老剣 木枯らし 5
「だから、猫の先生は、もう少しカンナ様を抱くべきなのです」
浴衣姿のみつばちは、御用猫から受けた盃を傾けながら、そう言うのだ。
風呂上がりの彼女は、濡れ羽根のような黒髪を垂らし、喉を鳴らすのだが、その白いうなじを隠している事を、御用猫が残念に思っているとは、未だ気付いていない。
「そうは言うけどなぁ、俺も忙しいし」
倉持カンナという少女の相手は、御用猫をして、体力の心配をせねばならぬ程に、過酷な戦いなのだ。
しかし、当のカンナは、その様な男の悩みに気付く事もない、御用猫に、ぴたり、と寄り添い、今か今かと、その時を待ちわびているのだ。
(まだ、尻尾は生えていないな)
痩せこけた少女の尻に目をやり、御用猫は、そんな事を考える。
ぱたぱた、と、見えぬ尾を振るカンナ犬は、疲れを知らぬ働き者だ。
「でなければ、いつ生えるか、知れたものではないのですよ」
「心を読むんじゃねーよ」
くい、と、戻された盃を空ける御用猫は、しかし、たまにはそれも良いか、と思い直すのだ。そもそも、今年は随分と慌ただしいものであったのだ、生来の怠け者である彼にとって、それは苦行以外の何物でも無いのだ、この年末年始くらいは、本当に、ゆっくりと身体を休め、淫蕩に耽るとも。
(ばち、は、当たらぬだろう)
そうと決まれば、彼の行動は早いものである、まだまだ日は高いのだが、先ずはこの強敵を黙らせようと決意した、そう言えば、マキヤとづるこを、いっぺんに呼ぶと決めていたではないか、ならば、今こそがその時であろうと決意したのだ。
「うん、そうだな……ようし、興が乗ってきたぞ、今日は手加減無しだ、野良猫の本気を見せてやる」
盃を膳に戻し、小枝のように華奢なカンナの肩を抱き寄せると、一瞬だけ驚いた表情を見せたものの、少女は頬を染めて身体を預けてくる。
「……カンナは、ずっと、お待ちしておりました……お情けを頂戴できること……嬉しゅうございます……ふひっ」
おずおず、と御用猫の胸に手を添えると、彼女は、それを愛おしそうに撫でまわすのだ。
「流石は猫の先生です、では、余勢を駆って、私の純潔も奪っていただけますね」
「何でそうな……いや、そうだな……約束は約束だしなぁ、あまり引っ張るのも、なんだなぁ」
御用猫が顎に手をやると、みつばちは目を輝かせ、四つ足で詰め寄ってきた。
「……っマジですか! 」
「おう、まじまじ、お前にも世話になってるしな、一応な」
ひゃっほう、と、奇妙な声をあげ、みつばちはカンナの手を引き立ち上がらせると、いそいそと膳を片付け、床の支度を整えるのだ。
志能便の業に、片付け、などというものは無いのだろうが、おそるべき速度でそれをこなしたみつばちは、浴衣の合わせを整えると、正座してカンナと並び、ぴちっ、と指を揃えて頭を下げた。
「こんな事もあろうかと、常に身は清めておりました……でも、何だか緊張してきましたので、とりあえずは、カンナ様から……」
「え……それは……最初から……そうですし」
首を傾げるカンナの隣で、何やら目を閉じて深呼吸を始めたみつばちは、激しく上下する胸に手を当て、額に汗を浮かべ始めた。
「なんだお前らは……まぁ良いか、ほら、おいで」
もう待てぬといった様子で、身体を上下させるカンナが、両腕を広げた御用猫を見て、満面の笑みで頬を緩めるのと同時に、すぱぁん、と襖が跳ね開けられる。
「ゴヨウさあぁん! 」
今にも飛びつこうと、身体を屈めていたカンナの目の前に、黒い馬尾が流れて行く。
サクラであった。
緊張していたみつばちと、興奮していたカンナには、彼女の盛大な走行音も耳に届かなかったのだろう。
ずしゃっ、と滑り込むように縋り付いた彼女は、涙と鼻水を擦り付けながら、御用猫を押し倒し、上に乗って、ばしばし、と叩き始めたのだ。
「聞いてください! 聞いてください! 何でマルティエに居ないのですか! どうせ此処だとは思いましたが、探したのです、辱められたのです、仇を取るのがお兄ちゃんのつとめでしょう! 私だって負けた事に文句はありません、ですが、ですが、あのように遊んでいたぶるなど、悔しいのです! でも、フィオーレも、リチャードも、しょうがないとしか言わないのです、大先生には、こんな事言えませんし、あとはもうゴヨウさんだけなのです! いいからいきましょう、せっかくのお祭りなのに、これでは眠れないのです! 」
「えぇい分かった、分かったから落ち着け! 」
暴れるサクラを抱き締めて押さえつけながら、御用猫は、支離滅裂な少女の言葉を、何とか繋ぎ合わせようと、脳内で試行錯誤するのだ。彼女の小さな身体の、あちこちを揉みしだきながらしばし悩むと、ようやく彼は、答らしきものに辿り着いた。
「……はぁ、つまり、祭りの出し物で賭け勝負をして、無様にやられたと……それも、普段お前が馬鹿にしていた「自称」天下無双の、しかも爺さんに、無様にやられたと」
「ぐすっ、なんで、二回言ったのですか」
サクラの身体を揉みしだきながら、呆れ顔の御用猫がそう告げると、少し落ち着いてきたものか、少女は鼻を啜りながらも、桜色の薄いくちびるを尖らせる。
「……まぁ、金を騙し取られたって訳でも、怪我をさせられた訳でも無いんだろう? 相手にしてみれば、小娘に舐めた態度で挑戦された訳だし、腹を立ててもおかしくない……どちらかと言えば、サクラが悪いな、むしろ、その程度で許してくれたんだ、その爺さんは大人の対応をしたと言えるだろうな」
「……それも、分かっています、これを教訓に、もっと修行もします、でも……悔しいのです……」
「……はぁ、まったく、仕方の無い奴め」
御用猫は、優しくサクラの頭を撫でながら、ため息を吐いた。
反対の手では尻を揉んでいたのだが。
「まぁ、何か面白そうな爺さんではあるな、サクラの仇はともかく、ちょいと覗いてみるか」
「やった、ありがとう、お兄ちゃん! 」
「……世のお兄ちゃんは、妹の身体を、いやらしく撫で回したりは……しませんことよ」
泣いていたサクラと、考え事をしていた御用猫には、彼女達の足音が聞こえていなかったのだ。
おそるおそる、襖の方に目を向けた二人が見たものは、極北の竜が吐くと言われる、極寒の息吹の如くに冷えた二対の眼。
「……若先生、少し、お話もあったのですが……どのような内容であったか、今の僕には、思い出せません」
「うわぁ、そんな目も出来たんだな、成長したなぁ」
いつも、瞳に暖かい光をたたえ、若先生、若先生と慕ってくるはずの少年の、その凍えたような眼光に、御用猫は背筋を震わせる。
(何か、怒らせるような事をした、だろうか? )
抱き付いて転がりまわるなど、いつもの事であろうと、ただの戯れ付きだろうと、御用猫は考えていた。
普段からまったく抵抗しないチャムパグンや黒雀のせいで、彼のそういった手揉み行為は、半ば無意識に行われていたのだ。
「ゴヨウさま、とりあえず、いらっしゃいませ……もう少し健全な場所で、ゆっくりとお話しましょう? どこがいいかしら……山か、海か」
「埋める気だよね」
襟首を掴まれ、連行される御用猫を、正座したままで見送りながら。
「……カンナ様、おさけ、持ってきますね……あと、まくら」
「……うん」
みつばちとカンナの寂しい宴会は、夜半まで続いたのであった。




