第5話:名古屋の密室、あるいは嘘を紡ぐ職人
雨上がりの澄んだ空気が、東海道線の窓を濡らす。
美濃の山間部を抜けた汽車は、定刻通りに尾張の玄関口である名古屋ステーションへと滑り込んだ。
ホームに降り立つと、西洋風の衣服と伝統的な和装が入り混じる独特の活気が、二人の鼻腔をくすぐる。
「ふう、少し足を伸ばすとしようか、蓮。名古屋といえば、名物の陶磁器や古い伝統工芸が盛んな街だ。車内にこもりきりだった頭をほぐしに行こう」
蒼生は軽い足取りでプラットホームを歩き出し、蓮はその背中を静かに追った。
先ほどの雨の事件の余韻がまだ心のどこかにくすぶっていたが、名古屋の街の熱気が、その湿った澱みを少しずつ拭い去っていくようだった。
二人が向かったのは、駅から少し離れた閑静な一角にある、老舗の陶磁器工房だった。
しかし、工房の門の前に差し掛かった瞬間、蓮のこめかみに、また別の――ひときわ冷ややかなノイズが突き刺さった。
(――誰だ、そこにいるのは。……いや、見つかってはならない。あの壺のなかの『秘密』がバレたら、この工房の看板だけでなく、私の人生すべてがおしまいだ……)
蓮はハッと息を呑み、思わず足を止めた。
「神山さん……この工房の中から、ものすごい怯えと、必死に何かを隠そうとする声が聞こえます」
蒼生は足を止め、工房の開いた引き戸の奥を鋭い目で覗き込んだ。
「ほう? 京都からの旅はまだ名古屋に到着したばかりだというのに、どうやらこの街でも、迷宮の扉が私たちを歓迎してくれているらしい」
工房の中へ足を踏み入れると、そこには息が詰まるような緊張感が漂っていた。
棚に並ぶ美しい瀬戸物の花瓶や茶碗の隙間に、一人の初老の職人が青ざめた顔で立ち尽くしている。その足元には、無残に割れ散った高価な大壺の破片が散らばり、周囲には職人仲間たちがざわめきながら集まっていた。
「親方、一体どうしたんですか! なんでこんな大事な記念の壺を割ったり……!」
職人のひとりが声を荒げる。
しかし、その職人の心の中を、蓮の能力が容赦なく暴き出す。
(――ふん、親方が自分の手で不注意に割ったことにしておけばいい。そうすれば、私があの壺の底から『例の契約書』をこっそり盗み出したことなど、永遠にバレやしない……)
蓮は目を見張り、蒼生の袖をきゅっと引いた。
「神山さん……違います。親方が割ったわけではありません。あの職人の男が、壺の底に隠された何かを盗むために、わざと壺を割って偽装したんです」
蒼生はふっと口元を緩め、真鍮の時計をパチンと鳴らした。
「なるほど。伝統を守る職人の『誇り』の裏で、新時代の金に目が眩んだネズミが這い回っているというわけだね」
東京へ向かう東海道線の旅は、名古屋の地でさらに深い陰謀の渦へと、二人を飲み込もうとしていた。
(※本作に登場する組織、事件、機密文書、およびスパイ工作に関する描写はすべてフィクションであり、実際の歴史上の出来事や実在の人物・団体とは一切関係ありません)




