第1話:京洛の汽笛と、最初の嘘
明治の朝靄が、古都の街並みをまだ薄っすらと、しかし冷ややかに包み込んでいる。
京都ステーション。
新時代の象徴である鉄の怪物が、吐き出す黒煙とけたたましい汽笛の音で、古い都の静寂を容赦なく切り裂いていた。西洋の近代化という波が、この歴史ある街の皮膚を無理やり押し広げているかのような喧噪だ。
「おや、蓮。そんなに渋い顔をしていては、せっかくの旅の美味が台無しだぞ。新しい時代の空気を胸一杯に吸い込んでみたまえ」
黒いインバネスコートの裾を翻し、軽やかな足取りで振り返ったのは神山蒼生だ。文明開化の気風をまとったこの男は、暇さえあれば日本全国を歩き回る風変わりな探偵である。
その背中を少し離れて追うように歩くのは、黒髪をきちっと結い上げ、書生風の洋装に身を包んだ女性――久楽蓮だった。
蓮はこめかみに軽く指を当て、小さく息を呑む。
耳を塞いでもなお、周囲の雑踏から脳裏へ直接突き刺さってくる「声」があった。
(――あぁ、本当にあの書類をあいつに渡して大丈夫だろうか……)
(――おい、あの二人連れ、何者だ? 妙にこっちを見ているぞ……)
(――早く東京に着いてくれ。追いつかれる前に、隠し通さなければ……)
言葉にされていない人間の本音、怯え、打算、そして欺瞞。
蓮の脳裏には、行き交う人々の頭の中で渦巻く「心の声」が、ノイズとなって絶えず流れ込んでくる。他人の心を読むという、誰にも望んだ覚えのない秘密の能力。その力ゆえに、蓮は人の心の醜さや裏切りばかりを目の当たりにし、心を閉ざして生きるしかなかった。
この能力は、ときどき蓮自身の神経を激しく摩耗させる。頭痛がこめかみを締め付ける中、蓮はわずかに身を震わせた。
だが――。
「ほら、見てみろ蓮。この新しい鉄の馬は、たった一日で京から遠く離れた場所へ我々を運んでくれるそうだ。世の中の景色が変わっていく音だと思わないか?」
ふと立ち止まった蒼生が、振り返って楽しげに笑いかける。
その蒼生の瞳には、損得勘定でも、他人の裏をかく狡猾さでもなく、ただ純粋な「未知の世界への好奇心」しか映っていなかった。
蓮は、その濁りのない蒼生の心に触れるたび、荒れた胸の奥がじんわりと温かくなるのを覚える。
この男の隣にいるときだけは、地獄のような心のざわめきが不思議と和らぎ、静かな安らぎに変わるのだ。蓮にとって、蒼生は世界で唯一の、裏表のない光だった。
「……はい。そうですね、神山さん」
蓮がわずかに微笑んでうなずくと、蒼生は満足そうに鼻を鳴らし、発車間際の客車へとひょいと軽やかに飛び乗った。
二人が腰を下ろしたのは、木造の温もりが残る二等客車の一角だった。
車窓の外で、古い着物姿の人々と、西洋のスーツを着た人々が入り混じる京都のプラットホームが、汽笛の合図とともにゆっくりと後退していく。
「さて、東京までの長旅だ。変わりゆく日本の景色と、そこで暮らす人々の営み……。道中で、どんな苦くて美味しい事件に出くわすか、今から楽しみでならないね」
蒼生が懐から取り出した真鍮の時計をパチンと鳴らした、その時だった。
車内の通路を挟んだ斜め向かいの席から、ひときわ大きく、異様なほど切迫した「声」が、蓮の脳裏を激しく叩いた。
(――しまった。あの鞄のなか、誰にも見られていないだろうな……? もし中身がすり替わっていることに気づかれたら、私はもうおしまいだ……!)
蓮はハッと息を呑み、わずかに見開いた目をそちらに向けた。
そこには、上等な革のトランクを膝に抱え、青白い顔で冷や汗を拭う初老の紳士が座っていた。その背後には、付き添いであるはずの書生風の男が、どこか冷ややかな、値踏みするような視線を紳士に向けている。
(あの紳士の心は、破滅への恐怖と『何か隠し通せない嘘』に満ちている……。けれど、隣にいる男の心は、まるで底の見えない冷たい沼のようだ。――あれは、ただの付き添いじゃない)
蓮は動悸を抑え、蒼生の袖をそっと引っ張った。
「神山さん……あの方たち、少しおかしな様子です。あの紳士の心は怯えていますが、隣の男の心は、何かを企む冷酷な澱みに満ちています」
蓮の真剣な声音に、蒼生はふっと口元を緩め、どこか鋭い光をその瞳に宿した。
「ほう? 私の優秀な秘書が、そこまで明確に『他人の嘘』を察知するからには……どうやら、この東海道線の旅は、単なる気晴らしには終わりそうにないな」
轟音を立てて、鉄の怪物は東へ向けて速度を上げていく。
京都発、東京行。
新時代の光と影が交差する線路上で、ふたりを待ち受ける巨大な迷宮の扉が、今、静かに開き始めた。
(※本作に登場する組織、事件、機密文書、およびスパイ工作に関する描写はすべてフィクションであり、実際の歴史上の出来事や実在の人物・団体とは一切関係ありません)




