第16話:駅の喧騒、消えたトランク
平塚の温泉旅館でようやくつかんだ穏やかな時間も束の間、再び東海道線の轟音に引き戻された神山蒼生と久楽蓮は、東京という巨大な魔都へ向かう中継点、国府津ステーションに降り立った。
ホームは、首都を目指す焦燥感に駆られた人々で足の踏み場もないほど溢れ返っている。吐き出される白煙と石炭の匂いが、胸を締め付けるように冷たい空気を焦がしていた。
「……っく、東京が近づくにつれ、空気の澱みが肌を刺すようだな」
蒼生はインバネスコートの襟を強く掴み、その胸元――あの箱根の地で命がけで守り抜いた、組織のすべてが詰まった革のトランクを無意識に抱え込んだ。その指先がわずかに震えているのは、長旅の疲労か、それとも迫りくる危機への直感か。
その時だった。けたたましい怒声が静寂を切り裂く。
「おい、そこをどけッ!」
避ける間すら与えなかった。黒い帽子を目深にかぶった男が、狂気じみた勢いで突進してくる。蒼生の体に激突したその衝撃は、ただの事故などではない――殺気を含んだ暴力だった。
「きゃっ……!」
蓮の悲鳴と同時だった。蒼生の手から、命の次に大切な革のトランクがポーンと空中に放り出された。
「渡すかよ!」待ち構えていたもう一人の共犯者が、卑劣な笑みを浮かべてそれを空中でひったくる。そのまま群衆をかき分けて逃げ出していくではないか。
「待て……! 返せッ!」
蒼生は血相を変えて追いかけようとしたが、見知らぬ乗客たちが壁のように立ち塞がり、無慈悲にも犯人たちの背中を視界から消し去った。
東京まであと一歩のところで、最大の証拠が、誇りが、目の前で奪い去られたのだ。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。手からすり抜けていった重みが、あまりにも悔しかった。
(※本作に登場する組織、事件、機密文書、およびスパイ工作に関する描写はすべてフィクションであり、実際の歴史上の出来事や実在の人物・団体とは一切関係ありません)




