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五日目 外は広かった(前編)

「海に行きたいなぁ」


病室のドアを開けるなり、透がぽつりと呟いた。


「……海か」


透は小さく頷く。


「うん、海。潮の匂い嗅いで、波の音聞いて。砂浜は無理でも、堤防でぼーっと座るだけでいい。」


そう言うと、飴玉をカリ、と噛み砕いた。


珍しい。


透はいつも飴を最後まで舐めて溶かすのに。


「車椅子で行ける海ってあるのかな。」


少し寂しそうに笑う。


その表情を見て、私は自然と口を開いていた。


「行こうよ、海。」


透は驚いたように顔を上げる。


「行こうって……本気?」


そう言いながらも、口元は少し嬉しそうに緩んでい

た。


「行きたいなら行こう。」


昨日と同じような、無茶な言葉。


でも今日は、昨日とは違う。


残された時間を知ってしまった今、その言葉の重さはまるで違っていた。


「今から行く?」


透は目を丸くした。


「え、今から?」


壁の時計を見る。


午後四時を少し過ぎている。


面会時間はとっくに終わっているし、入院患者が外出するには許可が必要だ。


常識で考えれば、無理な話。


それでも透は、

「無理だよ」


とも、


「やめておこう」


とも言わなかった。


ただ、私を見つめていた。


「脱走しようよ」


一瞬きょとんとしたあと、透は声を上げて笑った。


「あははっ……君、ほんと無茶言うよね。」


病室に響くくらい、大きな笑い声。


久しぶりに聞いた気がした。


目尻には涙が浮かんでいる。


笑いすぎたからなのか。


それとも――。

「脱走って……バレたら大変だよ? 君まで怒られ

る。」


「私は平気。」


少しだけ笑って肩をすくめる。


「怒られるくらい、どうってことない。」


透は笑いを収め、小さく息を吐いた。


そのまま胸に手を当てる。


少しだけ呼吸が浅い。


「……じゃあ、行く。」

静かに。


でも、迷いなくそう言った。


透はベッドから足を下ろし、ゆっくりとスリッパを履く。


昨日より動きはぎこちない。


それでも、その目だけは真っすぐ前を見ていた。


「車椅子……クローゼットの中。」


私はクローゼットを開けた。


折りたたまれた車椅子が、奥にしまわれている。


入院してからずっとここにあったはずなのに、ほとんど使われた形跡はなかった。


タイヤカバーを外し、ぎこちなく組み立てる。


慣れてはいないけれど、なんとか形になった。


その間に、透は薄手のコートを羽織る。


水色の病衣のままでは、さすがに目立ってしまうから。


「ナースステーションの裏の非常口から出られるはず。」


透は立ち上がろうとして――ふらついた。

「透!」


慌てて体を支える。


細い肩が腕の中で小さく揺れた。


「大丈夫?」


「……うん。」


透は照れくさそうに笑う。


けれど、その声は少しかすれていた。


私はそっと車椅子へ座らせる。


ブレーキを確認して、深く息を吐いた。


病室のドアを静かに開ける。


廊下を覗くと、人影はほとんどない。


消灯前の病院は、昼間とは違う静けさに包まれてい

た。


非常口までは、左へ曲がって突き当たり。


私は車椅子のグリップを握り直した。


車椅子の上の体重は驚くほど軽かった。


「……軽いね。」


思わず漏れた言葉だった。


透は苦笑する。


「食べてないからね。」


軽い。


本当に軽かった。


コートの下の体は、こんなにも細かっただろうか。


看護師が一人、デスクで書類に目を落としていた。


こちらには気づいていない。


車椅子のタイヤが床を擦る音だけが、小さく廊下に響く。


息を潜めながら、非常口へ向かった。


ドアを開ける。


ひやりとした秋の風が頬を撫でた。


夕暮れの光が駐車場を橙色に染めている。


透はゆっくり顔を上げた。


「……わ。」


思わず漏れた、小さな声。


病室の窓から見ていた空とは違う。


どこまでも続く、広い空。


建物に切り取られていない、本当の空だった。


「久しぶりだなぁ……外。」


目を細め、ゆっくりと息を吸い込む。


冷えた秋の空気が肺に入った途端、小さく咳き込みそうになって口元を押さえる。


それでも笑っていた。


「空が広いって、こういうことだったんだね。」


私は黙って車椅子を押した。


病院の敷地を出る。


駅へ向かう近道ではなく、川沿いの遊歩道を選んだ。


銀杏の葉が風に舞い、川面へ黄金色の雨を降らせている。


夕陽を映した水面が、ゆらゆらと揺れていた。


犬を散歩させる老人。


ベンチで缶コーヒーを飲むサラリーマン。


制服姿の高校生。


世界は、いつも通りだった。


誰かの命が終わりへ向かっていることなんて、知らないまま。


透は川を眺めながら、小さく呟く。


「こんな景色、もっと早く見たかったな。入院する前に。」


「……透。」


「君がいなかったら、多分僕、もう外へ出ようなんて思わなかった。」


そう言って、車椅子のハンドルを握る私の手に、そっと自分の手を重ねた。


冷たい指先だった。


「だから、ありがとう。」


私は何も返せなかった。


ただ、少しだけ車椅子を押す手に力を込める。


駅へ着き、夕方の電車へ乗り込む。


ラッシュが始まる少し前だった。


車椅子のまま乗り込むと、何人かがこちらを見た。


けれど、それもほんの一瞬。


すぐにスマホへ視線を戻していく。


海沿いの駅まで三十分。


窓の外の景色は、ビル群から住宅街へ。


住宅街から畑へ。


少しずつ色を変えていった。


揺れる電車の中、透は吊り革の代わりに私の制服の袖をそっと掴んでいた。


顔色は白い。


それでも口元には笑みがある。


「……なんか、脱走してる感じすごいね。」


いたずらを成功させた子どものような声だった。


「だって脱走だもん。」


二人で小さく笑う。


電車がゆっくり海沿いの駅へ滑り込む。


ホームへ降り立つと、潮の香りを含んだ風が吹き抜けた。


改札を出る。


防波堤の向こうに、夕焼け色の海が広がっている。


透は、その景色を見た瞬間――息を呑んだ。


「……すごい。」

―――前編終了―――

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