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68. 不安との遭遇

師範の自宅に刑事さんがいたのは予想外だったが、話が早く伝わってよかった。もっとも、中学生に過ぎない俺の話がどの程度重要視されるか分からない。かえって、捜査を引っ掻き回すことになるかもしれないし、過度な期待は禁物だ。


長話をしてしまったので帰りが遅くなってしまった。外はすっかり日が落ちていた。周りに注意を払いながら自宅に戻り、玄関のドアを開けようとすると、鍵がかかっていないことに気付いた。用心のために必ず施錠しておくことは家族で確認し合ったのに。


俺は嫌な予感がした。この時間に父はまだ帰宅していない。家には母1人のはずだ。単にかけ忘れただけなのか。もし、中に母以外の人間がいるとすれば、俺が今立てた物音で外に誰かいることを察したに違いない。このドア1枚隔てたところに、入間が息を潜めているのかもしれない。


俺はそっとドアから離れた。そして玄関からは死角になるとこまで下がって少し様子を見た。ドアが開く気配はない。どうすべきだろうか。母のことは心配だが、単身で飛び込べば俺も母も危険かもしれない。何とか中の様子が分からないだろうか。


とにかく、父に知らせるか。俺はスマホを取り出して父にかけようとした時、着信があった。表示されたのは自宅の固定電話だ。どうしよう、出るべきか。もし、母が遅いのを心配してかけていただけなら、母には悪いが出なくても問題はない。しかし、入間が母にかけさせたのだとしたら、出ない場合はどうなるのか。母に危害が加えられるのか。それとも、もう···


悩んでいる間に留守番メッセージに切り替わってしまった。すると、メッセージに聞き慣れない男の声が吹き込まれた。


『近くにいるのは分かってる。大人しく中に入れ。通報したら母親を殺す。』


悪い予感が当ってしまった。ヤツはどうやって家に押し入ったんだ。いや、今はその事はいい。とにかく、今はどう対処するかだ。言う通りに中に入るしかないのか?しかし、このままではアイツの思う壺だ。


俺はスマホの画面にあるアプリの一つに目が止まった。ゲームのように見えるそれは先日、詩音経由で漣から教えてもらったアプリだ。一縷の望みをかけて、そのアプリを起動した。それから、意を決して玄関に近づき、ドアを開けた。


家の中は真っ暗だった。キッチンの入り口の奥から仄かな明かりが見える。俺はそちらに慎重に足を進めた。キッチンの戸口に立った時、眩しい光が俺を襲った。どうやら災害時用の強力な懐中電灯のようだ。光の中にそれを照射している人の姿の形だけが見える。


その隣にも椅子に座っているらしい人間がいる。おそらく、それが母だろう。猿ぐつわでもされてるのか、声を発しないが時折モゾモゾと動いている。拘束もされてるのか。


「そこで止まれ。お前が涼太か。お前の母親はここにいる。殺されたくなかったら俺の言う事を聞け。分かったら声を出さずに頷け。」


俺は首を縦に振った。


「よし、まずはスマホを出して、こちらに寄こせ。余計な真似はするなよ。」


言われた通りスマホを取り出し、男の方へ床に滑らせた。男は懐中電灯を俺に向けたまま、スマホを拾い上げた。片手は空いていたのか?凶器を持っていないなら、飛びつけば···いや、まだ迂闊に判断はできない。


「暗証番号。」


俺が数桁の番号を言うと片手で素早く操作した。そして、しばし手を動かして何かを確認すると、電源を落としてキッチンのシンクに放り投げた。恐らく、俺が通報してないか通信履歴を見て確認したのだろう。ガコンという音がしたので、シンクに水が張られていなかったようなのは不幸中の幸いだった。


「では、質問タイムだ。声を出さずに首を振って答えろ。俺のことは覚えてるか?」


俺は首を縦に振った。


「ふん。なら、話は早いな。俺がここにいることを知っている人間は他に誰かいるか?」


首を横に振った。


「俺がここに来た理由は分かるか?」


予想はしているが、確信がある訳じゃない。俺はノーと答えた。


「そうか、じゃあ、教えてやる。俺は人を探している。白河琴音のことは覚えているか?俺の婚約者だった女だ。そいつが俺以外の男と付き合っていたらしい。それが誰か知っているか?琴音をネットに曝したあのバカのことじゃないぞ。」


嬉しくはないが、俺の予想が当たってたわけだ。俺は首を横に振った。知らないものは知らないからな。


「ま、そうだよな。当時のお前はまだガキだったもんな。そのことを知ってそうな人間は他にいないか?」


知っている人間がいるとすれば、じいちゃん先生になるのだが、あの様子では本当に知らないのだろう。俺はまたノーで答えた。


「チッ、クソっ。お前以外にも道場の関係者でまだ残ってるやつがいるだろ。そいつらは?」


俺は少し思案した。いると言えばいる。しかし···


「どうした、早く答えろ!」


入間が段々冷静さを欠いてきている。危険な兆候だ。


まだか···あのアプリは実際に試したことがない。

ちゃんと役に立ってくれるのか。


俺は首を縦に振った。


「いるんじゃねえか。じらすんじゃねえよ。さあ、声を落としてゆっくりそいつの名を言え。大声を出したら、すぐにこの女の首を掻き切る。いいな。じゃあ、言え。」


俺は慎重に言った。


「遠見雄一、あんたを逮捕した元警察官だ。」


「うっ、ぐ···そいつ以外は!」


「いない。あんたのせいでみんな辞めたんだ。」


男は大きな音を立てて床を踏み鳴らした。


「はあ!?俺のせいだと?俺が何したってんだよ!俺はただ、琴音を連れ戻そうとしただけだぞ!それをお前が邪魔したんじゃねえか!そのせいで逮捕されて務所に入れられたんじゃねえか!そのせいで琴音が死んじまっちまって···クソっ、クソクソクソっ!クソっがあ!」


男は興奮し、その辺にあるものを手当たり次第になぎ払った。激しい物音と共に懐中電灯の光線が部屋の中を目まぐるしく動き回る。俺は息を潜めてその場にしゃがみ、素早く壁際に移動した。


「おい、ガキ!どこ行った!出てこねえと、この女殺すぞ!」


男は狂気を帯びた怒声をあげた。俺には大声を出すなと言っておきながらだ。かなり激昂している様子だ。これ以上キレさせると何をするか分からない。どうにか抑え込むことはできないだろうか。


発見される前に一か八かの覚悟を決めようとした時だった。窓のカーテンの隙間から眩しい光が入り込んだ。そして赤い光がグルグルと明滅している。パトカーの回転灯のようだ。


「通報してやがったのか、クソガキ!死ねえっ!」


男がどこから取り出したのか刃物のようなものを振り上げた。俺は咄嗟に低い姿勢のまま、薄っすら浮かび上がる人の姿に体当たりをかました。男はたまらず窓際に吹っ飛び、体制を立て直そうと慌ててカーテンを掴んだ。レールからカーテンが外れ、外からの光が窓から入り込んだ。


俺は拘束された母を背にして男と対峙する形になった。パトカーの照明に浮かび上がるその男の顔は、以前より痩せているが、かつて俺を殺しかけた入間和正に間違いなかった。その目はあの夜と同じように怒気に満ちていた。そして、手には刃物が握られたままだった。


入間は手持ちの刃物を俺に向けた。どうやらサバイバル用の刃渡りの長いナイフのようだ。凶器を見て早る心臓の鼓動を感じた。口の中が乾いて唾液も出ない。喉がカラカラで今は声も出そうにない。俺は両手をだらんと下げ、力を抜いて棒立ちになった。


ヤツには俺が抵抗する勇気もなく、ただ無防備に突っ立ってるだけに見えるだろうか。実際の今の俺は、全身に薄っすらと緊張感を身にまとい、いつでも瞬時に動ける状態だけどな。ゆっくり静かに腹で呼吸しているが、その腹の底はメラメラと怒りで燃えている。


入間は突きつけていたナイフを振り上げた。全くのド素人な動きだ。ヤクザのように腰に構えて突進してきたら、母を背にして引くことができない俺にはヤバかったんだがな。でも、それでも一瞬で極めるしかない。


振り降ろされるナイフ。ヤツは右利きだ。俺は腰を落としつつ右手右足が前の半身の構えで前に出た。入間の呼吸に合わせてナイフを持つ腕の肘を左手でそっと押して軌道を反らしつつ、右手で男の顎の下から掌底を叩きつけた。カウンター気味に顎を突き上げられたヤツは上半身を仰け反らした。俺は息を吐きながら脚、腰、背の順に力を這わせ、その伝達した力を右腕の鋭角に曲げた肘関節に乗せてヤツの胴体に突き刺した。鳩尾に入り、ヤツは体をくの字に曲げ呻き声を上げる。


怯んだ隙に俺は男の右手首を取り、素早く転身しながら男を投げた。ようやく、男の手からナイフが離れた。俺はそのまま掴んだ腕を捻り上げて男を床に組み伏せた。


俺も興奮して我を忘れていたに違いない。その後に突入してきた警察官達に無理矢理引き離されるまで、俺は必死に男を締め上げ続けていた。男はとっくに気絶していたにもかかわらず。



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