第2話:鉄路の密室と、二つの嘘
車内の空気が、ピリリと張り詰めた。
轟音を立てて進む二等客車の中、初老の紳士の膝元にあった革のトランクの留め金が、ガチャンと音を立てて外れた。隙間から零れ落ちそうになったのは、束ねられた分厚い紙の束――明治政府の新しいインフラ計画に関する一族の権利書らしきものだった。
「なっ……! あなた、勝手に私のトランクに触ったな!」
青白い顔をした初老の紳士――名刺入れの端から「橘」と読み取れる男が、震える手でトランクを抑え込んだ。
そのすぐ脇で、付き添いの書生風の男――心に冷酷な澱みを隠した男が、薄気味悪い笑みを崩さない。
「何を仰るのです、旦那様。私はただ、東京へ向かう重要な契約書類の留め金が緩んでいるのをお直ししようとしたまで。そんなに怯えられると、まるで私が何かやましい事でもしているようじゃありませんか」
書生風の男の声音はどこまでも穏やかだが、その内側で渦巻く思考は冷徹そのものだった。
(――騒ぐな、老いぼれが。中身がどうなってようと、東京に着く頃にはお前の財産もその書類も、すべて我々のものだ……)
蓮はそのあまりの悪意の響きに、思わず蒼生のインバネスコートの裾をぎゅっと掴んだ。
「神山さん……あの男の心は嘘で塗り固められています。あの書類をすり替えるか、あるいは奪い取るつもりです」
蓮の囁きに、蒼生は楽しげに片眉を吊り上げた。
「ほう? 秘書の直感がそう告げているか。それじゃあ、少しばかりこのおじいさんの荷物を拝見させてもらうとしようか」
「き、君は一体……?」
橘と呼ばれた紳士がぎょっとして振り返ったときには、すでに蒼生は軽やかな身のこなしで通路を跨ぎ、二人の席の前に立っていた。
「通りすがりの探偵、神山蒼生と申す。いやなに、少々気になったものでね。お二人は京都から東京へ、この東海道線を共に旅しておられるのだろう? だが、どうも空気の噛み合わせが悪い。一方は『破滅への恐怖』、もう一方は『冷徹な奪取の企み』……これではせっかくの列車の旅も台無しだ」
蒼生の歯に衣着せぬ物言いに、書生風の男の目がわずかに細まった。
「……お戯れを。私どもは主従にございます。他人のあなたが首を突っ込むような話では――」
「待てよ」
蒼生はポケットから真鍮の時計を取り出し、パチンと蓋を開けてみせた。
「あなたが『主人のために留め金を直した』と言うなら、なぜそのトランクの鍵穴のまわりに、ほんのわずかな『薬品の染み』がついているのかな?」
「っ……!」書生風の男の顔からわずかに血の気が引いた。
「この革のトランクは特殊な錠前でロックされているはずだ。鍵を持っていなければ開かない。だが、あなたの手元を見てごらんよ。指先にかすかに『硝酸』の匂いがする。――あなたは鍵を開けられないから、薬品で錠前の金属を溶かして、こっそり中の書類を偽物とすり替えようとした。違うかな?」
蒼生の鋭い指摘に、車内がどよめいた。
橘は目を見張り、自分のトランクを慌ててひっくり返した。中から出てきたのは、インクの乾ききっていない「偽造された権利書」の束だった。
「なっ……! 私の書類が、いつの間に偽物に……!」
書生風の男はもはや取り繕うのをやめ、冷たい笑みを浮かべたまま立ち上がろうとした。しかし、ちょうどその時、車掌が騒ぎを聞きつけて通路へと駆けつけてきた。
「どうなされました!? ここで騒ぎを起こすのは――」
「おや、ちょうどいいところに来てくれた。この男がね、乗客の財産をすり替えようとしていたところなのさ。連行してもらえるかい?」
蒼生が爽やかに笑いながらそう告げると、車掌や周囲の乗客たちはあっけにとられながらも男を取り押さえた。
やがて、騒動が落ち着き、客車の中に再び車輪の音が響き渡るようになった。
席に戻ってきた蒼生は、ぐったりと疲労の色を浮かべる蓮に、懐から取り出したキャラメルを差し出した。
「お疲れ、蓮。君の心読みのサポートがなければ、あの男の巧妙なすり替えトリックの証拠を見つけるのに倍の時間がかかっていたよ」
蓮は差し出されたキャラメルを受け取り、小さく首を横に振った。
「……いえ。私はただ、あの人の心の醜い声を聴いていただけです。……でも、神山さん。あの男の心には、さらに奇妙な引っかかりがありました」
「ほう?」
「あの男は、単なるコソ泥ではありません。頭の奥で……『東京のあの人からの指令通り、まずは第一段階をクリアした』と、そう呟いていたのです」
蒼生の表情から、ふと飄々とした色が消え、鋭い光が宿った。
「……第一段階、ね。京都を発ったばかりの列車で、わざわざこんな手の込んだすり替えをさせたということは……この東海道線のあちこちに、同じような『仕掛け』が用意されているということか」
窓の外では、京都の街並みがすっかり遠ざかり、緑豊かな近江の山々や琵琶湖の水面が広がり始めていた。
東海道線――京都発、東京行の迷宮列車。
二人の旅は、まだ始まったばかりだった。
(※本作に登場する組織、事件、機密文書、およびスパイ工作に関する描写はすべてフィクションであり、実際の歴史上の出来事や実在の人物・団体とは一切関係ありません)




