第3話
ミーティングが終わり、入浴も済ませた柊輝はフロントにいた。明日のスケジュールと予約状況の確認のためだ。と言っても、大して時間はかからない。これでもう今日の仕事は終わりだと思っていた、まさにその時だった。
「すみませーん!」
フロントに駆け込んできたのは、夕方に買い出しのため柊輝が車を出した、テニスサークルの男子学生だった。
「どうしたんですか?」
「今日来たOB3人分の布団が足りなくて……! 布団一式、追加で3個欲しいんです」
それを聞いて柊輝は、しまった、と心の中で額を押さえた。今日このサークルに途中参加のメンバーが三人来ることは知っていたのに、布団を運んでおくよう指示するのをすっかり忘れていたのだ。
「ごめんなさい! 布団の話は事前に聞いていたのに、用意を忘れていて申し訳ありません。すぐに持って行きます。どの部屋ですか?」
「『次縹』の部屋にお願いします。夜遅くにすみません!」
「いえ、すぐに行きますね」
学生は申し訳なさそうに頭を下げて去っていった。
柊輝は布団一式を取りに、民宿の外にある倉庫へ向かった。館内にも布団部屋はあるのだが、予備は一式分しか残っていない。明日もまた新しい布団が必要になるので、追加でいくつか運んでおいても損はないはずだ。
本当なら誰かスタッフを呼べばいいのだが、他のスタッフも青磁も、すでに仕事を終えて休んでいる。雪花もミーティングが終わって早々に帰宅してしまった。というわけで、1人で運んでしまうことにした。
外の倉庫の鍵を開け、中に足を踏み入れて明かりをつけようとする。
「……あれ、電気がつかない?」
スイッチを何度かカチカチと押したが、電球が切れているのか反応がない。客に頼まれている手前、懐中電灯を取りに戻ったり電球を付け替えたりしている時間も惜しい。幸い、今夜は月明かりが綺麗な夜だ。倉庫のドアを開け放しておけば、どうにか作業はできるだろう。
柊輝は月明かりだけを頼りに倉庫の奥へ進み、二人分の布団を両腕で抱え込んだ。 だが、入る時は月明かりだけでも十分だった足元が、大きな布団を抱え込んだ途端、完全に視界から消え去った。積まれた段ボールの角に気づくのが遅れ、柊輝はぐらりとバランスを崩す。
「っと……!」
体勢を持ち直そうとしたが、かさばる布団が視界を遮って何も見えない。次の瞬間、足がもつれて派手に倒れ込み、柊輝の身体は横の棚へとまっすぐ突っ込んだ。
ガシャアアアッ!
静寂を切り裂くような乾いた音が、夜の闇に響き渡る。棚に置かれていた予備の食器や備品が、頭上から雪崩のように落下し、柊輝を取り囲む床の上で派手に砕け散った。
「うっ……最悪だ……」
痛む肘をさすりながら起き上がろうとしたが、身体が鉛のように重い。昼間からずっと動き回り、精神的にも気を張っていたせいで、疲労が一気にピークに達していた。手足に全く力が入らない。まるでその場に行き倒れたかのように、柊輝は冷たい床の上でうずくまったまま動けなくなってしまった。
(こんなところで、何やってるんだ俺は……)
情けなさと疲労感が同時に押し寄せる中、ふと、頭上から鈴を転がすような、しかしどこか現実味のない可憐な声が降ってきた。
「これは大変! すぐに何とかしてあげるね」
誰だ? そう思い、柊輝が無理やり顔を上げかけた、その時だった。
パッと周囲の空気が一瞬だけ歪んだような気がした。次の瞬間、信じられない光景が目の前で繰り広げられる。
床に飛び散っていた無数の食器の破片が、まるで時間を巻き戻しているかのように自ら動き出し、空中で美しい軌跡を描きながら元あった棚へと吸い込まれていく。派手に倒れて歪んでいた金属製の棚も、ガタガタと音を立てながら勝手に起き上がり、元の位置にピタリと収まった。
さらに、倉庫の隅に落ちて汚れていた布団が、まるで新品のように真っ白く輝きを取り戻し、ふわりと持ち上がって棚の中へ綺麗に整頓されていく。
わずか数秒の出来事だった。さっきまでの惨状が嘘のように、倉庫内は完全に元通りに片付いていた。
「なっ、なんだこれ……?」
突如巻き起こった超常現象に頭がついていかず、冷や汗を流しながら柊輝がよろよろと起き上がると、目の前に見慣れない服を着た――というより、およそ夜の倉庫には不釣り合いな格好をした整った顔立ちのピンク色の髪の少女が立っていた。
黒の繊細なレースとフリルが胸元や裾にあしらわれた、キャミソールとショートパンツが一体になったような、可憐で華やかなベビードールを着ている。人形のように丸みを帯びた、柔らかそうな身体だった。細すぎずモチッとした健康的な肌が月明かりに映えている。まるで外国の上質な人形が着るような、どこか神秘的だが、幼い印象も与える衣装だった。
柊輝は思わず毒気を抜かれ、同時に「なんでそんな格好してんだ!」と猛烈に狼狽した。どこか神秘的で浮世離れした雰囲気を纏ったその少女は、悪びれる様子もなく、ふふんと胸を張って立っていた。
「これでどう? お願いは叶ったかな?」
「お前……いったい、何者だ……?」
「私はメロシェ。対価と引き換えに、どんな願いでも叶える悪魔だよ。今のあなたの『助けて』っていう強い願いを聞いたから、こうして助けてあげたでしょ? だから、対価ちょうだい!」
悪魔、と彼女はさらりと言い放った。頭を殴られたような衝撃を受けながら、柊輝は反射的に身構える。
「悪魔だって? お、俺の魂を奪う気か……!」
「ちょっと、失礼だなあ!」
メロシェは心外そうにぷくっと頬を膨らませた。
「魂なんかいらないって。私がやるのは商売! 願いを一つ、500円で叶えてあげるの。だから、500円ちょうだい」
「……は?」
500円で願いを叶える悪魔。あまりにも非現実的で、しかし目の前で起こった不可解な奇跡があまりに鮮烈すぎて、柊輝は思考を停止させかけた。
「ほら、早く早く。500円玉1枚でいいから」
急かされるように手を差し出され、混乱した頭のまま、柊輝は無意識にポケットから財布を取り出した。言われるがままに500円玉を1枚取り出し、彼女の掌に載せる。
メロシェはパァッと顔を輝かせると、首から下げていた小さながま口財布を開け、大事そうにその500円玉を放り込んだ。そして、嬉しそうにチャリンと鳴るコインの音に耳を澄ませている。
「な、なぁ……500円で願いを叶えるって、どういうことだよ。それに悪魔って……」
「あ、それは『お願い』? 後でちゃんと500円くれるなら、教えてあげるよ」
「……じゃあ、聞かない」
柊輝がそう言い捨てるやいなや、メロシェの表情が急に曇った。先ほどまでの自信満々な様子はどこへやら、彼女はその場にしゃがみ込み、ぐすっ、と鼻を鳴らし始めた。
「……ひどい」
「え、な、なに?」
「私、仕事全然できてなくて、もう何日もまともなご飯食べてないの。さっきの500円じゃ、全然足りないの……うぅ……!」
まるで捨てられた子犬のように、メロシェは大粒の涙を浮かべてベソをかき始めた。まさか悪魔が目の前で泣き出すとは思わず、柊輝は完全に気圧されてしまう。
「ちょっ、泣くなよ! わかった、出すから!」
仕方がない。柊輝はため息をつきながらもう一度財布を開き、もう一枚の500円玉を彼女に差し出した。メロシェはパッと顔を上げ、すばやくそれをひったくると、再びがま口財布へとしまい込んでケロリと笑った。




