第2話
「今日もお疲れさまでした」
カフェを閉め、宿泊客たちの夕食も終わった。アルバイトスタッフたちも夕食を済ませ、交代で入浴している頃だろう。今はそれぞれ自由時間を楽しんでいるはずだ。
青春荘の常勤スタッフである柊輝と雪花、そしてオーナーであり柊輝の兄でもある豊島青磁の3人は、閉店後のカフェに集合していた。遅めの夕飯を食べながら、終業のミーティングを開くためだ。
「カフェも民宿も、今日は大きなトラブルはなかったと思うんだけど、どうかな?」
青磁は穏やかな口調で尋ねた。兄は滅多に怒らない。怒るときも嘆くときも感情的にはならず、諭すように静かに伝える。実際、アルバイトが何かミスをしても怒鳴るようなことは一度もなかった。むしろ、未熟なアルバイトを叱り飛ばす柊輝や雪花を宥めて庇う側だ。
正直、甘すぎるのではと思うこともある。だが、おかげで貴重な働き手であるアルバイトが逃げ出すことなく定着しているのだから、これでバランスは取れているのかもしれない。
柊輝とは9歳違いの32歳。大人の余裕がある。柊輝や短期アルバイトたちからおじさん扱いされるのが嫌で、黒髪を重めのショートカットにし、スパイラルパーマなんてかけて若者ぶっている。が、『若作りしようとするのはおじさんの証拠だ』とかえって柊輝にからかわれて落ち込んでいた。ただ、細身で180cmの高身長なので、女性人気は高いようだ。
「今日は、来週宿泊予定の●●高校からオプションのレクリエーションについて問い合わせがあったよ。それでいくつか候補を見繕って送っておいた」
「了解。他には何かあるかな?」
青磁は深く頷き、さらに報告することはないか尋ねた。
「うーん、これと言って大きな問題はないな。……しいて言うなら、さっき宿泊客の大学生3人組に、夜の飲み会に誘われたことくらいか」
「なんだって?」
柊輝の報告を聞いた途端、青磁はピクリと眉を跳ね上げた。そして問い詰めるような口調で、ぐいっと柊輝に顔を近づけて迫る。整った顔立ちで至近距離まで迫られると、弟で男の柊輝ですらドキッとしてしまう。しかし、兄の口から飛び出した言葉は、あまりに突拍子もないものだった。
「それのどこが『大きな問題じゃない』んだ! 飲み会、行ってくればよかったじゃないか!」
「羽田先輩、何言ってるんですか……」
変なところに食いついてくる青磁に対し、雪花は呆れたように軽く睨んで言った。雪花は青磁の2歳下の高校の後輩で、付き合いは長い。青磁は婿養子で旧姓は「羽田」のため、雪花は今でも青磁のことを「羽田先輩」と呼ぶ。ちなみに青磁は雪花のことを「飴ちゃん」と呼んでいる。
「だって、新しい出会いがあるかもしれないじゃないか。柊輝にもう何年も彼女がいないのを、飴ちゃんも知ってるだろう?」
「それは知ってますけど。実際、シュウ君はイケメンなのに彼女全然いないし。うちのカフェだって、羽田先輩と柊君のイケメン兄弟店員目当てに来る女性客が絶えないってのに」
「いやいや、大げさな」
柊輝はぶんぶんと首を横に振って否定する。自分では全く自覚がないが、どうやら兄と自分はイケメンの部類に入るらしい。実際、自分が働き始めてから一度だけ「イケメン店員特集」の取材が来たことがあり、その雑誌を見てカフェに来た女性客は多い。繁忙期にこの店を開けようと雪花が決断したのも、その客足を見込んでのことだ。
「柊輝が最後に付き合ったのは高校生の時だぞ。しかもそれ1回だけ!」
「別にいいだろ! 自分が付き合いたいと思える女性になかなか出会えないってだけなんだから!」
いけないとわかっていたが、つい語気を強めて叫んでしまった。それが真実だった。事実なのだからムキになる必要なんてないのに。
ハッと我に返って周囲を見渡せば、雪花も青磁も驚きで表情をこわばらせていた。
「すみません、ついカッとなってしまって……」
「……いいよ、こっちも悪かったし。でもシュウ君が何年もそんな状況なのって、もしかして、昔好きだったその人が、忘れられないからなのかな?」
雪花からの核心を突くような質問に、柊輝は黙り込む。それを聞いた青磁は、眉を跳ね上げて言った。
「それはよくないぞ、柊輝。もうあの彼女さんと別れてから何年経ってると思ってるんだ。しかもお前はもう立派な大人だ。前を向いて、今年こそ新しい恋をしなさい」
「ああもう、お兄ちゃんうるさい! 雪花さんも、さっさとミーティングに戻りましょう」
柊輝は苛立ちながら、半ば強引にその話題を切り上げた。雪花も青磁もそれ以上は追及せず、また業務に関する話を始めた。
――柊輝に忘れられない思い人がいるというのは、本当だ。 青磁は高校時代に付き合った彼女のことだと思っているだろうが、それは違う。柊輝が次の恋に進まない理由。それは、彼が密かに、青磁の妻である豊島小春に恋をしていたからだった。
柊輝と青磁、そして小春は、昔は民宿があるこの市ではなく、隣の市に住んでいた。家が近所で母親同士が仲が良かったため、3人はいつも一緒に遊んでいた。
柊輝が物心ついた時には、小春と青磁はとても仲が良く、やがて自然と恋人同士になっていた。親が嘆くほど兄が大好きだった柊輝は、そんな兄の恋人である小春を、本当の姉のように慕っていた。小春も柊輝を、実の弟のようにかわいがってくれた。――その慕情が、いつしか恋心に変わっていたのだ。
子供の頃の初恋なんて、ただの憧れでしかない。実際、柊輝自身もその恋心に気づくことはなかった。だから兄と小春が恋人になり、結婚した時は、心から嬉しいと思って祝福したのだ。
風向きが変わったのは、柊輝に初めて彼女ができた時だった。高校時代に付き合っていたのは、通っていた高校の1学年上で、サッカー部のマネージャーをしていた先輩だった。 柊輝は彼女を愛し、大切にしていたつもりだった。けれど、フラれる時にこう言われたのだ。
『柊輝君が、本気で私のことを愛してくれていたとは思えなかった』
その言葉をぶつけられた時、柊輝の胸はどきりと波打った。
柊輝は、その元彼女に小春を重ねて恋をしていたのだ。それはあまりに失礼だからと、元彼女を精いっぱい大切にしていたし、相手も喜んでくれていると思っていた。
けれど、元彼女は高校卒業後に都内の大学に進学し、そこで自分をより深く愛してくれる存在に出会った。そして、柊輝の自分への態度の違和感に気づいてしまったのだ。そんなことを言われてしまったら、もう別れを受け入れるしかなかった。
そしてその時、自分が小春に恋をしていたことを、ようやく自覚した。
だが、その時にはもう、小春と青磁は結婚し、自分とは本当の家族になっていた。こうなってはもう、到底思いが叶うことはない。そもそも、小春と青磁は長いこと交際していたので、今更自分がどうこう出来るわけでもなかった。
それでも、彼女が目の前に存在してくれていれば、義姉として慕い続けるという形で、思いを秘めておけただろう。けれど、小春は5年前、24歳という若さで、事故で亡くなった。
夏休みに家族で青春荘に遊びに来ていた柊輝を、小春はこの湖の遊覧船に連れて行ってくれた。その時、船から転落した柊輝を助けようとして湖に飛び込んだ小春は、そのまま溺れて亡くなったのだ。
小春が死んだ時、誰も柊輝を責めなかった。それでも、最愛の妻を失って落ち込む青磁や、自分をかばって死んだ小春のことを思えば、素直に生き残ったことを受け入れることは出来なかった。
青磁の誘いに乗ってここへ来たのには、それもある。湖畔で民宿を営んでいた小春の祖父が亡くなり、小春が受け継いだ民宿をリニューアルしたのが、この“青春荘”なのだ。祖父の民宿を継ぎたいという小春の願いに応える形で、青磁は民宿を経営しているし、小春の小学校からの幼馴染である雪花も手伝っている。 そんな場所の運営に関われるのは、自分としても嬉しいことだと思ったのだ。
ただ、青春荘は湖の湖畔から少し離れた高台にあって、外を見下ろせば、必ずあの湖が視界に入る。その度に、やはり何度も胸が痛む。
けれど今は繁忙期で、忙しくてやるべきことがたくさんある。そのおかげで、感傷に浸らずに済んでいたのだ。
それなのに、兄と雪花のせいで余計なことを思い出してしまい、また胸が痛くなってしまった。




