66. 思い出す不安
何事もなく詩音を送り届け、俺は自分の家に帰ることにした。家までは徒歩5分程度だ。大丈夫、すぐに着くさ。俺は早足で歩いた。住宅街は人がいそうで意外と人通りが少ない。その事が不安を掻き立てる。
家に着く手前でスーツ姿の男がメモを見ながらキョロキョロしていた。無視して通り過ぎようとしたら、声をかけられた。
「あ、すみせん。」
「え、な、何でしょう?」
痩せぎすで髪の毛の薄い貧相な見た目の男だ。手にはデパートの包装紙に包まれた、いかにも手土産っぽい荷物を持っている。
「すみません、道に迷ってしまったみたいで。ここの場所を教えていただけませんでしょうか。」
「えーと、ここは···」
手渡されたメモに書かれた住所はじいちゃん先生の自宅だった。俺の心臓の鼓動が一気に跳ね上がった。
どうしよう。
この男なのか?
この男が元婚約者なのか?
問いただすか?いや、それはまずい。
知らないとしらを切るか。そうだ、そうしよう。
俺が口を開こうとした瞬間だった。
「あら、涼太。帰ってたの?」
母がそこにいた。買い物か何かから帰ってきたとこなのか。
「りょーた?」
その聞き覚えのある声にゾッとした。
男は不思議そうな顔で俺を見ていた。
「す、すみません。どの辺かちょっと分らないです。最近、越してきたばかりなので。」
俺は苦しい言い訳をしてメモを男に押し付け、母の背中を押して玄関に入り鍵をかけた。
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!
すぐにじいちゃん先生に知らせないと。俺は母が何か言ってるのも聞かずに、自室にあるスマホを取りに行った。
出てくれ、頼む。
『もしもし』
「師範、涼太です。たった、今」
『待て、涼太。まずは落ち着け。ゆっくり深呼吸じゃ。1、2、3、ほれ、何があったか話してみい。』
「すみません、取り乱しました。今、自宅なのですが、家の前で男に話しかけられました。師範の自宅住所の書かれたメモを見せられて、場所を教えてほしいと。」
『ふむ、どんな男なじゃった?』
「とても痩せた男です。髪の毛が薄くて、スーツ姿でした。手には手土産のような荷物を持ってました。」
『ふーむ、それだけでは何とも言えんのう。で、場所を教えたのか?』
「いえ、それが家の前で母と鉢合わせてしまったので急いで家の中に入ったのですが、その時に母が俺の名前を言ってしまいまして、すると男が『りょーた?』と···」
『むう、もしや?』
「はい、昨日、路上で聞いた呟きと同じ声でした。」
『···そうか。分かった、涼太は家から出るな。お母さんにもそのことを伝えて、2人共一歩も外へ出るでないぞ。儂の方は心配せんでいい。分かったな?』
「しかし、それでは師範が。」
『心配するなと言ったはずじゃ。涼太は自分と自分の家族を守れ。いいな?くれぐれも早まったマネはするなよ?』
「分かりました。師範もどうかお気をつけて。」
俺は電話を切って、部屋の外でうるさい母親に説明に行った。なんで俺の周りにはこうも間の悪い人間が多いのか。
一通り説明が終った頃に父が帰ってきた。もしかして、同じ説明をもう一度始めからやる流れなのだろうか。ちょっと、勘弁してほしい。
結局、二度目の説明をさせられた。母が晩御飯の用意を忘れていたので、今、レトルト食品を温めているところだ。否が応でも緊急事態の避難生活を連想させられてしまう。
「あのニュースの話の裏で、そんなことになっていたとわなあ。あれから何年も経っているというのに、あの事件はまだ終わってなかったのか。」
「父さんは外でスーツ姿の男を見なかった?」
「ああ、誰にも会わなかったぞ。剣道の先生を探してたんなら、そっちに行ってるだろ。」
「そうだよなあ···」
「それに、その男が犯人とは限らんだろ。俺が覚えてる入間という男と人相も違うしな。」
「そうなのか?」
「ああ、頭は禿げてなかったし、体格も太ってはいなかったが、そんな極端に痩せてもいなかった。まあ、務所生活で変わってたら分からんが、年齢はまだ20代後半のはずだ。お前が見たのは明らかに中年男だったんだろ?」
「そう···だと思う。」
「まあ、中学生から見れば20代後半もおじさんの部類かもしれんが、中年には見えんだろう。だから、別人の可能性が高いと思うぞ。剣道の先生に電話してみるといい。」
「うん、わかった。」
時間が少し遅いが、じいちゃん先生に電話をかけてみた。
「うむ、涼太の言っておった男は来たぞ。儂あての客人じゃったわい。あの男とは全然無関係じゃったわ。」
俺は盛大に安堵した。受話器から笑い声が聞こえてきた。
「しかし、安心ばかりはしておれん。その客人は今日ここに着いたばかりでな、昨日はこの街にはおらんかったそうじゃ。つまり、昨日涼太が会ったかもしれない人物とも別人ということになる。引き続き警戒は必要じゃろうな。」
安堵感が一気に消え去った。電話を切ると、父がキッチンから俺を呼んだ。
「涼太、このニュース見ろ。九州の殺人事件の容疑者だとよ。やっぱり、思った通りだったんだな。」
テレビ画面には重要参考人として犠牲者夫婦の息子の顔写真が表示されていた。入間和正。その顔は俺がかつて意識を失う一瞬前に見た男の人相と一致した。ずっと、忘れていたが、急に記憶が蘇った。
記憶の中のその男はとても怖い顔つきをしていた。目は怒りに我を忘れていて、琴音さんに襲いかかろうとする様子に躊躇は見られなかった。
慌てて飛び出した俺に向けられた男の目はとても恐ろしかった。その怒りの感情のままに、突き出された手が俺を吹っ飛ばし、その後の記憶はテレビの電源を落としたようにプツリと消えた。
あまりにも鮮明に思い出したので、テレビの顔写真の方がむしろボヤケて見える。家の前で会った男とは確かに似ても似つかなかった。なんであの男を入間と思ったのか、今となっては自分でも滑稽だ。よっぽど、心に余裕がなかったんだな。
「おい、大丈夫か?」
父が心配そうな顔をしている。気がついたら、全身から汗が吹き出ていた。心の奥底に沈められていた記憶を想い出したことで、忘れていた恐怖感が全身を襲ったようだ。今の俺は相当酷い顔をしているらしい。
風呂に入って汗を流した。湯船に浸かりながら、いつまでこんな生活が続くんだろう、と思うと憂鬱になった。実際に何かが起こったわけでもないのにな。じいちゃん先生が何度も早まった行動をするなと釘を刺すのも分る気がする。安易な解決策があったら、そっちに飛び付きそうだ。
上がったら、透子に電話してみようかな。俺が透子の心をケアするつもりが、自分がケアされようとしている。つくづく自分の弱さを痛感する。あの日、何もできずに気絶してしまい、みすみす琴音さんを死なせてしまった。あの時から俺は何も変わっていない。
試合に勝って、トロフィーがいくら増えても、拭われることのなかった不安感。それは、あの時の恐怖感が潜在意識に常に残っていたからだったのか。俺はあれからずっと怯えてたわけだ。そう思うと何だか笑えてきた。漣に偉そうに稽古つけておきながら、一番の弱者は俺だったのだ。
気がついたら、目から涙が流れていた。なんの涙なんだ。情けない自分を憐れんでか?死んだ琴音さんへの申し訳無さか?やっと自分を見つめることができたことの感涙か?感情がグチャグチャになって、もう何がなんだか分からなかった。それがようやく落ち着いた時は、不思議なくらい腹が座っていた。
来るなら来いよ。
かつて感じたことのない暴力的な自分が、過去の弱い自分と入れ替わるように生まれていた。




