第28話 水車は、森を忘れて回っていた
第28話です。
第27話では、尾根の残存林に広がっていた《黒色菌糸》の正体が明らかになりました。
黒い菌糸は、単純に森を殺す病気ではありませんでした。
木が伐られ、根が死に、落ち葉が減り、生きた根のつながりが失われた結果、菌糸網が死んだ根や有機物を抱えきれなくなっていたのです。
澪たちは、倒木、落ち葉、苔、生きた土、霧背鹿が降ろした水を使い、《菌糸橋》を作りました。
これによって、黒い菌糸の過負荷は少し下がり、残存林は一時的に安定します。
しかし、森の中心には、さらに大きな問題が残っていました。
かつて尾根に立っていたという《雲見の母樹》。
その木は昔に伐られ、村の大水車の中心軸として使われていました。
そして、その根はまだ四パーセントだけ生きていました。
霧背鹿は、その母樹根系と同期しています。
母樹が完全に枯れれば、霧を保持する力も失われます。
今回は、村の象徴である大水車と、伐られた母樹の残響へ向かいます。
ルオム山麓村の大水車は、村の中心にあった。
乾いた川の横。
石組みの水路の先。
大きな木枠に囲まれた巨大な車輪が、斜めに傾いたまま止まっている。
羽根板の半分は割れ、軸受けには古い油と泥が固まり、車輪の下には枯れ葉と砂が溜まっていた。
それでも、その存在感は圧倒的だった。
家より高い。
村のどこからでも見える。
まるで、動かなくなってもなお、村を見下ろしている古い守り神のようだった。
「これが、大水車……」
神代澪は、見上げながら呟いた。
隣でライカが首を反らせる。
「でかっ。これ、本当に木でできてるの?」
「中心軸だけ、特別な木だ」
カイムが低い声で言った。
彼は泥を落としきれないまま、弓を背負って立っている。
顔には、まだ怒りも戸惑いも残っていた。
けれど、昨日までのような一直線の敵意ではない。
自分の知らなかった山の記憶を、目の前で見せられた者の顔だった。
「雲見の母樹」
澪は、その名を口にする。
カイムの肩がわずかに揺れた。
村長エルワンが、ゆっくりと頷く。
「伝承では、尾根で最も古い木だった。雲がかかると、その枝から水滴が落ち、村の源流を太らせたという」
「それを伐った」
フィリアが静かに言った。
責めるような声ではない。
けれど、事実は重い。
エルワンは目を伏せた。
「百年以上前のことだ。村が大きくなり、水車を必要とした。粉を挽き、木を切り、灌漑水を分けるために」
ミルカが水車の軸を見上げる。
「普通の木じゃ、この大きさの軸には耐えない。硬くて、粘りがあって、長く腐らない木が必要だったんだね」
「母樹が選ばれた」
エルワンは言った。
「当時は、森の力を村へ分けてもらう儀式だったと伝わっている」
「分けてもらう、か」
澪は水車を見る。
森から村へ。
山から生活へ。
木から道具へ。
自然を利用すること自体が、間違いとは限らない。
けれど、分けてもらうはずだったものが、いつの間にか奪うだけになっていたなら。
その代償は、いま目の前にある。
調律核が淡く光る。
《雲見の母樹心材:検出》
《設置位置:ルオム大水車中心軸》
《根系残存反応:4%》
《霧背鹿同期率:低下中》
《母樹根系枯死予測:二十五時間四十二分》
「残り二十五時間」
澪が呟く。
「短くなってる」
ライカの耳が下がる。
「どうする? 水車を壊して、森に戻す?」
その言葉に、周囲の村人たちがざわついた。
水車を壊す。
それは単なる修理方針ではない。
村の象徴を壊すという意味だった。
老人の一人が声を上げる。
「大水車は、村の誇りだ!」
別の男も続く。
「これで粉を挽き、木を切り、畑へ水を送ってきた!」
「森がなくなったからといって、水車まで奪うのか!」
ざわめきが怒りへ変わりかける。
澪はすぐに首を横に振った。
「壊すとは言っていません」
「だが、今その獣人の娘が」
「ライカは思いついたことを口に出しただけです」
「ミオ、ひどくない?」
「事実だよ」
「うん、まあそうだけど」
少しだけ場の空気が緩む。
しかし、緊張は消えない。
カイムは水車を見上げたまま、拳を握っていた。
「壊すなら、俺は反対する」
「なぜ?」
澪が尋ねる。
「父が守ろうとしていた」
「水車を?」
「山も、水車もだ」
カイムの声は掠れていた。
「父は言っていた。水車は森を殺した罪ではない。水車が森を忘れて回ったことが罪だ、と」
澪はその言葉を胸の中で反芻した。
水車が森を忘れて回った。
「お父さんの記録はありますか」
カイムは少し迷い、やがて頷いた。
「家にある。山番の古い帳面だ」
「見せてください」
「今すぐ?」
「今すぐ」
カイムは苦い顔をした。
「主調律者は、遠慮というものを知らないのか」
「時間制限があるので」
「それは、そうか」
カイムは踵を返した。
「来い」
***
カイムの家は、村の上手にあった。
壁には弓と古い山道具。
棚には木片、種の袋、古い地図。
そして机の奥には、革紐で束ねられた帳面がいくつも置かれていた。
カイムはその中から、一冊を取り出した。
表紙には、かすれた文字がある。
《山番記録 第七十二年》
「父の字だ」
カイムは帳面を開いた。
紙は乾いて少し割れている。
澪たちは、机を囲むように覗き込んだ。
そこには、伐採記録、山羊を入れた区画、植林地、斜面崩れ、水路の詰まり、雨量の記録が細かく書かれていた。
そして、中ほどに、水車についての記述がある。
カイムが指でたどる。
「……大水車中心軸、乾燥進行。回転時の軋み増加。霧背鹿出現頻度上昇。母樹根系との関係、再調査必要」
澪の目が止まる。
「続きは?」
「水車は、もともと水を村へ送るだけの装置ではない」
カイムの声が小さくなる。
「上部羽根で水を受け、下部戻し樋で余水を森へ返す。飛沫は冷却と霧戻しに用いる。乾いた年ほど、戻し樋を閉じてはならない」
ミルカが反応した。
「戻し樋?」
「水を森へ返す樋?」
澪が聞く。
エルワンが顔をしかめる。
「そんなものは、今は使っていない」
「いつ閉じたんですか」
カイムは帳面をめくる。
「……三十六年前。下流畑への送水不足により、戻し樋を一時閉鎖」
「一時?」
さらにめくる。
「翌年、乾季継続。戻し樋の再開延期」
また、めくる。
「十年後、戻し樋、水路図から削除」
部屋の中が静まり返った。
一時閉鎖。
延期。
削除。
よくある流れだった。
最初は緊急対応だった。
生活を守るためだった。
畑へ水を送るためだった。
けれど、一度閉じた戻し道は、再び開かれなかった。
記録からも消えた。
やがて、誰も知らなくなった。
水車は、森から水を受け取り、村で使い、余りを森へ戻す装置だった。
それが、いつの間にか村へ送るだけの装置になった。
「砂漠の水と同じだ」
澪は呟いた。
「一度使った水を戻さなくなった」
ミルカが頷く。
「水車が回るほど、森へ返す水が減った。中心軸の母樹心材も乾く。同期してる根系も弱る。霧背鹿が霧を背負っても、降ろす先が減る」
フィリアは帳面に手を触れた。
「お父様は、気づいていたのですね」
カイムは答えなかった。
帳面を握る手に、力が入る。
「父は、戻し樋を開けようとしていた」
「それで?」
「反対された」
カイムは歯を食いしばる。
「畑へ送る水が減るからだ。乾いている年に、森へ水を返す余裕などないと言われた」
「そして?」
「父は一人で上の斜面へ行った。戻し樋の出口を探しに」
その先は、聞かなくてもわかった。
三年前の斜面崩れ。
植林地ごと流された作業者。
カイムの父。
「戻し樋の出口は、まだある?」
澪が尋ねる。
カイムは帳面の最後のページを開いた。
そこに、途中まで描かれた地図がある。
大水車。
村の水路。
尾根の残存林。
そして、その間を斜めにつなぐ細い線。
《母樹戻し樋》
その先は、黒く汚れて読めない。
「父の荷物は、ここまでしか見つからなかった」
カイムが言う。
「戻し樋の出口までは、たどり着けなかったのかもしれない」
澪は地図を見つめた。
「でも、入口は水車側にあるはず」
ミルカが水車の構造図を浮かべる。
「中心軸の下。古い分岐がある。塞がってるけど、形は残ってる」
調律核が反応する。
《母樹戻し樋:照合》
《状態:閉塞》
《閉塞物:泥/根/人工封止材》
《再開時予測:母樹心材水分回復》
《副次予測:下流畑送水量一時低下》
また、副次予測。
村へとっては、無視できない一文だった。
下流畑送水量、一時低下。
今でも水が足りないのに、森へ返せば畑の水が減る。
「また選ばせる気か」
カイムが低く言う。
「畑か、森か」
澪は帳面を閉じた。
「選ばない方法を探します」
「あるのか」
「まだわかりません」
「またそれか」
「でも、今はそれしか言えません」
カイムは不満そうだったが、反論はしなかった。
彼自身も、父の記録を見てしまった。
水車を守ることと、森へ水を返すことは、本来、対立していなかったのだ。
***
大水車の下部点検口は、泥と蔦に覆われていた。
ミルカとリハラがいれば楽だった。
だが、リハラはまだオルドアで水務局の復旧を見ている。
ここにいる技術担当はミルカ一人だ。
「人手はいるけど、構造を見られるのは私だけか」
ミルカが工具を構える。
「大人気だね」
ライカが言う。
「人気じゃなくて労働過多」
「セラフィナ、休憩表作る?」
「作成済みです」
「本当に?」
「当然です」
「ミルカ、逃げて」
「逃げたら水車が壊れる」
ミルカはそう言って、点検口の封止材を削り始めた。
アオイは周囲の村人たちと一緒に、古い泥を運び出す。
ルシェリアは水車の周りの湿った空気を動かし、乾きすぎないようにしている。
フィリアはネレイアとともに、中心軸の声を聞いていた。
セラフィナは立入禁止線と作業記録。
ライカは水路の上下流を走って、流量を確認している。
澪は、水車の正面に立った。
巨大な車輪。
止まっているはずなのに、近くにいると微かな軋みが聞こえる。
木が鳴っている。
風ではない。
水でもない。
心材そのものが、ひび割れながら小さく震えている。
《雲見の母樹心材:乾燥進行》
《中心軸摩擦痕:増加》
《回転履歴:不均衡》
《霧背鹿同期率:34%》
《母樹根系残存反応:4% → 3.7%》
「減ってる」
澪の声に、フィリアが頷く。
「中心軸が、喉が渇いたと言っています」
「木の軸が喉が渇くって、普通なら意味わからないけど」
ライカが水路から戻ってきた。
「今はわかっちゃうのが怖いね」
「本当にね」
その時、村の広場から騒ぎが聞こえた。
「水車を回せ!」
「森へ返す前に、まず村へ水を送れ!」
「中心軸が乾いているなら、水をかけて回せばいいだろう!」
澪は振り向いた。
村人の一団が、水路の上流側へ集まっている。
その中には、昨日、霧背鹿へ矢を放った若者もいた。
顔が青ざめている。
だが、焦りに突き動かされている。
「待って!」
澪が叫ぶ。
だが、声は届かない。
彼らは古い水門へ手をかけた。
カイムが走る。
「やめろ! 乾いたまま回すな!」
「お前こそ黙れ!」
若者の一人が叫ぶ。
「父親みたいに森を優先する気か!」
その言葉に、カイムの足が一瞬止まった。
その隙に、水門が開かれる。
上流に残っていた貯水池の水が、細い水路を一気に流れ出した。
水車の羽根板へ、水が当たる。
ごん、と重い音。
止まっていた車輪が、わずかに動いた。
次の瞬間。
ぎいいいいい――。
森全体を引っ掻くような、嫌な軋みが響いた。
フィリアが耳を押さえる。
「痛い!」
霧背鹿の遠い鳴き声が山から聞こえた。
調律核が赤く点滅する。
《大水車:乾燥回転》
《中心軸損傷:進行》
《雲見の母樹心材:剥離》
《母樹根系残存反応:3.7% → 2.9%》
《警告:このまま三回転で心材破断》
「三回転!?」
澪が叫ぶ。
車輪は、ゆっくりだが確実に回り始めている。
乾いた軸が、軸受けで削れていく。
水をかければよいわけではない。
中心まで湿りが届く前に、摩擦と負荷で母樹の心材が壊れる。
「アオイ、止めて!」
「はい!」
アオイが車輪の横へ飛び込む。
だが澪はすぐに叫び直した。
「完全には止めないで! 急に止めたら軸が割れる!」
「どちらですか!」
「回転を遅く!」
「了解しました!」
アオイは盾を車輪の羽根へ当て、力で押し止めるのではなく、回転に合わせて重さを受ける。
全身に負荷がかかる。
足元の泥が沈む。
「ぐ……!」
「アオイ!」
ライカが支えに入る。
だが、獣人の力でも水車は重い。
ミルカが点検口から叫ぶ。
「下部ブレーキがある! でも固まってる!」
「位置は?」
「水車の右下! 石枠の奥!」
カイムが走った。
「俺が行く!」
「一人で行くな!」
澪が叫ぶ。
「村人を連れて!」
カイムは一瞬だけ振り返り、歯を食いしばった。
「手を貸せ!」
さっきまで水門を開けようとしていた若者たちが、迷う。
カイムが怒鳴る。
「壊したいのか! 守りたいのか! どっちだ!」
若者たちは顔を見合わせ、石枠の方へ駆けた。
ミルカが指示を飛ばす。
「古いブレーキ板を引き出して! いきなり押し込まない! 水車の動きに合わせて少しずつ!」
ルシェリアが風を当てる。
水車の回転を直接止めるのではない。
羽根に当たる水の勢いを散らし、車輪へかかる力を減らす。
セラフィナは水門周辺に光剣を立てた。
「これ以上、水門へ近づかないでください!」
「水を止めろ!」
村人が叫ぶ。
「急閉鎖は禁止です!」
セラフィナの声が鋭くなる。
「急に止めれば、水圧で水路が破損します。順番に閉めます!」
「順番なんて言ってる場合か!」
「順番を守らないから、壊れているのです!」
村人は言葉を失った。
フィリアは中心軸へ手をかざす。
ネレイアの水が、ほんの少しだけ青く光る。
「心材へ直接届かせます」
「できる?」
澪が聞く。
「少しだけなら。でも、水が足りません」
「霧背鹿は?」
フィリアが山を向く。
遠くの尾根に、霧背鹿の影が見えた。
背中には薄い霧。
攻撃されたあとでも、まだ村を見ている。
「霧背鹿に頼んで」
澪は言った。
「雨はいらない。霧だけ。中心軸の周りへ、薄く」
フィリアは頷いた。
「伝えます」
山から、白いもやが流れてきた。
強い雨にはならない。
霧の糸のような細い流れ。
それが水車小屋へ入り、中心軸の周囲へまとわりつく。
ルシェリアが風で霧を逃がさないように支える。
ネレイアが、その霧を心材の割れ目へ導く。
ぎい、と軋みが少し弱くなる。
《中心軸表層水分:上昇》
《摩擦熱:低下》
《心材破断予測:三回転 → 七回転》
「伸びたけど、まだ駄目!」
ミルカが叫ぶ。
「戻し樋を開けないと、中心軸の水分が逃げない! ただ濡らすだけじゃ蒸れる!」
「戻し樋の入口は?」
「点検口の奥! 封止材が厚い!」
アオイはまだ車輪を支えている。
ライカも離れられない。
カイムはブレーキへ向かっている。
「私が行く」
澪は点検口へ向かった。
「ミオさん!」
アオイが叫ぶ。
「危険です!」
「わかってる!」
「わかっていて行くのは無茶です!」
「あとで怒られる!」
「今怒っています!」
アオイの声を背に、澪は点検口へ滑り込んだ。
中は狭い。
暗い。
湿った木と古い泥の匂いがする。
しゃがんだ姿勢のまま進むだけで、太ももと背中がじわじわ震えた。
「徹夜明けの身体で、こういうの本当にやめてほしい……」
「誰に言ってるの!」
外からライカの声。
「世界に!」
澪はスマホではなく、調律核の光を頼りに奥へ進む。
ミルカが隣で工具を持っている。
「こっち!」
彼女が指した先に、黒く固まった古い板があった。
人工封止材。
泥。
根。
それらが重なり、戻し樋の入口を完全に塞いでいる。
《母樹戻し樋入口:閉塞》
《手動開放可能》
《注意:急開放時、下流畑送水低下》
「急には開けない」
澪は言った。
「少しだけ」
ミルカが工具を差し込む。
「封止材を削る。ミオは、剥がれた泥を外へ」
「了解」
狭い点検口の中で、二人は泥まみれになりながら作業を始めた。
外では水車が軋む。
アオイの声。
カイムの声。
セラフィナの指示。
ルシェリアの風。
フィリアの祈るような声。
全部が重なって聞こえる。
「開いた!」
ミルカが叫ぶ。
戻し樋の入口に、小さな穴ができた。
そこから、湿った空気が吸い込まれる。
次に、細い水が流れ込んだ。
水車の羽根に当たった水の一部。
霧背鹿が運んだ霧。
ネレイアが導いた水分。
それらが、村へ流れる前に、ほんの少しだけ戻し樋へ入っていく。
その瞬間。
中心軸の奥から、低い音が鳴った。
ぎい、ではない。
こくん。
まるで、乾いた喉が初めて水を飲み込んだような音だった。
調律核が強く光る。
《母樹戻し樋:微開放》
《雲見の母樹心材:水分再流入》
《母樹根系残存反応:2.9% → 3.4%》
《霧背鹿同期率:回復傾向》
「上がった!」
澪は思わず声を上げた。
外で、車輪の回転がさらに遅くなる。
カイムたちがブレーキ板を差し込んだのだ。
セラフィナの指示で、水門も少しずつ閉じられていく。
最後に、アオイが盾を外した。
大水車は、半回転したところで止まった。
完全な停止ではない。
乾き切った死の静止でもない。
水を飲み、わずかに息をしたあとの停止だった。
***
水車小屋の外へ出た澪は、全身泥だらけだった。
セラフィナが見た瞬間、眉を寄せる。
「洗浄と休息が必要です」
「第一声それ?」
「当然です」
「心配の表現が管理寄りなんだよね」
アオイが近づく。
「大丈夫ですか」
「うん。足は笑ってるけど、生きてる」
「終わらせないでください」
ライカが笑いながら水筒を差し出す。
「ミオ、泥の人になってる」
「ライカも半分泥だよ」
「私は走った泥だから」
「分類があるんだ」
村人たちは、止まった水車を見上げていた。
誰もすぐには喋らなかった。
水門を開けた若者たちも、ブレーキを入れたカイムも、エルワンも。
大水車は壊れなかった。
だが、中心軸に大きな傷が入ったことも確かだった。
フィリアが水車の軸へ手を当てる。
「まだ痛いそうです。でも、完全に切れてはいません」
カイムが、ゆっくりと水車へ近づいた。
「俺たちは、これを守っているつもりだった」
彼の声は静かだった。
「だが、守るとは、動かすことだけじゃなかったんだな」
澪は答える。
「動かさないことでもないと思います」
「では?」
「森へ返す道を持ったまま、必要な分だけ回すこと」
カイムは中心軸に手を置いた。
「父は、それをやろうとしていた」
「たぶん」
「俺は、父の帳面を読んだのに、意味を見なかった」
澪は首を横に振った。
「今、見ました」
カイムは黙った。
その横で、エルワンが深く頭を下げた。
村人たちへではなく、水車へ。
そして、尾根の方角へ。
「雲見の母樹よ。我々は、あなたを道具にした」
誰も止めなかった。
「だが、まだ返せるなら、返したい」
その言葉に、調律核が反応する。
《村落認識:更新》
《大水車=収奪装置 から 大水車=循環装置 へ再定義》
《母樹戻し樋:再開条件発生》
《水車運用規約:必要》
セラフィナが即座に記録板を出した。
「運用規約を作成します」
澪は思わず笑った。
「早い」
「必要です」
「うん。必要」
規約には、最低限の項目が並んだ。
乾いた状態で水車を回さない。
戻し樋を完全閉鎖しない。
畑へ送る水量と森へ返す水量を記録する。
雨のあとだけでなく、乾季にも中心軸の水分を確認する。
水車を動かす時は、村側、山番側、森側観測者の三者が立ち会う。
「森側観測者?」
ライカが聞く。
「霧背鹿?」
澪が山を見る。
尾根に霧背鹿が立っていた。
白い霧を背負い、こちらを静かに見ている。
「たぶん、今は霧背鹿ですね」
カイムが小さく息を吐く。
「鹿を規約に入れるのか」
「村の水車が森とつながってるなら、森側の声も必要です」
「正気か」
「異世界に来てから、正気の基準が曖昧です」
ライカが笑う。
「それはそう」
カイムは呆れたように澪を見て、それから少しだけ口元を緩めた。
本当に少しだけ。
***
夕暮れ前。
ミルカは再び点検口へ潜り、戻し樋の流れを確認していた。
澪は外で、泥を落としながら調律核の地図を見ている。
母樹戻し樋は、完全には開いていない。
ごく細い流れが、村の下を通り、尾根へ向かっているだけだ。
それでも、母樹根系の反応は少し戻った。
《雲見の母樹根系生存反応:3.4% → 4.8%》
《黒色菌糸過負荷:低下》
《霧背鹿同期率:42%》
《源流森林調律ルート:第二条件達成》
《条件名:森へ返す水車》
「二つ目の条件達成か」
澪は表示を見つめた。
一つ目は、霧の受け皿。
二つ目は、森へ返す水車。
少しずつ、森の循環が見えてきた。
しかし、同時に地図の奥が更新される。
水車から伸びた戻し樋の先。
尾根の残存林。
そこからさらに上流へ、六つの小さな青い点が浮かび上がった。
《源流六泉:再照合》
《第一泉:閉塞》
《第二泉:濁り》
《第三泉:権利争い》
《第四泉:踏圧》
《第五泉:枯死》
《第六泉:所在不明》
「六泉……」
澪は息を呑む。
山の水は、一つの源から来ているわけではなかった。
六つの泉。
そのうち五つが壊れ、一つは所在不明。
これを直さなければ、森も川も戻らない。
その時、点検口の奥からミルカの声が響いた。
「ミオ! こっち来て!」
「また狭いところ?」
「もっと悪い!」
「聞きたくない!」
「聞いて!」
澪は膝に文句を言われながら、点検口へ戻った。
奥では、ミルカが戻し樋の壁面を照らしていた。
そこに古い文字が刻まれている。
泥を拭ったばかりで、まだ湿っていた。
《六つの泉を閉じるな》
《一つを独占すれば、他の五つも沈黙する》
《母樹は雲を見て、泉は母樹を支える》
そして、その下に、別の刻印。
新しい。
誰かが後から刻んだものだ。
《第六泉を隠せ》
《見つかれば、また奪われる》
澪の背筋に冷たいものが走った。
所在不明の第六泉。
それは自然に消えたのではない。
誰かが、隠した。
カイムも点検口の入口から文字を見た。
「父の字じゃない」
エルワンが顔色を変える。
「その文字は……」
「知っているんですか」
澪が尋ねる。
エルワンは、答える前に唇を震わせた。
「先々代の村長の印だ」
村の長が、第六泉を隠した。
泉を守るためか。
独占するためか。
それとも、何かを封じるためか。
調律核が赤く点滅する。
《第六泉関連記録:封印》
《村落権限層による情報遮断を確認》
《源流森林調律ルート:第三条件発生》
《条件名:隠された泉》
その瞬間。
水車の中心軸が、こくん、ともう一度鳴った。
そして、尾根の方から霧背鹿の鳴き声が響いた。
短く。
鋭く。
まるで、隠された泉の名を呼ぶな、と警告しているように。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第28話では、ルオム山麓村の大水車と、《雲見の母樹》の関係が明らかになりました。
大水車の中心軸には、かつて尾根に立っていた大樹、《雲見の母樹》の心材が使われていました。
この大水車は、もともと森を犠牲にして村だけを潤す装置ではありませんでした。
水を受け取り、村で利用し、余った水と飛沫を《戻し樋》によって森へ返す循環装置だったのです。
しかし、乾いた年に畑へ送る水を優先するため、戻し樋は一時閉鎖されました。
その一時閉鎖は延期され、やがて記録から消され、水車は森へ返す道を失いました。
その結果、水車は回るたびに村へ水を送りながら、母樹心材と尾根の根系を乾かしていきました。
今回、村人たちは焦りから乾いた水車を回そうとしました。
水を当てれば水車は動きます。
しかし、乾いた中心軸をそのまま回せば、摩擦で母樹心材が削れ、残っていた根系反応も失われてしまいます。
澪たちは、水車を完全に止めるのでも、壊すのでもなく、回転を弱めながら戻し樋を微開放しました。
霧背鹿の霧、ネレイアの水、ルシェリアの風、アオイの制動、ミルカの構造修復、セラフィナの秩序、フィリアの声。
それらをつなぐことで、母樹心材へわずかに水分が戻り、根系反応も回復しました。
今回のテーマは、「道具が悪いのではなく、返す道を忘れたことが問題だった」という点です。
水車は森を殺すために作られたわけではありません。
けれど、森へ返す流れを閉じ、村へ送るだけの装置になったことで、循環が壊れていきました。
最後に、《源流六泉》という新たな問題が出てきました。
山の水は一つの泉だけで支えられているわけではなく、六つの泉が母樹と森を支えていました。
しかし、第一泉は閉塞。
第二泉は濁り。
第三泉は権利争い。
第四泉は踏圧。
第五泉は枯死。
そして第六泉は所在不明。
さらに、第六泉は誰かによって意図的に隠されていました。
それは泉を守るためだったのか。
独占するためだったのか。
それとも、何か別の危険を封じるためだったのか。
次回は、《隠された第六泉》をめぐって、村の過去と源流の秘密へ踏み込んでいきます。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




