第3話:雨の日の追憶
先ほどの列車内での騒動からまだそれほど時間は経っていない。
汽車は琵琶湖畔を抜け、近江から美濃の山間部へと差し掛かっていた。
それまで車窓を明るく照らしていた陽光が嘘のように消え去り、いつの間にか空は鉛色の雲に覆われ、激しい雨粒が客車の窓を容赦なく叩きつけ始めた。
ゴトゴトと単調に響く車輪の音と、耳を打つ雨音。湿気を帯びた車内は、どこか重苦しい空気に包まれていた。
「おや、天気の急変だ。これでは美しい景色もお預けだな」
向かいの席から、蒼生が濡れたインバネスコートの裾を軽く払いながら、飄々とした声を出した。しかしその瞳の奥には、先ほどの事件で見せたような鋭い光がまだ残っている。
隣に座る蓮は、こめかみに手を当て、小さく息を潜めていた。
雨の日――気圧の変化と湿気は、蓮の頭痛を悪化させるだけでなく、人々の心の中で澱む「不安」のノイズを何倍にも増幅させて脳裏に叩きつけてくる。
(――雨だ。この雨音にまぎれて、あの荷物を処分してしまわなければ……)
(――なぜだ、どうしてこんな日に限って、あの記憶が蘇ってくる……?)
雑踏のざわめきとは違う、じっとりと湿った恐怖や焦りが、波のように蓮の頭を襲う。
蓮が顔を青ざめさせ、唇を噛み締めていると、通路を挟んだ斜め向かいの席に座っていた若い男が、突然ガタッと激しく席を立った。
男の心の中から、耐えがたい恐怖の叫びが蓮の脳裏に流れ込んでくる。
(――来る……! 雨が降ると、あのときの秘密が暴かれる。私を裁きに、あいつがやって来るんだ……!)
若い男の顔面は蒼白で、冷や汗が滝のように流れていた。彼は頭を抱え、錯乱したように通路へと飛び出していく。
「おや?」
蒼生はすかさず立ち上がり、その若い男の後を追った。
「蓮、行くぞ。あの男の様子、ただの旅の疲れではなさそうだな」
蓮は頭痛に耐えながらうなずき、蒼生の後を追って雨に烟る連絡通路へと足を踏み出した。
客車と客車の間を繋ぐ連結面は、吹き付ける雨と強烈な風で、まるで別世界のようになっていた。
激しい雨音が視界と聴覚を奪う中、先ほどの若い男が、ガタガタと震えながら手すりにつかまっている。
そして、その男の目の前には、黒い和服を纏ったひとりの老人が静かに立っていた。
老人は手元の荷物に目を落とし、冷ややかな、しかしどこか哀しみを帯けた目を若い男に向けている。
「ま、待てくれ……! 私は殺してない、あの事故は偶然だったんだ……!」
若い男が泣き叫ぶ。
その心の中を、蓮の能力が痛いほどに暴き出す。
(――あの夜、鉄道敷設の現場で、私は金庫の鍵を盗み、それを隠すためにあの男を……! 雨が降るたびに、あの夜の罪が蘇ってくる……!)
老人はゆっくりと言葉を紡いだ。
「……罪の重さは、雨音が消してくれるわけではない。お前の胸の奥にある良心の呵責が、お前自身を裁いているのだよ、若造」
老人が静かに視線を向けたその時、
「そこまでだ、お爺さん」
軽やかな足取りで、しかし決定的な存在感を放ちながら、神山蒼生がその間に割り込んだ。
蒼生は濡れた帽子を軽く持ち上げ、不敵に笑う。
「心理的に追い詰めるのは結構だがね。その濡れた足元、そしてこの雨のなかで妙に落ち着き払っているトリックを、僕たちにも少し教えてくれないか?」
雨粒が激しく打ち付ける東海道線の車上で、過去の事故の秘密と、見えない「罪の影」に隠された新たな謎の真相が、音を立ててほどけ始めようとしていた。
(※本作に登場する組織、事件、機密文書、およびスパイ工作に関する描写はすべてフィクションであり、実際の歴史上の出来事や実在の人物・団体とは一切関係ありません)




