50. 新学期の回想は弱さへの決別と共に
漣君の語り回中編です。
後編も同時にアップします。
ある日、例の聖職者の男性から人伝に呼び出された。大事な話があるとのことだった。今思えば不信な点が満載なのだが、当時の僕にはそれすら分からないほど心が麻痺していたのだろう。
教会に入ると、明かりもなく薄暗かった。そして、人の気配が全くなかった。声を出して呼んでみても応える者は誰もいなかった。イタズラだったのだろうかと思い、帰ろうとしたところ、教会の扉が開き呼び出した本人が現れた。そして、後ろ手に鍵をかけた。
何だか怪しい雰囲気に僕は後ずさった。ここに来て、ようやく僕は自分があまりにも無防備だったことに気付いた。男性は何事もないように僕に近づいてきた。目の前に立つと、ここには1人で来たのか、と尋ねてきた。
僕はどう答えるのが正解なのか判断に迷った。それが、彼にとってはイエスとの回答になったのだろう。両手を上げると覆い被さるようにのしかかって、僕を押し倒した。その顔は柔和な笑顔などではなく、興奮に満ちた野獣のそれだった。
抵抗する僕の顔にビンタを食らわし、怯んだ隙に僕のシャツをむしり破いた。上半身が露わになり、男は益々興奮した様子だった。両腕を押さえつけ、ヌメヌメした舌で僕の首やら胸を舐め回した。
僕は身の毛がよだち、更に激しく抵抗してかろうじて片手を振り払った。その手で男の首からぶら下がっていた十字のロザリオを掴んでチェーンを力いっぱいに引きちぎった。そして、それをそのまま男の額に打ち付けた。
男が怯んだ隙に股下から這い出し、距離を取った。男の目には狂気が宿っていた。直ぐにまた襲いかかろうと、にじり寄ってきた。
僕の感情は、この人を人とも思わない聖職者の皮を被った化け物に対し、恐怖よりも怒りが勝った。かつて感じたことのない感情が爆発し、僕は持っていたロザリオを頭上に振り上げた。
突き立てたのは目の前の男にじゃない。自分の胸にだった。男は驚愕の表情を浮かべた。その男の目の前で、僕はそのまま自分の胸を十字に裂いた。
「聖職者のお前が、この身に刻んだ主の前でこれ以上の蛮行を続けるのか!どうなんだ!」
胸の赤い十字架から流れた血がポタポタと落ち、神聖な教会の床を汚した。男は意気消沈し、その場に跪き額を床に擦りつけ、震えながら主へ赦しを乞い願った。教会内の様子の可怪しさに気付いた人が扉を破ってなだれ込んできたのは、そのもう少し後だった。
僕は病院に搬送された。出血自体はそう多くはなかったけど、胸の裂傷が酷く何針も縫わなければならなかった。おかげでしばらくの間、学校も習い事も休まなければならなかった。
男の僕に対する暴行は未遂という形になったが、過去にも余罪があったようで、当然ながら学校から解雇され、その後どうなったのかは知らないし、知りたくもない。
僕の胸についた十字の傷痕は整形手術でも消し去ることはできず、未だに残っている。学校側は過去の事件については公表したが、まだ在学中の僕のことはプライバシーを守るためにも秘匿したいとの意向だった。僕としても、変な噂がたって注目を集めるより、早く忘れてしまいたかったので親の心配をよそに了承した。
しかし、胸に残っている傷痕を人に見られると周りの憶測を呼ぶかもしれないので、学校に復帰した後、僕はそれを隠す必要があった。学校や水泳教室の更衣室での着替えはなるべく目立たない隅の方で、水着は上下セパレートのものを着用した。
あの日、怒りの感情を一気に爆発させたことで、僕は今まで悩んでたことが馬鹿馬鹿しくなっていた。周りからどう思われようと、どうでもいい。諦めの境地で孤独を受け入れる覚悟をした頃だった。僕の声が変声期を迎えてしまった。
それはある日突然に現れたのではなく、最初は単に喉の調子が悪いのかと思っていた。数日経っても、数ヶ月経っても治るどころか、どんどん悪化していった。喉の病気を疑ったりもしたが、先生からの指摘でようやく声変わりなのだと分かった。分かったものの、もはや治るものではないと判明した以上、それに合わせた改善が必要になった。
しかし、調整は難航した。ボイストレーニングでいくら訓練しても、また直ぐに声が微妙に変わってしまうのだ。僕自身は何がどう変わったのか分からないのに、周りの人達を見ると微妙な顔をされてしまう。扱いに困るといった表情だ。
結局、少年少女合唱団としての僕の居場所はなくなってしまった。いつかこうなることは分かっていたはずなのに、いざそうなってしまうと、何だか心が空虚だった。ピアノでは失望され、合唱では不用品扱いにされ、僕の今までの努力はいったい何だったのだろうか。
しかし、僕はまたあの失意の底に戻ることを拒否した。弱い自分とはもうおサラバしなければ。あの日感じた怒りの感情、あの日自分に十字の傷をつけた激情、あれこそが偽りのない僕自身の姿だった。誰かに生かされるのではなく、自分で自分を生かすためのエネルギーの源だ。それさえあれば僕はどこでも生きていけるはずだ。
僕は単純な強さを求めた。具体的に何をどうすればいいのか全然分からないが、勇気を出して世界への扉を開くことにワクワクした。誰にも相談しないで、全部自分1人で決めることにドキドキした。安易な発想だけど、何か武道を習ってみるのはどうだろうか?
平日は無理だから、土曜日の合唱が終った後の時間でできそうなところ···今まで両親との通話でしか使ったことがないスマホで必死に検索した。近場の道場に片端から電話し、遅い時間の参加でも許してくれるところを探した。辿り着いたところが、今の剣道場だった。
訪ねた道場の師範は子供のような背格好のシワだらけのお年寄りだった。僕のわがままな要望をあっさり飲み込んで入門を許してくれた。剣道のことは全く分からなかったけど、スマホを使えば情報だけは得られるので、後は自分の努力と根性でカバーするしかない。
周りを見ると、いるのは小学生とそれを教える大人ばかりだった。初心者の自分はあのちびっ子達に混じってやることになるのか。まあ、それは致し方ない。僕は毎週土曜日に合唱のレッスンが終わると急いで帰宅し、重い鞄を押して電車を乗り継ぎ駅から20分以上歩き、道場へ通った。そして、いつも途中参加で子供達と一緒に基本の素振り稽古や打ち込み稽古をひたすらやり、また重い鞄を押して帰った。
これで強くなれるかどうかは分からないが、根性だけは鍛えられることは確信した。もっとも、見かねた父の、せめて帰りは車で迎えに行くという提案には素直に甘えることにした。
ある日、合唱団のレッスンが休みになり、剣道の稽古に最初から参加できた。早く来れたのはいいものの、着替える場所に困ってしまった。いつもは子供達が既に大声で練習をしてる中なので、隅の方でこっそり着替えても注目されることがなかったのだが、今日はまだ稽古が始まってないせいか、周りの人達からの視線を感じる。
どうしようかと悩んでいたら、後ろから声をかけられた。それが涼太とのファーストコンタクトだった。涼太の姿は何度も見ていたけど、いつも子供達の世話で忙しそうにしていて、話すことも一緒に稽古する機会もなかった。なのに、前からの知り合いのように気安く話しかけられて戸惑ってしまった。
「人前で着替えるのが恥ずかしいのか?」
厳密には恥ずかしいのではなく、見られたくないだけなのだが、説明に困るので首を縦に振った。すると、彼は僕に背を向けて壁になってくれた。僕はてっきり叱られるか、嘲笑されるかのどちらかだと思ってたのだが、彼は僕を否定するどころか、あっさり受け入れて力になってくれた。ほとんど会話を交わしたこともないのに。
肩ごしに見た彼の背中はとても分厚く、力強かった。こんな人になりたい。涼太は僕が欲して止まない力の象徴だった。




