第10話 メンタルセラピスト
魔界で保管倉庫を確保し、『シン華の家』へと戻ってきた一華、シン、レオナルド、アーリンの四人は、ノートパソコンに向き合った。シンは必要物品のリストを作成しながら、カップ麺や保冷剤、クーラーボックスなどの必須アイテムをネットで次々と注文していく。
作業の手を止め、一華が隣のシンに顔を向けた。
「試食会のアンケート、シンが作成してね。」
「一華は魔界文字の読み書きができないんだったな。」
「うん。読み書きができても、人間界のパソコンには魔界文字のフォントなんてインストールされてないから無理だよ。」
その会話を聞いていたアーリンが、不思議そうに首を傾げた。今日の一華の言動には驚かされてばかりだ。
「一華様は魔界語をお話しになれるのに、読み書きができないのはどうしてなのですか?」
「うん。満月パワーのおかげで話せるようにはなったんだけど、文字の読み書きまでは覚醒させてくれなかったんだよね。」
「それも、一華がこれまで必要としていなかったからだろ?」
シンがからかうように笑う。
「ま、そうだけど……。」
「今から、勉強するか?」
「うーん、しないとダメかな?」
「しないとダメだろ!? 誰かに読んでもらうにしても、読む奴がわざと間違って教えるかもしれないからな。」
「そうですよ。もう一度覚醒されたりしないのですか?」
「どうなんだろ? また満月パワーを注入してみたら覚醒するのかな?」
「だが、次の満月まで待つわけにはいかない。とりあえず、人間界の文字でアンケートを作成して印刷してくれ。」
「わかった。」
一華はパソコンに向かってサクサクとアンケートを作成し、印刷したものをシンに手渡した。
シンが魔力を解放すると、紙の上に並んだ人間界の文字がふわりと浮き上がり、次々と複雑な魔界文字へと書き換わっていく。一華の目には、まるで古代文字や記号の羅列にしか映らなかった。
「魔界文字って、やっぱり難しそう……。」
「この国の文字だって十八年かけて覚えてきただけだろ。最初はみんな絵や記号に見えたはずだ。魔界文字だって時間さえかければ同じように覚えられる。ただ、今すぐ必要とされていて、脳が勝手に焦っているだけだ。今日から俺が基礎から教えてやる。」
「英語だって中学から勉強しても話せないのに、覚えられるかな……?」
「一華は興味のないものは脳内に留めておくことをしないからな。だが魔界文字は興味以前の問題だ。自分にとって必須だと思えば、いずれ必ず身に付くさ。」
シンは頼もしく言い切ると、レオナルドとアーリンに魔界文字に書き換えたアンケートを見せた。
「ほかに確認しておきたいことはあるか?」
レオナルドとアーリンはそれぞれ書類に目を通し、首を横に振った。
「ありません。」
「よし。今日の仕事はこれで終わりだ。今から夕食の準備に取り掛かるが、二人も一緒に食べていかないか?」
「えっ? 私たちも……いいんですか?」
アーリンがふっと年相応の少女の表情に戻る。
「あぁ、人間界の料理も少しずつ覚えてくれると、今度から助かるからな。」
「はい、ぜひ教えてください!」
アーリンは即答した。どうやら人間界の料理に興味津々のようだ。
シンがレオナルドとアーリンに手際よく料理の手順を教えていく様子を、一華はダイニングテーブルに腰かけたままぼんやりと眺めていた。調味料の計り方やこの国独自の料理法を優しく説明するシンの声が響く。時にはシンがアーリンに寄り添い、優しく教えることもある。四人で分担して作業するには十分すぎるほど広いキッチンだったが、なぜか一華はその輪に入る気になれなかった。
数分後。
これまで聞いたこともないようなサンの鋭い鳴き声が、キッチンまで響き渡った。
「ニャーーーーーン!」
四人は驚いて鳴き声の方へ顔を向ける。そこでは、サンがソファの背もたれに前足を掛け、じっとこちらを見つめて鳴いていた。
「サンちゃん、どうしたの?」
一華が心配そうに声をかける。
「ニャンニャー……(一華、こっち来いにゃー!)」
サンは一層強い口調で一華を呼びつける。促されるままソファへと近づくと、サンはソファの座面を右前足でポンポンと叩いた。
「にゃんにゃ……(ここ座って、俺を抱くんだにゃー!)
一華が腰を下ろすと、両手で抱き上げ、サンを膝の上に乗せた。
「にゃんにゃん……(思いっきり撫でるにゃん)」
「こう?」
一華がサンの柔らかい体を愛おしそうに撫で回す。
「にゃん……(そうにゃん)」
満足したように目を細めると、サンは喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
ひたすら無言でサンを撫で続ける一華に、サンはそっと語りかける。
「にゃんにゃーん……(一華、トゲトゲ、まーるくにゃったにゃんか?)」
「トゲトゲ?」
一華の手がぴたりと止まる。サンは一華の胸のあたりを、前足で優しくポンポンと叩いた。
「にゃんにゃー……(そうにゃん、ここのトゲトゲにゃん)」
その瞬間、一華の目から涙が一気に溢れ出した。ポロポロとこぼれ落ちた涙に反応するかのように、窓の外ではザーッと激しい大粒の雨が降り始める。『シン華の家』の防音性能のおかげで室内に聞こえるのは微かな雨音だけだが、一華の揺らぐ心がダイレクトに天候を変えてしまったのだ。
「にゃんにゃ……(しょっぱいにゃん)」
一華とサンの様子を気に掛けていたシンは、すぐに料理の手を止め、ソファまで近寄ると、一華の隣に腰を下ろした。
「一華、どうしたんだ? いったい何があった?」
「にゃんにゃ……(シンのせいにゃんか?)」
まったく心当たりのないシンは酷く戸惑った。
「俺は何もしてない……よな?」
「違うの……。さっき二人で料理してるの見てたら、ママの言葉を思い出しちゃって……。」
「二人って? 俺とアーリンか?」
「うん……」
「ニャーン……(やっぱ、シンのせいにゃん。)」
サンは鋭い半目をシンに向けた。
「……もし本当に第2夫人とか第3夫人とかができたら、……私はそれを目の前でじっと我慢しなきゃいけないのかなって、勝手に想像しちゃって……。」
「えっ、私のせいですね……!? 申し訳ございません。」
キッチンからアーリンが慌てて駆けつけ、その場で深く頭を下げた。
「違うの。アーリンのせいじゃないから! アーリンが料理覚えてくれるのは本当に助かるんだから、頭を上げて。」
一華は胸の奥でずっと燻っていたモヤモヤを、目の前のシンに向かって一気に吐き出した。
「……この国は一夫一婦制だけど、私は魔界人で、しかも王太子妃になった以上、絶対に世継ぎを産まなくちゃいけないっていうプレッシャーがすごく重くのしかかってきて……。もし私が子供を産めなかったら、周りは第2夫人や第3夫人を迎え入れることを当然のように言い出すよねって思ったら、ここらへんがモヤモヤーってなって苦しくなっちゃって……。」
一華は自分の心臓のあたりを右手できゅっと押さえた。
シンはその潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ、力強く言い切った。
「俺たちに子供ができなくたって、俺が第2夫人や第3夫人を持つつもりは毛頭ない。生涯、ただお前だけだ。」
「でも、魔界の後継者が……」
「その時はその時だ。他にふさわしい奴が王位に就けばいい。だから、そんな余計なプレッシャーを一人で抱え込む必要は一切ない。義母上の言葉なんて、古い悪習として右から左へ聞き流せばいいんだ。」
シンは一華の冷えかけた手をしっかりと包み込み、さらに言葉を重ねた。
「もし一華がどうしても魔界での暮らしに耐えられないと判断した時は、すべてを投げ出して魔王の座なんて譲り渡し、人間界で二人きりで暮らせばいい。それまでに魔界で山ほど稼いで、お前を贅沢三昧させてやる。人間界にある形あるものはすべてコピーして、どんな遠い場所へだってテレポートで一飛びだ。お前の望みなら何だって叶えてやる。だから、何も心配するな。二人で楽しく暮らそう。」
「……うん」
「にゃにゃん……(俺も一緒だにゃん)」
「あぁ、サンは俺たちの子供第一号だったな。三人一緒だ。」
シンは心から穏やかな暮らしを思い描いたが、ふと悪戯っぽく、悪魔のシンが不敵に顔を覗かせた。
「いや、待てよ。その時はサン、お前が魔王の座に就けばいい。本当に『猫王』になれるぞ。」
「にゃんにゃ……(俺が猫王にゃんか!?)」
サンの目がきらめき、ただでさえ丸い目がさらに真ん丸になる。
「あぁ、やりたい放題だぞ。美味いものは食べ放題だし、お気に入りの猫をいくらでも侍らせれるぞ。」
「にゃにゃ……(ほんとかにゃ!?)」
「もう、サンちゃんをからかわないでよー。」
一華は涙を拭いながらクスッと笑い、シンの肩を軽く叩いた。
その瞬間、窓の外の激しい雨はピタリと止み、雲の切れ間から差し込んだ夕陽が、美しく彩る大きな虹を描き出していた。
シンのおかげですっかり笑顔を取り戻した一華を見て、サンは満足そうに喉を大きく鳴らす。
サンは単なる怪我のセラピーだけでなく、傷ついた心をも癒やす極上のメンタルセラピストとしての魔力を、しっかりと発揮していたのだった。
「もうすぐ夕食ができるぞ。一華、食べられそうか?」
「うん。お腹ペコペコ! アーリンが初めて手伝って作った料理、すっごく楽しみ!」
「い、いえっ、私は本当に言われるがままお手伝いしただけで、ほとんどシン様が作られましたので、味の保証は大丈夫です……!」
アーリンが真っ赤になりながら、胸の前で両手をブンブンと振る。
シンは優しく一華の手を引き、ダイニングテーブルへとエスコートした。四人は賑やかに食卓を囲み、手作りの料理を味わいながら、穏やかで幸せな夕食の時間を満喫した。




