僕の味方をしてくれる存在などどこにもおらず――
『――本当にどいつもこいつも、自分の責任を投げ出してばっかりね。耐え忍ぶということを知らないのかしら』
「――ッ!?」
その瞬間、不意に頭の中にまた、見下げるようなあの声が響き渡り――そして、ポケットの中からひとりでに一枚のカードが、緑色の光を放ちながら飛び出してきた。
――『忍耐』の魔法、『苦難の受け皿』。
声高く響く詠唱と共に、その緑色の光は、二方に分岐して僕と陰々蛇さんの全身を包み込み――そして。
「あれ……なんか、急につかれがきえた?」
「――ぐ」
――不意に、全身に重い疲労感がどっと圧し掛かる。
次の瞬間に生じた変化は二者二様にそれぞれ全く異なるものだった。一気に調子を取り戻したような陰々蛇さんに対し、僕の方は立ち上がるのすら辛く感じるほどに……その場にどっと膝を折る。
「ピンク色、赤色と来て次は緑色かよ。この魔法は一体どんな効果なんだ?」
「ぼくはすごく元気になった」
「その代わり……僕の方は、正反対に身体が重くなったよ……」
「陰々蛇が元気になる代わりに、勇原が疲れた……?よく分かんねーけど、少なくとも言えるのは勇原は違う形で責任を取ったってことだ。良かったな、陰々蛇」
「……ちっ。あとちょっとだったのに」
「へっ、ざまーみやがれ」
「……」
まるで深い海の中に沈んでいるかのように、近くでやいやいと話している二人の会話すらどこか遠くに感じられる。
『苦難の受け皿』……恐らくその名の通り、今僕は陰々蛇さんの負担の受け皿になっている。
推測するにこの魔法は、仲間の負担を肩代わりする……そんな効果を対象に及ぼすものだろう。
「陰々蛇さん、ごめん……またちょっと疲れるけど、大丈夫?」
「うん、いーよ。ユーバラもしんどくなったら、遠慮なくぼくを抱き枕にしていいから」
「いや、それは大丈夫だよ……」
言いながら、頭の中で引き取った負担の一部を彼女の元へ戻すイメージを形成する。
流石に負担の全てを引き取ってはいられない……二人でちょうどいいバランスに配分すれば、どうにか耐えられる程度の塩梅には落ち着くはずだ。
うん……まあ、こんなものかな。
「……ふう」
「それで……これからどうするよ。猫又以外にも、この誰もいない繁華街にはイカれた白女までうろついてるみたいだぜ」
と、そこで闇﨑さんは大きくため息をつきながら、深刻そうに話を切り出した。
「出口を探してる間に、またアイツに見つかったら面倒だ。アイツの音霊に洗脳されて、今度こそは本気の潰し合いになっちまうかもしれねーぞ」
「逆にこっちからさがしだして……ぼくの『隠密』でしのびよって、演奏をはじめさせる前に後ろからぶっとばす、とか」
「それもナシじゃねーけど……失敗した場合のリスクが高い。まあ最悪、オレの『巻き戻し』で状況をやり直せばいーんだが……」
と、そこで彼女は右手の服の裾を捲り――そこに巻き付けられている、自身の腕時計を、どこか不安そうに顔色を曇らせてちらりと見やる。
「……何か問題なの、闇﨑さん?」
「問題っつーか……さっきからオレの『巻き戻し』の異能、なんか調子が悪ぃ気がすんだよな……」
「……調子が悪い?」
「空間の時間と、この腕時計の時間が上手く結びつかないっつーか……ときどき、自分の『歴史』が途切れちまう。だから、戻れる時間が直前になることばっかでな」
「それは……大分、危ないね」
『巻き戻し』の異能は、厳密には時間遡行ではなく、その場に刻み込まれた『歴史』を参照し、それを現在に取り出すことで疑似的に空間の状態を巻き戻す、あくまでも復元がその本質だ。
そしてその『歴史』を参照するには、その場で歴史を刻むもの――たとえば、時計等――を、必ず媒介にする必要がある。彼女の場合は常時腕時計を携帯していることで、大きく場所を離れなければ大方は、自身が通った道のりを不自由なく逆戻りすることが可能だ。
だが今の場合、その腕時計が『歴史』を刻むものとして正常に機能していないのだとすれば――それは、異能そのものの実質的な機能不全とさえも言ってしまえるほどの問題なのだった。
「……むずかしくてよくわかんない。なんでユーバラ、そんな話をわかった風なの?」
「え、そ、それは――」
「――要するに、戻れる時間が前倒しになってるってことだ。仮にお前の提案した襲撃作戦がしくったとして、いざ時間を巻き戻しても作戦決行前に戻ってこれる保証はねー。むしろ今の場合、失敗した後の時間に巻き戻る可能性が高いだろーな」
「……りかい」
人差し指を立てながらゆっくりと説明した闇﨑さんに、陰々蛇さんは得心がいったようにこくりと紙袋の頭を頷かせた。
つまり、『巻き戻し』による失敗を前提としたトライアンドエラーは出来ないという共通理解が、ここにきて出来上がったわけだが。
「クソ……肝心な時にオレの力、使えねー……ッ!だからオレはこのクソくらえな異能が大嫌いなんだよ……!」
「アンザキ……おちこまないで。自分の異能がきらいなのは、ぼくもおなじ」
「陰々蛇……」
ぽんぽんと、陰々蛇さんは苛立ちを露わにする闇﨑さんの頭を粗雑に叩く。どこか不器用に見えても、それが彼女なりの慰めなのだろうと、傍から見ていてぼんやりと思う。
「あれ、そういえば今おもいだしたけど……」
と、そこで彼女は何かに気付いたようにそっと闇﨑さんの頭から手を離し、小首を傾げてその疑問を口にする。
「……おまえ、いつものダボダボの黒いパーカーどこにやった?」
「……あ?」
「いつも、不良みたいにずっとフードかぶってるじゃん。ていうか不良だけど」
「確かに――言われてみれば、珍しいね」
今の闇﨑さんの格好は、上はネクタイに白シャツ、下はミニスカートと標準的な女子の学園制服だ。だがいつも生徒会で顔を見せる彼女はその上からダボダボの黒いパーカーを羽織っており、そしてそのフードを常に深々と被っているから、言動も相まって一見すればどこか不良児のような印象を受ける少女である。
実際はその中身は常識的で、ただの勝ち気な彼女のファッションでしかないという所まで含めて、外せない特徴の一つなのだが……怒涛の展開が続きすぎて、服装の違和感まで考える余裕が無かったのだろう。
だがそれを指摘された当の彼女は、どうしてか見当が付いていないかのようにその形の良い眉を顰めて、僕らの顔を怪訝そうに見渡してから、口を開く。
「……お前らマジで何言ってんだ?」
「……え?」
「オレ、お前らの前でダボダボの黒いパーカーなんて、着てたことねーぞ……?」
「え、それってどういう――」
だが、それを僕が追求しようとした――その瞬間のことだった。
「――ぁ」
カシャッと、
短い音がきこえ
『忍耐』(緑色)→負担を肩代わり




