【番外】フリュイ・コンフィとハチミツの午後(8)
慌てて部屋に駆け込んだムフタールの脳裏には、前女王が崩御した日の記憶が蘇っていた。
ロレーヌはその際にもこうして寝室に閉じこもり、食事も取らずに泣き続けたのだ。思えば好物のガトーを受け取って貰えなかったのは、あれが初めてのことだった。
いや、後にも先にもただ一度、あれきりであってほしい。
するとロレーヌはくしゃくしゃになった顔でふらと立ち上がり、倒れ込むような格好でムフタールの胸に飛び込んでくる。その左手に携えられていたクロシュの存在は、まるで目に入っていないようだった。
とはいえ華奢なロレーヌに弾き飛ばされるほどムフタールは軟弱ではないし、給仕にも慣れている。クロシュはわずかに揺れたものの、パンペルデュがそこから顔を出すといった悲劇には見舞われなかった。
「……フタール、本当にムフタールね……」
胴にきゅうっと抱きついてくる腕は細く、間近に見下ろす首筋はか細い。
――陛下……?
空いた右腕で恐る恐る抱き返す。頼りない肩がいつもよりさらに頼りなく感じられる。
「どうなさったのです。何に心を痛めていらっしゃるのですか」
「も、もう、逢ってくれないかと思った……っく、お、怒ってる? ……わたしのこと、おこってる?」
「まさか、陛下に腹を立てるなど」
とんでもない。
かぶりを振りながら、はたと思い至った。この涙は……私のためか。
私とは、もう逢えぬと思って――流したものか。
「先程は、ご、ごめんなさい、狡いなんて言って。追い出してしまって……ごめんなさい。どうか許して」
嗚咽してしがみついてくるロレーヌの姿に、急激に愛しさが込み上げた。不謹慎だとわかっていたが、ムフタールは湧き上がる喜びを抑えきれず僅かに口元を緩ませる。
「何をおっしゃいます。クレール様のお怒りに火をつけ、出て行かねばならぬ理由を作ったのは私。陛下が気に病む理由はなにひとつありませんよ」
「いいえ、いいえ……っ、ムフタールは悪くないの、わたしが、わたしが……っぅ、ひっく」
嗚咽して泣きじゃくるロレーヌは幼い頃に逆戻りしたようだ。
――パンペルデュは冷めるが致し方ない。
ムフタールはクロシュをベッドのサイドテーブルに預けると、ロレーヌを両腕でそっと抱き締めた。片腕で抱き返すより、小刻みな震えがはっきりと伝わってくるようで切なかった。
「泣かないでください。私のほうが苦しくなります」
「だって……っ、ひっく、ずるい、なんてわたし、言ってしまって……ムフタールは少しもずるくないの、に」
大きくしゃくり上げて揺れた肩をさする。そんなことを気にしていらしたのか。
「私はちっとも気にしてはおりませんよ」
「でも、本当に狡いのはわたしだわ。自分の無能さを、ムフタールの所為にした」
「無能などと……おやめください。ああ、ドレスにまで涙の後が」
震える彼女をいつまでも立たせておくのは忍びない。ムフタールはロレーヌを抱き上げるとオットマン伝いにベッドの上へ移動した。
「……いいえ、最近のわたしはちっともだめなの。何をしていても貴方の顔が浮かんでくる」
「私の、でございますか」
新たにあふれようとする涙を、親指の腹ですくって差し上げる。
水仕事で手が荒れていたら躊躇ったであろう行為に、ムフタールは若干の淋しさを覚えて複雑だった。
彼女のパートナーになれる。それはひたすら嬉しい。だが、結婚に差し当たって与えられる身分――王族として果たすべき役割は、到底二足の草鞋を履いてこなせるものではない。菓子職人としての仕事は、恐らく投げ出すことになる。
今でさえすでに手一杯なのだから、正式に夫となればもはや厨房になど立てないはずだ。いつまでも専属の菓子職人でいると誓ったが、それがいかに難しいことなのか、ここ数日で思い知らされた気がする。すると、
「国のことを考えなければならないのに、最近のわたしの頭の中はいつでも貴方でいっぱいなの。他になにも見えなくなるくらい、貴方が好きなの。女王、失格でしょ……」
突然そう告げられて、目を丸くした。
普通の十六歳であれば、それは至極真っ当な成長の通過点だ。恋に浮かされて、相手のことしか見えなくなって――。
「……私を有頂天にさせるおつもりですか」
そこまで純粋に想っていてくださったとは。
「そんな、どうしてそうなるの? わたしは今、懺悔をするような気持ちで、貴方に詫びて」
「私しか見えぬと言われて、どうして喜ばずにいられますか。懺悔がなさりたいのなら、相手を間違えておいでです」
「ムフター、……」
可愛い。本当に可愛らしい人だ。
頭上から覗き込む格好で、唇を反対に合わせる。寝室の向こう、執務室には女中が控えているかもしれないが、見咎められたらそのとき反省すればいいと思った。
「……陛下」
人形のように軽い体を抱きかかえ、膝に乗せて再び口付ける。一度目、合わせただけだった唇は、ついばんでやるとかすかに開いてムフタールを受け入れた。
しばし、指通りの良い髪を堪能しながらキスに没頭する。前回、ここに忍び込んでから大した時間は経っていないのだが、やけに焦らされた気分だった。
「ん、……あま、い……」
わずかに離した唇の隙間から、漏れる吐息混じりの声。
「甘い?」
「……ええ、ムフタールの唇、すごく甘いわ」
指摘されてハッとする。そうだ、コンフィチュールとパンペルデュの存在を忘れていた。
「陛下、これを」
慌ててポケットに詰めてあった小瓶を取り出す。
かぐわしいものと引き換えに温もりを得られる、とのことだったが既に得ている気がする。いや、得られるものならもっと得たいというのが本音だ。
ロレーヌは不思議そうにそれを受け取り、中身を確認した途端に目を見開いた。
「すごい、綺麗……宝石みたい!」
「薔薇のコンフィチュールです。陛下のために先程お作りしました」
「薔薇の? 本当だわ、花びらが入ってる。美味しそう」
「本日庭で摘んだ薔薇を使用しております。お食べになりますか」
ぱっと輝いた顔は、一瞬あとに真っ赤になる。その視線が指先に注がれているのを見て、理由をすぐに察した。
「……ご安心下さい。もし指をお使いになったとしても、私がそこを舐めたりはしませんから」
述べながら、ムフタールは若干気落ちしていた。指を舐めてあれだけ嫌がられたのだ。キスも嫌々お受けになられているとしたら、どうすれば良いのか。
「そ、それもね、わたし、反省しているの。ムフタールは毒味をしてくれたのに、勝手にドキドキして」
「ドキドキ、ですか」
「そう。キス、されているみたいな気分になってしまって、だから、その、嫌だったわけじゃないの……」
小瓶を手慰みにしつつ、チラチラとこちらの様子をうかがうさまが可愛い。照れていただけ、か。
本気で嫌がられていたのではなくて良かった。
ホッと胸を撫で下ろし、もう一度唇を重ねてからベッドを降りた。こちらも忘れずに差し上げなければ。
「実は、それを添えるためのおやつも用意してあるのです。お口に合えば良いのですが」
ムフタールはサイドデスク上のクロシュを、ドーム型の蓋を取りながら差し出す。もう冷めてしまっただろうが、味に変わりはないはずだ。
ベッドに横たわっていたロレーヌは、それを見るなり飛び起きた。
「パンペルデュ!! 食べるわっ」
素直な反応が心に沁みるほど嬉しい。
(やはり陛下はこうでなくては)
ムフタールは恭しく頭を垂れ、彼女の前にトレーを置く。ベッドの上で食事をするのは、本日限りの例外ですよと付け足しながら。
「うんっ、美味しい。薔薇が香り高くてパンペルデュもふわふわ。ムフタールはやっぱり菓子職人が天職よね」
「恐縮です。……しかし不思議ですね、菓子職人に断定されるとそれはそれで寂しい気も致します。無い物ねだりでしょうか」
「ん? 何か言った?」
「いいえ、独り言でございますよ陛下」
戸惑いばかりを感じていたが、自分は何時の間にやら飛び込む覚悟を決めていたらしい。夫としてもいつか、こんなふうにお褒めの言葉を頂ける日が来たらいいとぼんやり思う。
するとロレーヌは恍惚とした表情で、
「このコンフィチュール、一瓶しかないの? 食べ切ってしまいそう。シューケットに添えても合いそうよ、試してみたいわ」
「なるほど、そうですね。では明日はシューを焼きましょう。コンフィチュールでしたらあと二瓶ありますから、それを添えて」
「本当!? ああでも、明日はそんな時間、ないかも……ムフタール、朝から予定がみっちり詰まっているのよ」
ああ……。
決意した側から放棄したい気持ちが頭をもたげ始める。いや、実際に放棄する勇気はないのだが。
ため息を吐いて、ムフタールはロレーヌの隣に腰を下ろした。”Les choses ne sont pas si noires qu'elles paraissent.《案ずるより産むが易し》”とは言うが、今はまさに産みの苦しみを味わっているのかもしれない。
いや――。
そうだな、こんなときこそアレの出番か。
「でしたら、真夜中にでもお持ちしましょう。一日頑張ったご褒美も欲しいですし」
「で、でも貴方、明日もきっと今日みたいに疲労困憊よ。私にご褒美を与えている場合じゃないわ」
「与える? 私は欲しいと申し上げたのですよ。明日の晩、私は貴女にシューをお持ちしながら、自分へのご褒美として――」
――貴方を頂きに参ります。
細い顎に手を添えて、奪った唇はこの上なく甘く、ほんのりと薔薇の香気をまとっていた。
【番外・了】
*次回から第二部です。
お付き合い頂けたら幸いです^^ 斉河




