1-14 二番台三回戦 優奈 vs 真琴(三)
眼前に悪夢が繰り広げられていて、優奈はその真ん中に放り込まれたような、気の遠くなるような感覚を覚えていた。
何本スマッシュを決めても、台から大きく離れた真琴が、のんのんとカウンターを決めてくる。
チキータやフリックや、あの手この手を駆使して先手を打ち続けたが、悉く後の先を取られ、そして点を失っていく。
二回目のタオル休憩が認められる頃には、3-9と大きく点差を付けられていた。
台の下からお気に入りの——七海曰くアナウサギらしいが、そんなことを気にしたことなんてない。第一、ノウサギとアナウサギの違いも知らない——うさぎの模様がプリントされたタオルを引き摺り出して、それを口許に押し付けた。
そしてタオルの中に、胸の内で迸る激情を吐き出した。
間もなくタオルに顔を埋め直すと、目元に頬に、タオルに吐き捨てた熱が返ってくる。
そうしてしばらく彷徨っていたが、六点ごとに認められるタオル休憩は、明確なルールこそないものの、与えられる時間はかなり短い。
気持ちも、これからの戦術についても、まったく整理の出来ないままに、優奈は台に戻ってきた。
対面を見てみると、真琴も同じようにタオルを引き摺りだして汗を拭いているのが見えた。
にこにことした微笑みを崩さない彼女も、汗はかくらしい。
頭の中だけでそう呟いてみてから、優奈ははたと気がついた。
真琴の持つタオルが、異様に大きいのだ。
その幅は真琴の肩幅ほどはあり、そしてその長さといえば、少なくとも彼女の首筋からへその下辺りまではある。
端っこが台の下に隠れてしまっているので、その全貌が明らかになっているわけではないが、優奈が使っているハンドタオルよりも、数倍大きいのは明らかだ。
そのタオルを、ぎょっと目を丸めながら優奈が凝視しているのに気がついたようで、真琴は少し眉を潜めながら、
「汗っかきなんですよぉ。ええ制汗剤知ってたら、教えてくれません?」
なんて言いながら身を捩った。
優奈は少しだけ思考を巡らせたが、自分がそこまで汗をかかないことを思い出したので「力になれるかは分からんで」と、前置いておくことにした。
まだ春先の、暖かくなり始めたばかりだと言うのに、バスタオルを持ち込んでくる人間の気持ちなんて、優奈には逆立ちしても分かりそうになかった。
優奈はタオルを台の下に戻して、サービスを構えようとした。
不意に気になって台の下を覗いてみたが、当然、そこに真琴のタオルはかけられていなかった。
考えてみれば当たり前だ。
あんなに大きなタオルが台の下にかかっていたら、台の上のボールを拾うために足を前に出した時に、邪魔になるに決まっている。
しかし、台の下でないなら、何処に仕舞ったのだろう。
しばらくあのバカデカタオルの行方を追ってみたが、結局見つかりそうになかったので、何もないふうを装いながらサービスを構えた。
さて、毒っ気を抜かれてしまったところで、悪夢のような状況は変わらない。
3-9。
アホな男子たちが時折、銀河鉄道などと呼んだりするこの点差は、背負った六点のビハインドを、相手があと二点取る前に奪い返さなければならない。
しかもそのうち、二本は相手のサービスから始まる。
二点取られればゲームが終わるというのに、初球の主導権がこちらにないラリーが、二本もあるのだ。
つまるところ、一本のミスもしたくない。
優奈は小さく吠えてから、低めにボールを投げあげた。
勝つために攻めに行きたいのに、ミスが怖くて怖くて仕方がない。
気が付けば優奈は、今までの速攻のスタイルを投げ捨てて、ツッツキで様子を伺うプレーに徹していた。
それすらも真琴の、回転量の多いツッツキに翻弄され、ぽとぽとと落としてしまう。
こびり付く悪夢を払拭出来ないまま、第二セットは4-11で取り落とすことになった。
第三セットも、しばらく悪夢が続いた。
先手を打てば後の先を取られ、ひよってツッツキで繋ぐことに徹すれば、回転量差で押し負ける。
加えて真琴は、器用なことに、ラケットを横に薙ぐように滑らせ、ツッツキに横回転を混ぜてくるなんて芸当も披露した。
横回転のかかったツッツキは、バウンドと共にフォア側に逃げるように伸び、優奈の計算を狂わせる。
守備的な技術のはずのツッツキを、さも攻撃的な技術のように使いこなすあたりは、まるでカットマンのようだと、優奈は嘆いた。
しかしここで、優奈は思い至った。
相手は、まるでカットマンなのだと。
そして優奈はフォア面に表ソフトラバーを用いており、その特性の一つとして、相手の回転をほとんど無視した強打を可能とする。
加えて、四年かけて鍛え上げた、台上技術の正確さには、自信があった。
8-4。
点差は広げられてしまったが、今から試してみても、遅くはないだろう。
優奈はフォア側に向かって逃げてくるツッツキを捉えて、思い切りよく腕をぶん回した。
久しく聞いていない快音が、卓球場中に響きわたった。
打球は矢のように放たれて、真琴のバックハンド側へ突き刺さる。
真琴も危機を察知していたらしく、既に台から大きく離れている。
そして真琴は、体の前でラケットを振り下ろして、自分の前に壁を作った。
強烈なバックスピンのかかったボールは中空を漂い、台の中心線近く降り立つと、ふわりとまた跳ね上がる。
カットだ。
この試合で、真琴が一本も使ってこなかったカットを、ここに来てようやく引き出せたのだ。
優奈は目ざとくバウンド直後を捉えると、まるで薄いポイで金魚を掬い上げるように、優しくボールを持ち上げた。
ボールは狙い通りにネットを飛び越えると、瞬きもしないうちにその際に降り立った。
台から大きく下がった真琴の足は、もう一度ボールが台の上で跳ねるのに間に合わない。
緩慢と歩いて台に寄ってくるあたりから考えても、優奈のストップを見た時点で諦めていただろう。
八点も取られてやっと、見つけ出した勝機。
それでもやはり序盤に付けられた点差は大きく、怒涛のような猛追も、詰められた差は二点までに留まった。
11-9。
第三セットも奪われてしまい、本格的に後がなくなった。
第四セット。
このセットは優奈のサービスから。
このセットは何としても取らなければならない。
取られてしまえば、敗北が確定するからだ。
そんなタイミングで自分にサービス権があることは有難かったが、一方、このセットを取るだけでは、自分の勝利は決まらない。
そのことが、妙にもどかしい。
そんなようなことが、優奈の頭の中で、ぐるぐる駆け巡った。
優奈はまた小さく吠えて、左手に載せたピン球を投げあげた。
優奈が選んだのは、相手のバック側めがけて、短めの下回転サービス。
対する真琴の回答はバックフリック。
ボールを力強く弾き、ばちんと強い音を鳴らせ、二球目から攻撃を仕掛けてきたのだ。
ボールは間もなくネットに受け止められ、真琴の元へと戻っていく。
それを器用にラケットの端で拾いあげて、ぽんと優奈方へと返してきた。
ゆるりと首をひねりながら、真琴はまたレシーブを構え直す。
1-0。
もう一度、短めの下回転サービス。
今度はフォア側に出してみる。
真琴は面を仰向けて、ボールの下側を捕らえたかと思うと、また力強くボールを弾き飛ばす、フォアフリックで応戦してきた。
バックハンドを構えて受け止める準備をするが、ボールはまたもネットにかかる。
今度はその上端にある白線をゆるりと乗り越えて、優奈方へと落ちてきた。
回転も、軌道も、勢いも、全く変わってしまったそのボールに反応できる訳もなく、優奈がラケットで拾い上げるよりも早く、二度、三度と台上で跳ねた。
真琴が左手を上げながら、すみませんと謝ってくる。
その声音がゆったりと間延びしていて、普段の口調と些かにも変化がないことに、優奈は空恐ろしさを感じた。
お互い様子を見合っていた、先刻までのゲームとは打って変わって、先手を取り合うような攻撃的なゲームに変わった。
攻撃のぶつかり合いでは、幾分か分が悪いことは優奈自身、身に染みて感じていた。
かと言って真琴の攻め手を凌いで、一番イメージの持てているツッツキ合いの展開に持ち込む為の手札なんか持ち合わせていない。
時にブロックで凌いたりしながら、小さな体で必死にラケットを奮って食いついた。
めぐるましく変化していく盤上が、二人の得点を拮抗させた。
8-8。
このセットを奪うまで、あと三点。
この試合に負けるまで、あと三点。
心臓が早鐘をうち、うるさくて仕方がないし、胸の奥に何かがつかえて、気持ち悪いような錯覚すら覚える。
心なしか、呼吸が荒くなる。
それを一息、大きく吸って整えると、優奈はピン球を、水平に開いた左手の上に構えた。
それを天井すれすれに届くほど高く投げあげると、落ちてくるボールの背中を、真上に引っ張りあげながら叩いた。
ボールは素早く台に降り立ち、勢いままに真琴のバックハンド側を目指すが、その弾道はネットに妨げられて、大きく上へと跳ね上がった。
真琴が左手を上げながら、こつっと軽くはね上げてボールを優奈へと返す。
整えたはずの呼吸は、また一段と荒々しさを取り戻した。
サービスがネットにかかって相手側の台に落ちた場合、レットといい、やり直しになる。
たとえ二回で連続レットになっても失点することはないが、それでもこちら側に落ちきた場合にはミスと見なされ失点となるので、心臓に悪いことこの上ない。
それに、奇襲性の高いスピードサービスを見られてしまったのも痛手だ。
早いピッチで意表を突くつもりが、逆に警戒される事態になりかねない。
もう一度スピードサービスを狙うか、はたまた別の手を使うか。
ボールが手元に帰ってくるまでの僅かな時間の中で、優奈は思考に思考を重ねた。
受け取ってから台に対して横向きに構えてから、投げ上げる前に正面に向き直り、体の正面でサービスを構え直した。
やるっきゃない。
ボールを気持ち高めに投げ上げて、ボールの落下に合わせてしゃがみ込む。
台のギリギリにまでボールが落ちてくるのを待ってから、ボールの背面をもう一度叩いた。
回転のよく掛かる、しゃがみ込みサービス。
に見せかけた、スピードサービス。
バックハンド側へ。
優奈はフォア側に向かって逃げるはずのそのサービスで、あえて逆のコースを狙って勝負に出た。
ボールの背を叩いただけなので、回転もおよそかかっていない。
読まれれば猛反撃を貰いかねない大勝負だ。
真琴は一瞬フォアハンドを出しかけてから、いつもの緩慢な動きからは想像もつかない早さでバックハンドを構えたが、少し遅かったようだ。
ボールは高く跳ね上がり、優奈の眼前に落ちてきた。
またとないチャンスボール。
ボールがゆっくりと台に降り立って、もう一度跳ね上がる。
優奈はテークバックを大きめに取って、その背をもう一度強く叩いた。
渾身のスマッシュ。
それはネットに向かって一直線に突き進んで、間もなく行く手を阻まれた。
優奈は思わず地団駄を、一度強く踏みつけて、その反動で背を反らして天井を見上げた。
間もなくうめき声を上げながらうずくまり、台の下へと隠れてしまった。
ボールが台から転がり落ちて、向こうでこんこん跳ねている音が聞こえる。
それを真琴がわざわざ取りに来て、優奈に視線を合わせるようにかがみ込んで手渡そうとしてくれる。
微笑みながらこちらを覗き込む真琴の顔を、優奈は前髪越しに覗き込んだ。
それから何度も鼻をすすって、真琴からボールを受け取った。
8-9。
もう一度しゃがみ込みサービスを、今度はボールの横側をしっかり切りつけて回転をかける。
真琴がそれをいなしたのを、無我夢中に叩き返す。
ボールはエンドラインを超えて吹っ飛んでいってしまい、とてとてとボールを追いかけていく真琴の背中が見えた。
胸元がすっかりつかえてしまって、満足に息を吸うことが出来ない。
世界から音が消えたような気すらした。
10-8。
真琴はバックハンドサービスから綺麗に三球目攻撃を決めると、力強いドライブで攻め立ててきた。
涙で歪んだ視界の中、ボールを必死に追いかけてブロックを合わせるが、防戦一方になる始末だ。
やがて真琴のドライブが、優奈の脇をすり抜けていった。
振り返ることも出来なかった。
11-8。
決められた瞬間、優奈はもう一度うずくまって、今度こそ、立ち上がることが出来なかった。
烈火「さすがまこちゃん。強いなぁ」
七海「優奈先輩大丈夫か?めっちゃ怒っとらへん……?」
葵「いつもああだから気にしなくて良いよ。もうちょっと、落ち着いてくれると嬉しいんだけどね」




