第5話
メロシェが働くようになってから、3日が過ぎた朝。
民宿「青春荘」の食堂兼キッチンの洗い場では、朝食を終えた宿泊客たちの食器の山を前に、早くも慌ただしい空気が漂っていた。
「よいしょ、っと……」
軽やかな声とともにそこに現れたのは、住み込みで働き始めたばかりのメロシェだった。両腕に山のように積み上げられた皿の束を抱え、まるで羽毛でも持つかのようにひょいとシンクの脇に下ろす。
「お前、よくそんなに持てたな。落としたら割れるぞ」
ゴム手袋をはめて黙々と皿を洗っていた柊輝が呆れたように言うと、メロシェはふふんと得意げに胸を張った。
「これくらい簡単だよ。ちょっとしたお引越しの魔法を使ってるからね」
「おい、勝手に魔法を使うな。万が一、他の客やお兄ちゃんに見つかったらどうするんだ」
「はーい、気をつけますよ、リーダー」
ふざけた態度であしらうメロシェを、柊輝は軽く睨みつける。すると、お皿を運んできた別のアルバイトスタッフが、くすくすと思い出し笑いをしながら声をかけてきた。
「――いやあ、ロコさんとリーダー、すっかり仲良しですねえ」
「「は?」」
柊輝とメロシェはぴったり同時に声を揃えて振り返った。柊輝が鋭い視線を向けると、スタッフは「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、慌てて背筋を伸ばして、食器洗いの手伝いを始めた。
もっとも、スタッフの言う通り、メロシェが青春荘に馴染むのは驚くほど早かった。急に加わったにもかかわらず、その愛嬌のある立ち振る舞いもあって、あっという間にみんなの人気者になっていたのだ。
「おーい、ロコちゃん!」
そこへ、大浴場の清掃道具を手にした青磁が食堂にひょっこり顔を出した。
「あ、オーナーさん、お疲れ様です!」
「悪いんだけど、今から大浴場の掃除を手伝ってくれないか。ちょっと人手が足りなくてさ」
「喜んで!」
青磁がポケットから取り出したピカピカの500円玉をひらりと差し出すと、メロシェはパァッと顔を輝かせ、元気いっぱいの返事をしてそれをひったくった。大切そうに首から下げたがま口財布に放り込むと、両手を大きく振ってみせる。
「任せてください! 頑張っちゃうぞー!」
そう言って、ルンルンとした足取りで大浴場の方へ駆けていくメロシェの背中を見送りながら、青磁は目を細めてふっと笑った。
「いやぁ、ロコちゃんが来てからさ、この民宿にもパッと明るい風が入ってきたみたいだな。前より一段と賑やかになった気がするよ」
青磁の言葉に、近くで伝票を整理していたカフェのアルバイトスタッフも大きく頷く。
「そうですよね! ロコさんにカフェを手伝ってもらう時も、常連のお客さんたちからすごく可愛がられてますし、一気に華やかになりましたもん」
(悪魔の正体を知ったらそんなこと言えなくなるぞ)
周囲の楽しげな空気をよそに、柊輝は心の中で盛大にため息をついた。
だが、メロシェが加わったことで、重苦しかった青春荘の空気が少しだけ軽くなっているのも事実だった。あの忌まわしい湖の記憶や、就職に失敗した絶望感から、ほんの少しだけ意識を逸らしてくれる存在になっていたのは確かだ。
「――こら、いつまでサボってるの。手が空いてるなら、そっちの片付けも手伝ったらどう?」
不意に背後から飛んできた、低く冷ややかな声に、柊輝はビクリと肩を揺らした。
振り返ると、そこには腕組みをした飴矢雪花が立っていた。いつもの頼れる姉貴分としての笑顔はなく、なぜか鋭く苛立った視線がまっすぐ柊輝に向けられている。
「……ちゃんとやってますけど」
不満を抑え込みながら柊輝が低い声で返すと、雪花はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
(なんでちゃんと仕事をしているのに、あんなに睨まれなきゃならないんだ……)
納得がいかない思いを抱えつつ、柊輝は再び目の前の食器洗いに力を込めるのだった。
***
宿泊客たちのチェックアウトが終わり、彼らを駅までハイエースバンで送り出す時間になっていた。柊輝は出発の準備を整えながら、周囲のスタッフたちにテキパキと指示を飛ばす。
「それじゃあ、出発する前に各部屋の片付けと清掃をしておいてくれ」
「はい!」
スタッフたちが散らばっていく中、メロシェだけがその場に残り、500円をもらうのを期待するようにじっと待っていた。それを見た柊輝は、ポケットから500円玉を取り出して渡しながら指示を出した。
「ロコ、お前はリネンの洗濯を頼む。それから、作業に魔法は使うなよ。他の奴らに見られたら面倒だからな」
「はーい、わかってますよ」
軽妙に返事をしながら、メロシェは嬉しそうに500円玉をがま口財布へしまい込む。
「ちゃんと自分の足で動いて、自分の手で干してこいよ」
「はーい、行ってきまーす!」
それから宿泊客を乗せて駅まで車を走らせ、30分ほどで青春荘に戻ってきた。ハイエースを駐車場に停めて民宿内に入ると、青磁が声をかけてきた。
「柊輝、そういえば団体さんからレクリエーションの件で頼まれてただろう。あれはどうなった?」
「ああ、それなら連絡があって『桃狩り』にするってさ。農園の予約も取れてるよ」
「そりゃよかった」
背後から雪花が現れる。朝の忙しい時間を過ぎたからか。少し機嫌が戻っていた。
「昨日、予定表のメモを偶然見ちゃったんだけどさ。レクリエーション候補の中に、モーターボートで湖をクルージングするってのもあったから驚いたわ。遊覧船の事故もあってただでさえ危ないのに、モーターボートなんてもっと危険じゃない」
「飴ちゃんに船を出してもらうのも悪いから、俺も去年、船舶免許を取ったのに。まだ腕を信用してくれないのかい?」
青磁は笑いながらそう言ったが、雪花はピシャリと言い返す。
「羽田先輩、湖の周りって急に深くなったり流れが淀んだりするから危ないんですよ。それに先輩は……あの事故以来、もうあの湖でボートに乗る気にはなれないでしょう?」
雪花のその言葉に、青磁はわずかに目を伏せ、苦笑しながらうなずいた。
「そうだな……。飴ちゃんの言う通りだ」
小春の死をきっかけに、青磁自身がめったにあの湖に近づかなくなり、大好きな釣りもオフシーズンに海や他の湖でするようになったという事実。それでも前を向いて歩きだすために、と湖に近づく理由を作るために湖でのクルージングもレクリエーション候補の項目に追加している。
それを知っているからこそ、雪花は呆れたように肩をすくめてそう言ったのだった。
「さすが雪花さん、詳しいですね」
「そりゃそうよ。私の方が長く船舶の免許持ってるし、あの湖もよくモーターボートで走り回ってたから、そういう危険なスポットは人一倍詳しいのよ」
そんな会話をしながら庭の方を見るとせっせと作業をしているメロシェの姿が目に入った。言いつけ通り魔法を使わず、大きな籠に入った大量のリネンを、1枚ずつ丁寧に物干し竿に引っかけて干している。
(ちゃんと真面目にやってるんだな……)
そう思って近づいた瞬間、柊輝は胸が騒ぐような強い違和感を覚えた。「すいません」と2人に断りを入れて柊輝は庭へと駆け出した。
「……おい、ロコ?」
呼びかけながら近づくと、メロシェの様子が明らかにおかしい。もともと白かった肌が茹で上がったエビのように真っ赤に染まり、荒い息遣いはゼェゼェと苦しげだ。立っている足元もフラフラと心もとなく揺れている。
「っ……まずい! メロシェ、しっかりしろ!」
熱中症だ。今日は雲ひとつない真夏の強烈な日差しが、容赦なく庭を照りつけている。悪魔とはいえ、今の彼女は“人間の20歳くらいの女性”の身体をしているのだ。魔法を使わずに真夏の炎天下で重労働を続けたら、人間と同じように倒れてしまうのは当然だった。
柊輝は慌ててメロシェの細い腕を引っ張り、庭の端にある大きな木陰へと連れていって芝生の上にそっと寝かせた。
青磁もあとから追いかけてきた。
「ロコちゃん! ど、どうしたの?」
「熱中症だ。濡れタオルと、冷えたスポーツドリンクを持ってきて!」
「わかった!」
青磁が慌てて建物へ駆け込んでいく。柊輝はぐったりと目を閉じるメロシェのそばにしゃがみ込み、額に貼りついた汗だくのピンクの髪をそっとよけた。
「……バカか、お前は。言われたからって、この暑さの中で無理すんなよ……」
しばらくして、冷たい水に浸したタオルとペットボトルを持った青磁が戻ってきた。柊輝はタオルを受け取ってメロシェの首筋や額を冷やし、スポーツドリンクのキャップを開けて少しずつ飲ませた。
冷たい水分が喉を通ったことで、メロシェはわずかに呼吸を落ち着かせ、ゆっくりと瞳を開けた。ターコイズブルーの瞳が、柊輝の姿を捉える。
「……しゅうき……?」
「無理すんな。……悪かったな。俺のせいで、こんな無理をさせることになって」
柊輝が自責の念を込めて謝罪すると、メロシェはか細い声で小さく首を横に振った。
「ううん……謝らないでよ。柊輝が言ったことは、間違っていないもん……」
荒い息をつきながら、メロシェは自嘲するように切なげに微笑んだ。
「私が悪魔だなんてバレたら、ここにいるみんな、きっと私を怖がるし、気味悪がって嫌いになっちゃう。……でも、人間の身体って、こんなに脆くて、すぐ熱を持っちゃうんだね……」
逆に柊輝を気遣うような言葉を紡ぐメロシェの瞳から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ち、夏の暑さの中に消えていった。
悪魔でありながら、どこか人間臭く、不器用なまでに必死な彼女の姿を目の当たりにして、柊輝は胸を締め付けられるような複雑な痛みを覚えるのだった。




