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60. 蔓延る不安

俺は愕然としたよ。あんなに賑やかだった道場がガランとしてさ。大人達も事件の後でみんな憔悴してて、特に師範の奥さんは一気に老けちゃって。その後、間もなく心労で倒れてさ、そのまま戻って来なかった。最期の直前は本当に見るのも痛々しかったよ。


琴音さんは俺がもう助からないものだと思ってたみたいだ。自分のせいで子供に犠牲が出た、自分が巻き込んだんだ、と酷く取り乱していたそうだよ。いつもはあんなに気丈で落ち着いてた人だったのにな。そして、罪悪感に押し潰されて、とうとう自殺してしまった。自分がいたら、また誰かを不幸にするからと。あの夫婦の件も、本当は気にしてたんだろうな。


そして、俺を突き飛ばした男だけど、そいつこそが琴音さんの元婚約者だったんだよ。とうとう居場所を突き止めたんだな。その男は傷害の現行犯で駆けつけた警察に逮捕された。実は当時まだ現職だった師範代だったんだけどな。


師範代は自分の目と鼻の先で事件を止められなかったことに責任を感じて辞職した。と言っても、師範代は特練員で機動隊員だったから、そんな一般の事件に責任なんてあるはずないんだけどな。自主退職って形になって、師範が就いてた警備会社の役員のポストを譲り受けたらしい。え、何で詩音が知らないんだよ?


ともかく、逮捕された元婚約者はその後の刑事裁判で有罪になった。俺が死んでたら殺人罪だったけど、生き返っちまったからな、傷害罪で短い有期刑になった。琴音さんは自殺したけど、それは直接の因果関係はないということで、そっちの責任は問われなかったようだ。


ここまでが、過去の話だ。一旦、休憩しようか。

喋りすぎて、喉乾いた···




ふう、透子の淹れた紅茶は本当に美味いよな。

今までの話で何か質問ないか?

詩音は何か言いたげだけど、別にいいのか?

じゃあ、今の話をするぞ。


問題は、その後の元婚約者の動向だ。この男にしてみれば、俺や逮捕した師範代、或いは道場に関わる人間達のせいで、大事な琴音さんを失ったということになる。逮捕されて拘置所に入れられた時は本当に手を付けられないほど暴れたらしいってのは、師範代の現職時代の伝手からの情報だ。


そして、この男の刑務所での年期がいよいよ明けた。今はもう外の世界にいる。刑務所内では淡々と刑務作業に就いて真面目に過ごしていたようだが、出所した途端、行方が分からなくなったらしい。


何でそんなことが分かるかと言うと、これも師範代の伝手のおかげなんだよ。師範代は警察を辞めた後もこのことを気にして、ずっと見張ってたんだな。もしかすると、警察を辞めたのも、この件だけを追い続けるためなのかも、というのは穿ち過ぎか。


とにかく、勝手な怨恨を抱いた危険な男が行方をくらませている状態なんだ。あくまで可能性の話だが、俺や師範代、そして道場関係者の前に姿を現すかもしれない。出所後に犯罪を犯してるわけではないので、警察も動けない。


つまり、俺が言いたいのは、道場の行き帰りに絶対に1人になるな、ということだ。あの男は前にもそれで琴音さんに接触しているからな。そして、今度はいきなり襲ってくる可能性もある。あくまで、可能性の話だ。何も起こらないかもしれないし、できればそうあってほしい。でも、用心だけは欠かさないでくれ。少なくとも、あの男の行方が分かるまでは。


俺からの話は以上だよ。

ここからは相談タイムだ。




話し終わると、まず透子が目にいっぱい涙を溜め、俺にしがみついた。俺が昔に危うく死にかけたということが相当ショックだったようだ。


「お取り込み中に悪いけど、一つ質問していい?」


「ああ、大丈夫だ。」


「その婚約者の話、私は初耳なんだけど、涼太はいつから知ってたの?」


「あー俺は事件の被害者だからな。記憶が戻った後に事情聴取で警察から一通り聞かされてた。でも、師範達は他の人には伏せてたんだ。ただでさえ、琴音さんの自殺でみんなショックを受けていたからな。いたずらに不安を煽るようなことはしたくなかったんじゃないかな。」


「でも、その男は失踪したわけでしょ?だったら、ちゃんと公表すべきよ。」


「失踪したと分かったのは最近なんだ。それまでは刑務所内にいたからな。居場所が分かっている内は安全だったから、公表する必要がなかったんだ。多分、近い内に師範の方から説明があると思う。でも、詩音と透子には先に説明しとくべきだと思って、了承をもらったのが昨日のことだ。」


「どうして、お父さんは私に何も言ってくれなかったのかしら···」


「それは···俺にも分からない。でも、師範代は詩音のためを思って黙ってたんだと思う。俺も師範から散々、自分から首を突っ込むようなマネはするなと言われてるからな。わかるだろ?」


「・・・」


「ねえ、どうして漣には言わなくていいの?」


「流石に、白昼堂々と襲ってくるような事はしないと思うんだよ。それに帰りは父親の車が迎えに来るからな。ある意味一番安全だから、説明は後でいいかと思ったんだ。」


「なるほどねえ。でも、やっぱり、ちゃんと言ってあげるべきだと思う。大事なことなのに、仲間外れにされたら、本人はどう思うか分からないでしょ?」


「言いたいことは分かるよ。漣には後で電話しとく。ただ、師範からちゃんと公表するまでは、他の人には喋らないでくれ。最初に約束した通りだ。」


「なんでよ、相手は犯罪者よ?他の人達が危険な目に遭ってもいいと言うの?」


「詩音、違うんだ。男は元犯罪者なんだ。刑期を終えて、今は俺達と同じ一般人だ。下手に不安を煽って騒ぎが大きくなったら、逆に師範達の社会的立場が危なくなる。だから、今できるのは、知ってる人達が目を光らせておくことくらいしかないんだよ。」


「悔しい···琴音さんが死んだのはその男のせいじゃない。そんなヤツに怯えなくちゃならないなんて。」


「詩音、琴音さんの自殺に関しては俺にも責任がある。俺があの時もっとしっかりしていれば···もっと強ければ···もっと早く意識を取り戻していれば・・・後悔しなかった日はないよ。だからこそ、俺は2人を危険に遭わせたくない。今日こうやって話をしたのも、そのためだ。悪いが今は耐えてくれ。」


詩音は膝の上の両手の拳を血が滲み出そうなくらい強く握った。唇をギュッと噛み必死に怒りと悔しさを耐えているようだ。見ていて痛々しい。だからこそ、師範代は詩音に言えなかったんだと思う。


「分かった・・・涼太の言う通りにする。」


「飲み込んでくれてありがとうよ。もう事情を知ってしまったんだから、師範代もちゃんと話してくれると思う。」


「後で問い詰める。」


「お、穏便にな。透子もそういうことだ。道場の手伝いもしばらくは来ない方がいい。」


「ううん、道場が開いている間は行くよ。だって、危ないのは他の人達も同じでしょ?だったら、事情を知っている人が1人でも多く注意して周りを見ておくべきだと思う。」


「でも、俺や詩音はともかく、透子は何かあっても自衛できないだろ?危ないことは避けてほしいんだけどな。」


「なるほど、自衛はしていいのね。」


「だから・・・自衛の意味、分かってるか?まず、何かあっても逃げることが最優先だ。次に大声で助けを呼ぶことな。間違っても自分から向かおうとするなよ。俺はそれで失敗してるんだから。」


「じゃあ、私も大丈夫だね。何かあったらちゃんと逃げるし、大声で涼太を呼ぶし。」


「ぐぬぬ・・・分かったよ。でも、俺の側から離れるなよ?詩音もな、決して1人になるなよ。道場の帰りは俺が送るから。」


「とりあえず、竹刀袋には木刀も入れておく。」


「やる気満々じゃねえかよ・・・あのな、何も起こらなくて肩透かしになるかもしれないけど、その方がいいんだよ。今日の話はあくまで注意喚起だ。頼むよホントに。」



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