第8話
次の日。
雲ひとつない青空の下、柊輝とメロシェは民宿の近くにある観光農園に足を運んでいた。宿泊客たちを引率しつつ、2人も一緒に桃狩りを満喫している。
「うわあ……! すごい、木にたくさん実がなってる!」
重たそうに枝をたわませる桃を見つけて、メロシェは子供のように顔をほころばせた。その無邪気な笑顔を見ていると、柊輝の胸の底もじんわりと温かくなる。もともと桃は大好物だったが、今の彼はそれ以上に、隣ではしゃぐ彼女の姿にわずかにテンションが上がっている自分に気づいていた。
もぎたての桃の皮をその場でするりと剥き、口に運ぶと、メロシェは目を丸くして歓声をあげた。
「んんっ! 甘くて、ジューシーで、すごく美味しい……!」
「だろ? ここの桃は評判いいからな」
満面の笑みを浮かべるメロシェの姿に、柊輝は胸の奥がキュッと締め付けられるような愛おしさを覚えた。
(――いや、待て。俺が好きなのは、あくまで小春さんのような年上で、姉のような包容力のある女性のはずだ。こんな子どもっぽい悪魔に惹かれるわけがない)
そう心の中で必死に自分に言い聞かせ、柊輝は慌てて視線を逸らした。
そうして農園からたくさんの桃を持ち帰り、柊輝はカフェ“Rose Bleue”の厨房にいる青磁と雪花に差し出した。
「おお、すごいな! これだけの量があれば、いろいろ作れそうだ」
「そうね、これでジャムを作ろうかしら」
「じゃあ、明日の朝食は焼き立てのトーストにこの桃ジャムをメインに出そうか」
雪花は手際よく桃を受け取って思案を巡らせ、青磁も優しく微笑む。その光景を見て、メロシェが首をかしげた。
「皆さん、そんなに桃が好きなんですか?」
その問いに、青磁は少しだけ遠い目をして、穏やかに語り始めた。
「確かに俺も嫌いじゃないんだけどさ。それ以上に、亡くなった俺の妻――小春が、桃が大好きだったんだよ」
手元の包丁で桃の皮を剥いていた雪花も手を止め、懐かしむように微笑んだ。
「小春は昔から桃に目がなくてね。パティシエールとして都内の洋菓子店で働いていた私を、自分の店に誘ってくれたのも小春だったの。『雪花の作る桃タルトが一番美味しいから』って言ってさ」
「オーナーさんと雪花さんはお友達だったんですか?」
「ええ、私と小春が中学時代からの同級生。羽田先輩は私たちの2つ上の先輩だったわ。私と羽田先輩は釣り好きなところで気が合ってね。大人になって私が船舶の免許を取ってからは、よく2人で釣りに出かけたものよ」
「小春は水嫌いだったけど、俺たちが一緒に出かけるのが面白くなかったみたいでさ。雪花が運転するモーターボートに無理して乗り込んできて、3人であの湖に行ったこともあったな」
2人の甘酸っぱい思い出を聞きながら、メロシェは目を輝かせて「ほうほう」と楽しそうに頷いている。だが、雪花はふと切なげに息を吐いた。
「あの時もさ、柊輝君が遊覧船の後方デッキに一人で立っていたのを小春が見つけさえしなければ、落ちることもなかったかもしれないのに……。小春と2人で遊覧船に乗りに行く直前までここで一緒に準備しててさ、『柊輝君のために、桃のタルトを焼いてよ』って……それがアタシと小春の最後の会話だよ? しばらく桃のタルト焼くの怖かったわよ」
雪花が一つため息をつきながら時計を見た。ってお願いして
「あ、そろそろ夕食の仕込みの時間だわ。ごめんね柊輝君、今日は桃のジャムの仕込み、やってもらってもいい?」
「あ、はい。わかりました」
「じゃあ俺が柊輝の代わりに、食堂の片付けをしておくよ」
雪花はそれ以上何も言わず、キッチンの一番奥へと引っ込んでしまった。青磁もそれに続いて出ていく。“Rose Bleue”の厨房の空気は、わずかに重くなっていた。
「手伝おうか?」
「お願いしようかな」
柊輝は500円玉を1枚メロシェに手渡す。がま口にしまった後、彼女はしっかりと手を洗い、並んで桃の皮剥きを始めた。最初にやり方を教えてからは、無言で作業を進めていく。
やがて、メロシェは静かに切り出した。
「ねえ柊輝。……小春さんのこと、教えて。彼女が亡くなった時のこと」
柊輝は渋るように目を伏せたが、隠す必要もないと思い口を開いた。
「5年前の夏、家族でこの青春荘に遊びに来ていた時のことだ。当時18歳だった俺を、小春さんが湖の遊覧船に連れ出してくれたんだ。大学受験の息抜きにってね。だけど……俺がその遊覧船から湖に落ちたんだ」
「えっ!」
メロシェがびっくりして桃を落としそうになり、慌ててキャッチしてボールの中に入れた。
「泳ぎが得意じゃなかった俺はあっという間に溺れて、意識不明の重体になった。生死をさまよって、ようやく目を覚ました時には……俺を助けようとして湖に飛び込んだ小春さんが、帰らぬ人になっていたんだ」
「……」
「大好きな小春さんが俺のせいで死んだのがショックで、この民宿で働くようになるまで、俺は湖に近づこうとしなかった。……まぁ、俺自身がお兄ちゃんに嫉妬や反発心を持ってたってのもあるけどさ。でもメロシェも見た通り、お兄ちゃんは今もずっと小春さん一筋だろ。自覚もなかった片思いの俺とは大違いだ。勝てるわけなんてなかったんだ」
語り終えた柊輝の表情は笑っていたが、どこか痛々しく曇っていた。それを見たメロシェは、胸が締め付けられるような顔をしてうなだれた。
「メロシェ。お前、そんな暗い顔するなよ」
柊輝が声をかけると、メロシェはハッとして顔を上げた。
「お前は笑ってる顔の方が可愛いんだから、これからも笑っててほしいよ」
「……それって、お願い?」
不意に悪戯っぽい瞳を向けられ、柊輝はわずかに赤面しながらも「ああ、お願いだ」と頷いた。
「じゃあ、500円ちょうだい!」
「おい、人の真面目な話の後にそれかよ……!」
メロシェはパッと手を差し出し、満面の笑みを浮かべた。ニコニコと笑う彼女に対して、恥ずかしさを隠しながら「桃の皮を剥き終わったらな」とだけ答えた。
「でも、小春さんってみんなに好かれてたんだね」
「そうだな。きれいな人で、それでいて優しい人だった。……だからこそ、余計に悔しいんだよ」
「……悔しい?」
「あの時俺が船から湖に落ちた理由っていうのが誰かに背中を押されたからなんだよ。事故で誰かとぶつかった可能性もあるから何とも言えないけど……。船の乗客の誰かだろうけど、犯人もまだ見つかってない」
ようやく桃を剥き終えて、500円を渡しながら柊輝はため息をついた。その時だった。
「シュウ君ごめん、ちょっと手伝いに来て!」
雪花の声が遠くから聞こえてきた。柊輝は「はい、行きます!」と言ってエプロンを脱ぎ、“Rose Bleue”を出て行った。




