第34話 枯れた泉の下で、巨獣は息を止めていた
第34話です。
第33話では、《第四泉》と荷運び道の問題を扱いました。
第四泉は、地面の下に薄く広がる湿った層でした。
苔や草の下で、浅い根に水と空気を渡し、第三泉の補助冷却系統も支える、薄層湧出型の泉です。
しかしその上を、長年、鉱石を積んだ獣車が通っていました。
車輪、蹄、鉱石の重さ。
それによって土が押し固められ、水と空気が通らなくなり、第四泉は息ができなくなっていました。
澪たちは、荷運び道を完全に止めるのではなく、丸太や板を使った《浮き道》を作り、泉を踏まずに荷を通す道へ変えました。
これにより、第四泉は完全停止を免れます。
しかし、その先で古い標石が見つかりました。
《ここより軽荷》
《重荷は第五泉回り》
かつて、重い荷は第五泉側の道を通っていました。
ところが第五泉が枯れ、周辺の林が倒れ、道が崩れたことで、すべての荷が第四泉へ集中していたのです。
さらに第五泉の下層には、大型生体反応が確認されました。
第五泉は、ただ枯れたのではない。
水が下層へ消え、何かに吸われている。
今回は、枯れた第五泉と、その下に眠る存在へ向かいます。
第五泉へ向かう道は、かつて重荷道だったとは思えないほど荒れていた。
道幅そのものは広い。
大きな獣車がすれ違えるほどではないが、鉱石を積んだ車が通るには十分な幅がある。
しかし今は、倒木が道を塞ぎ、根が地面を割り、ところどころ斜面ごと崩れている。
かつて敷かれていた石畳は、苔と泥に埋もれ、半分以上が傾いていた。
神代澪は、その道を見て小さく息を吐いた。
「これ、昔は主要道だったんだよね」
カイムが頷く。
「重荷は第五泉回り。山番記録にもある。第四泉の上は軽荷だけだった」
「でも、今はこっちが崩れて使えない」
「第五泉が枯れたあと、周辺の木が倒れた。根が土を掴めなくなり、道ごと崩れた」
ミルカが足元の石畳を叩く。
「道そのものは悪くない。むしろ、昔はかなり考えて作ってある。石の下に水抜きの隙間があるし、荷重を両側の岩盤に逃がしてる」
「第四泉の道より、ずっとちゃんとしてる?」
ライカが聞く。
「本来はね」
ミルカは眉をひそめた。
「でも、今は下の土が抜けてる。見た目より危ない」
澪の調律核にも、同じような表示が浮かんでいた。
《旧第五泉重荷道:崩壊》
《石畳下部:空洞化》
《根系保持力:低下》
《地下水脈:下層へ逸脱》
《地盤陥没リスク:高》
セラフィナが記録板へ危険区域を書き込む。
「以後、青線外通行。石畳中央部への同時荷重は禁止」
「私たちも?」
ライカが聞く。
「もちろんです」
「荷車じゃなくても?」
「人が複数並んで踏めば危険です」
「うわ、道が信用できない」
「信用できない道を、信用できる形に戻すために来ています」
セラフィナの言葉に、ライカは妙に納得した顔をした。
「なるほど」
「納得するんだ」
澪が言うと、ライカは尻尾を揺らした。
「最近、セラフィナの説明、ちょっと慣れてきた」
「それは成長なのか洗脳なのか、判断が難しいね」
「記録しますか?」
セラフィナが真顔で聞いてきた。
「しなくていいです」
軽口は、ほんの少しだけ緊張を和らげた。
けれど、道の奥へ進むほど、空気は重くなる。
鳥の声が少ない。
風の流れも鈍い。
土の匂いは湿っているのに、植物の匂いが薄い。
水があるようで、生きた湿り気がない。
フィリアが胸元に手を当てた。
「ここは、静かすぎます」
「水の声がない?」
澪が聞く。
「声はあります。でも、下から聞こえます。とても深いところから」
ルシェリアが風を読む。
「地面の下に、空気の流れがあります。小さく吸い込まれるような流れです」
「空洞が息をしてる?」
ライカが耳を伏せる。
「それ、怖くない?」
「怖いです」
澪は素直に答えた。
怖くないわけがない。
枯れた泉。
地下空洞。
大型生体反応。
地盤陥没リスク。
ゲームなら、ボス戦前のフィールド演出としては分かりやすい。
だが、ここで戦う相手が本当にボスかどうかは、まだ分からない。
この世界は、そういうところで何度も澪を裏切ってきた。
いい意味でも、悪い意味でも。
「見つけた」
カイムが前方を指す。
道の先に、石で囲まれた小さな窪地があった。
中央には、丸い石組み。
その底に、水はない。
ひび割れた石。
乾いた苔。
枯れた根。
かつて水が湧いていた場所だけが、形として残っている。
第五泉。
そこは、本当に枯れた泉に見えた。
「……水がない」
アオイが静かに言った。
フィリアは石組みの前に膝をつき、手をかざす。
「いいえ」
澪が振り向く。
「あるの?」
「下にあります」
フィリアの顔が曇る。
「でも、上がってこられない。何かが、下で水を抱えています」
調律核が赤く点滅した。
《第五泉:到達》
《湧出反応:なし》
《水脈反応:下層へ消失》
《地下空洞:直下》
《大型生体反応:覚醒傾向》
《生体周辺水分吸収:継続》
《推奨対応:生体排除》
ライカが画面を見て、露骨に嫌な顔をした。
「出た。排除」
澪も同じ顔をしたと思う。
「この表示、信用しすぎると失敗するやつ」
「でも、危ないのは本当だよね」
「うん。危ないのは本当」
ミルカが石組みの縁を確認する。
「下の空洞、浅くない。たぶん泉の真下から斜めに広がってる。ここで強い衝撃を入れたら落ちる」
「つまり、戦闘は最悪」
アオイが盾を握る手に力を込める。
「それでも出てきたら、守ります」
「ありがとう。でもまず、出てくる前に理解したい」
澪は泉の底を見る。
水のない石組み。
枯れた苔。
ひび割れた地面。
その奥から、低い音が聞こえた。
ごおん。
地鳴りのような音。
いや、違う。
これは、呼吸だ。
とても大きなものが、地面の下でゆっくり息をしている。
ただし、その息は苦しげだった。
***
地下空洞へ降りる入口は、第五泉の横にあった。
正確には、入口だった場所の跡だ。
石蓋は割れ、半分埋もれ、根が絡みついている。
カイムが古い山番記録を開く。
「《泉肺穴》とある」
「せんぱいあな?」
ライカが首を傾げる。
「泉の肺の穴、と書いてあります」
フィリアが言う。
「泉が呼吸するための穴です」
ミルカが石蓋を叩く。
「換気口だね。地下空洞の湿った空気を逃がして、外の空気を入れる。完全に塞がってる」
ルシェリアが指先に小さな風を作った。
風は穴の前でふらつき、すぐ下へ吸い込まれる。
「中が酸欠に近いです。風を通さなければ、私たちも危険です」
「中に入るのは最小人数」
セラフィナが即座に言う。
「澪、ミルカ、フィリア、ルシェリア、アオイ。ライカは入口周辺の偵察。カイムは地上側の退避管理」
ライカが不満そうに耳を動かす。
「私、入らないの?」
「狭い場所で高速移動は危険です」
「まあ、それはそう」
「さらに、地上の異変を最も早く察知できるのはライカです」
「よし、任された」
切り替えが早い。
澪は少し笑ってから、石蓋を見る。
「まずは入口を全部開けない。隙間を作って、空気を少しずつ通す」
ミルカが頷いた。
「水と同じ。空気も急に通すと中の乾いた粉が舞う。少しずつ」
「最近、全部少しずつだね」
ライカが言う。
澪は答えた。
「壊れた循環は、一気に直すとだいたい暴れるから」
「名言っぽい」
「実体験です」
ミルカが石蓋の端に工具を差し込む。
アオイが力を添える。
ぐ、と石が動いた。
その隙間から、冷たい空気が漏れる。
次に、湿った匂い。
さらに、土と根と古い水の匂い。
フィリアが目を閉じる。
「苦しい声が、少し軽くなりました」
「よし」
ミルカは少しだけ石蓋を広げた。
ルシェリアが細い風を流し込む。
強すぎない。
乾かさない。
ただ、淀んだ空気を少しずつ動かす風。
調律核の表示が変わる。
《泉肺穴:微開放》
《地下空洞酸素濃度:微回復》
《粉塵舞上がり:低》
《大型生体反応:変化》
《覚醒傾向:上昇》
「起きる?」
アオイが低く言う。
「起こしてるんだと思う」
澪は答えた。
「ただし、暴れないように」
「寝起きが悪いタイプだったら?」
ライカが入口から聞いてきた。
「その場合は、全員で謝る」
「謝って済む?」
「済まないかもしれない」
「じゃあ謝りながら逃げる?」
「それはそれで嫌だなあ」
軽口を言いながらも、全員の表情は硬い。
地下へ降りる石段は、湿って滑りやすかった。
ミルカが先に足場を確認し、アオイがその後ろを守る。
澪は中央。
フィリアとルシェリアが続く。
壁には、古い根が絡みついていた。
ところどころ、根が黒く変色している。
だが、第27話の黒色菌糸のような過負荷ではない。
もっと乾いて、細く、力を失った黒さ。
「根が、息を待っています」
フィリアが呟く。
「水じゃなくて?」
「水もです。でも、ここでは空気が足りなかった」
石段を降りきると、広い空洞へ出た。
澪は、思わず言葉を失った。
そこには、巨大な生き物がいた。
亀に似ている。
だが、普通の亀ではない。
背中は岩盤のように広く、苔と枯れた根が張りついている。
甲羅の上には、石柱のような突起がいくつも並び、その間を細い水脈が走っていた。
頭は地面に半分埋まり、目は閉じている。
前脚のような部分は、太い根と一体化している。
眠っているようで、苦しんでいるようでもあった。
調律核が表示する。
《大型生体:識別更新》
《旧分類:水脈捕食体》
《新規候補:石肺亀》
《機能:地下空洞支持/湿気循環/浅層水脈攪拌》
《状態:酸欠/過乾燥/防衛吸水》
「石肺亀……」
澪は小さく呟いた。
「亀なんだ」
ライカが上から小声で言う。
「聞こえてるよ」
「入口からでも見える。でかい」
ミルカは目を見開いていた。
「この空洞、こいつの背中と周りの岩で支えてる。無理に動かしたら、天井が落ちる」
「倒せば泉が戻るどころか、道ごと崩れる」
澪は調律核を睨む。
最初の推奨対応は生体排除。
だが、排除すれば空洞が崩れる。
また、初期表示だけでは見えない正体。
この世界のシステムは、事実を表示する。
けれど、意味まではすぐに教えてくれない。
「水を食べてるんじゃない」
フィリアが石肺亀へ近づきすぎない距離で膝をついた。
「息ができなくて、身体を冷やすために水を抱え込んでいます」
ルシェリアが頷く。
「呼吸孔が塞がり、空気が通らなくなった。熱と湿気がこもり、甲羅の水脈が詰まっています」
ミルカが周囲の壁を調べる。
「昔は、石肺亀の甲羅を通った水が、第五泉へ押し上げられてたんだ。こいつが地下水を混ぜて、空気を入れて、泉へ戻してた」
「生きたポンプ?」
澪が言う。
「いや、生きた肺かな。名前通り」
石肺亀の甲羅が、わずかに上下する。
そのたびに、空洞の中の湿った空気がゆっくり動く。
しかし、動きは弱い。
空気が入らない。
水の逃げ道も詰まっている。
だから石肺亀は、自分を守るために下層の水を抱え込み、第五泉へ上がるはずの水を止めてしまっていた。
敵ではない。
でも、放置すれば泉は戻らない。
「どうする?」
アオイが聞く。
「息をさせる」
澪は言った。
「水を出せって命令するんじゃなくて、先に呼吸を戻す」
ミルカが頷く。
「泉肺穴をもっと開ける。ただし急に開けると乾いた空気が入りすぎる」
ルシェリアが言う。
「風の通り道を二つに分けましょう。入口から入る風と、奥から抜ける風。片道だけでは、粉と熱がこもります」
フィリアが石肺亀の甲羅を見る。
「水脈も、出口が必要です。甲羅の上の細い水路が、根で塞がっています」
「根を切る?」
アオイが聞く。
フィリアは首を横に振った。
「切れば痛みます。湿らせて、ほどきます」
澪は頷く。
「役割を分けよう。ミルカは空洞の支えと水路。ルシェリアは風。フィリアは根と石肺亀の状態。アオイは落石と防衛。私は全体を見る」
「ミオさんは無理に前へ出ない」
アオイが即座に言う。
「はい」
「返事が早いですね」
「さすがに学習しました」
本当は前へ出そうになっていた。
だが、ここで足を滑らせたり、石肺亀を刺激したりすれば、洒落にならない。
澪は調律核を開き、空洞の構造を確認する。
泉肺穴は一つだけではなかった。
主穴が塞がり、補助穴も二つ埋もれている。
さらに、石肺亀の甲羅を伝う水路の先に、第五泉へ向かう細い上昇路がある。
そこが、枯れた根と泥で詰まっていた。
《復旧候補》
《一:泉肺穴の段階開放》
《二:甲羅水脈の湿潤解除》
《三:第五泉上昇路の微開通》
《注意:同時急開放時、空洞内圧変動》
「また段階開放」
ライカの声が上から響く。
「ライカ、聞こえすぎ」
「耳がいいので」
「じゃあ地上で補助穴探して」
「了解!」
ライカが走り去る気配がした。
***
作業は、戦闘より神経を使った。
まず、地上側でライカとカイムが補助の泉肺穴を探す。
古い石標。
わずかに湿った苔。
地面から漏れる冷たい空気。
それを手がかりに、埋もれた穴を見つける。
見つけたら、全部開けない。
落ち葉と泥を少しずつ退かし、細い風だけを通す。
地下では、ルシェリアが風を受け取った。
入口から入る風。
補助穴から抜ける風。
それを石肺亀の顔や甲羅へ直接当てず、空洞全体をゆっくり回す。
「強く吹かせれば早いですが、乾きます」
ルシェリアが言う。
「今日は、早さより安定」
澪は答えた。
「もう何回目かわからないけど」
ミルカは甲羅の水脈を覗き込んでいる。
そこには、細い溝のような水路があった。
だが、枯れた根が絡み、泥が詰まり、水はほとんど動いていない。
フィリアがネレイアの水を一滴ずつ落とす。
根はすぐにはほどけない。
だが、少しずつ柔らかくなる。
「無理に引っ張らないでください」
フィリアが言う。
「根が痛がります」
ミルカは工具を止めた。
「力技禁止ね。わかってる」
「ミルカさん、力技好きですか?」
「構造が許せば好き」
「正直ですね」
「ドワーフだから」
その言葉に、少しだけ笑いが生まれた。
石肺亀の閉じた目が、わずかに動く。
笑いに反応したわけではないだろう。
しかし、呼吸は少しだけ深くなっていた。
調律核が更新される。
《泉肺穴:二箇所微開放》
《空洞内酸素:回復傾向》
《石肺亀防衛吸水:弱化》
《甲羅水脈閉塞:一部緩和》
「いい感じ」
澪が言った瞬間だった。
空洞の奥で、低い音が鳴る。
ごご。
床が震えた。
アオイが即座に澪の前へ出る。
「下がってください」
石肺亀の前脚が、わずかに動いた。
その動きで、壁の一部から小石が落ちる。
ミルカが叫んだ。
「起きかけてる! でもまだ水路が開いてない!」
「起きるとまずい?」
「このまま動くと空洞が崩れる!」
石肺亀の呼吸が荒くなる。
空気が入ったことで、身体が動き始めた。
だが、甲羅水脈と上昇路が詰まったままでは、抱え込んでいた水を逃がせない。
つまり、息だけ戻して出口がない。
また、順番の問題。
「フィリア、石肺亀に伝えられる?」
澪が聞く。
「やってみます」
フィリアは両手を甲羅へ向けた。
直接触れない。
水の粒を介して、声を届ける。
「起きてください。でも、まだ動かないでください。水の道を作っています」
石肺亀の喉の奥から、低い音が響く。
それは鳴き声というより、岩盤そのものが返事をしているような音だった。
フィリアの顔が少し歪む。
「怖がっています」
「こんなに大きいのに?」
ライカの声が地上から聞こえた。
「大きくても、苦しいものは苦しいです」
フィリアが答える。
澪はその言葉を聞きながら、調律核を見る。
第五泉上昇路。
つまり、石肺亀の甲羅から地上の泉へ水を戻す細い管。
ここを開けなければ、石肺亀は水を抱え込んだまま苦しむ。
しかし急に開ければ、下層に溜まった水が吹き上がり、枯れた泉の石組みを壊す。
「上昇路を、針穴から開ける」
澪は言った。
「第一泉と同じだね」
ミルカが頷く。
「ただし今度は下から上。圧が読みにくい」
「ライカ、地上の第五泉へ戻って。水が出たら、石と落ち葉で受けて。噴き上がるほど出たら、すぐ知らせて」
「了解!」
「カイムさん、地上側の退避線を。誰も泉の正面に立たせないで」
「わかった!」
「アオイ、落石が来たら私たちじゃなく石肺亀の頭側を守って」
アオイが少し驚いた顔をした。
「石肺亀を、ですか」
「頭を打って暴れたら全員危ない」
「了解しました」
「でも、アオイも無理しないで」
「はい。そこは守ります」
ミルカが上昇路の根詰まりに工具を当てる。
フィリアが根を湿らせ、ルシェリアが風を一定に保つ。
澪は調律核の圧力表示を見つめた。
《第五泉上昇路:微穿孔》
《下層水圧:中》
《吹上リスク:注意》
《石肺亀防衛吸水:低下》
ミルカが小さな穴を開けた。
一瞬、空洞が静かになる。
次に、上の方からライカの声が響いた。
「出た! 水、出た!」
「量は!?」
「ちょろちょろ! でも黒くない! 透明っぽい!」
澪は胸を撫で下ろしかけた。
だが、その直後。
石肺亀が、大きく息を吸った。
空洞の空気が、ぐっと動く。
壁の根が震える。
甲羅の水脈に、急に水が走った。
ミルカが叫ぶ。
「圧が上がる!」
調律核が赤く点滅する。
《石肺亀覚醒反射》
《抱水放出:増加》
《第五泉上昇路:容量不足》
《吹上リスク:高》
「穴が小さすぎた?」
澪が言う。
「違う! 石肺亀が安心して水を返そうとしてる!」
ミルカが叫ぶ。
「いいことだけど、急すぎる!」
地上からライカの声。
「水、増えた! ちょっと待って、泉の石が浮いてる!」
まずい。
石肺亀は敵意ではなく、安心して水を戻そうとしている。
だが、長く止まっていた水が、一気に戻れば泉が壊れる。
「嬉しくて暴れるな、みたいな状況?」
澪は思わず呟く。
ルシェリアが冷静に言った。
「例えは軽いですが、構造は近いです」
「認められたくなかった」
「ミオさん、指示を」
アオイの声で、澪は現実に戻る。
「出口を増やすんじゃなくて、途中で受ける!」
「どこで?」
ミルカが叫ぶ。
「甲羅の水脈の横! 使ってない溝がある!」
ミルカが振り向く。
「あれは古い副水路! 苔で埋まってる!」
「そこに流して、甲羅の上で一回溜める。地上へ全部上げない」
フィリアが頷いた。
「石肺亀へ伝えます。水を一度、背中で休ませてください」
「ルシェリア、甲羅の上を乾かさない程度に風を回して。水を冷やす」
「承知しました」
「アオイ、落石警戒!」
「はい!」
ミルカとフィリアが副水路を湿らせながら開く。
水が、上昇路へ直行せず、甲羅の横へ広がった。
甲羅の苔が、乾いたスポンジのように水を吸う。
水の勢いが落ちる。
地上からライカの声が変わる。
「水、落ち着いた! 石も止まった!」
調律核が青く明滅した。
《甲羅副水路:再通水》
《抱水放出:分散》
《第五泉上昇路負荷:低下》
《吹上リスク:低下》
《第五泉湧出反応:微回復》
澪は大きく息を吐いた。
足元が少し揺れた気がして、壁に手をつく。
「ミオさん」
アオイがすぐに気づく。
「大丈夫。ちょっと、気が抜けただけ」
「休憩を」
「今は石肺亀の様子を」
「休憩を」
「……はい」
アオイの圧が強い。
セラフィナがいない地下でも、管理は受け継がれていた。
澪は近くの安定した岩に座った。
石肺亀の巨大な目が、ゆっくりと開く。
暗い琥珀色の瞳。
そこには、敵意はなかった。
ただ、長く苦しんでいたものが、久しぶりに空気と水の流れを感じたような、深い疲労があった。
フィリアが静かに頭を下げる。
「おはようございます」
石肺亀は、低く鳴いた。
空洞が震える。
だが、今度の震えは崩壊ではなかった。
地下の肺が、ゆっくり息を吹き返す音だった。
***
地上へ戻ると、第五泉の底に水があった。
量は少ない。
手を浸すほどもない。
けれど、乾き切っていた石組みの底に、透明な水が薄く溜まっている。
枯れた苔の一部が、水を吸って色を戻し始めていた。
ライカがしゃがみ込んで見ている。
「本当に戻った」
「まだ、ほんの少しです」
フィリアが言う。
「でも、戻りました」
カイムはしばらく言葉を失っていた。
やがて、第五泉の縁に手をつく。
「ここが戻れば、重荷道も戻せるのか」
ミルカは首を横に振る。
「すぐには無理。地盤がまだ弱い。石肺亀の呼吸、水脈、根が戻ってから。道はその後」
「そうか」
「第四泉みたいに、仮道は作れるかもしれない。でも重荷を戻すのは段階的に」
「また段階か」
カイムが苦笑する。
澪も同じように笑った。
「この山、段階的じゃないとだいたい壊れるので」
セラフィナが地上で待っていた。
記録板には、すでに第五泉周辺の規約案が書かれている。
「第五泉管理案。第一、泉肺穴の完全閉鎖禁止。第二、泉肺穴の急開放禁止。第三、第五泉上部での重荷通行停止継続。第四、石肺亀覚醒観測。第五、地下空洞上部への集団立入禁止」
ライカが覗き込む。
「石肺亀、規約入りした」
「当然です」
「霧背鹿に続いて、亀も」
「森側観測者が増えました」
澪は少し笑った。
「このままだと、最終的に人間より森側の出席者が多くなりそう」
セラフィナは真面目に頷いた。
「可能性はあります」
「冗談だったんだけど」
「必要なら検討します」
「検討されるんだ……」
ガランとナラも第五泉へ到着していた。
ガランは水を見て、深く息を吐いた。
「第五泉が戻れば、重荷道もいずれ戻る。そうすれば、第四泉への負担も減る」
ナラが腕を組む。
「でも、また重い荷を戻しすぎれば、こっちが潰れる」
「わかっている」
ガランは珍しく素直に言った。
「道は、通す前に見る。泉も見る。荷も半分からだ」
「記録します」
セラフィナが即座に言う。
ガランは苦い顔をしたが、もう反論はしなかった。
調律核が光る。
《第五泉:微湧出再開》
《石肺亀:覚醒安定》
《泉肺穴:二箇所微開放》
《第五泉上昇路:部分回復》
《第四泉踏圧集中:将来的緩和条件発生》
《源流森林調律ルート:第八条件一部達成》
《条件名:泉の肺を開く》
「八条件目」
澪は表示を見つめる。
第一泉。
第二泉。
第三泉。
第四泉。
第五泉。
第六泉。
六つの泉に、それぞれ応急処置が入った。
まだ全部が仮。
まだ全部が一部達成。
それでも、六泉は完全停止を免れつつある。
その時だった。
地面が、かすかに震えた。
第五泉の水面に、小さな波紋が広がる。
一度。
二度。
三度。
まるで、遠くの鼓動が水へ伝わっているようだった。
フィリアが顔を上げる。
「六つの泉が、互いを呼び始めています」
調律核が自動で地図を展開した。
六つの泉。
第一泉、段階開放。
第二泉、濁り低下。
第三泉、冷却水帰路。
第四泉、踏圧軽減。
第五泉、微湧出再開。
第六泉、公開管理。
それぞれの点が、淡く光る。
そして、その線が、一つずつつながっていく。
《源流六泉:相互反応》
《六泉同期条件:仮成立》
《雲見の母樹根系:反応》
《霧背鹿同期率:上昇》
「いいこと……だよね?」
ライカが不安そうに聞く。
澪は表示の続きを待った。
次に出た文字は、青ではなかった。
赤だった。
《警告》
《六泉同時同期により、上流森林帯全体へ水脈再接続が発生》
《現在の森林保持力:不足》
《急速再接続時、斜面崩落/黒色菌糸過負荷/霧背鹿暴走の可能性》
「……また」
澪は思わず呟いた。
六つの泉を一つずつ助けてきた。
しかし、それらが一斉につながるには、森の受け皿がまだ足りない。
水が戻る。
根が反応する。
菌糸が動く。
霧背鹿が同期する。
それは希望であると同時に、危険でもあった。
《推奨対応》
《六泉同期を一時的に抑制》
《または、雲見の母樹根系へ受け皿を形成》
《残り時間:六時間》
カイムが息を呑む。
「六時間?」
フィリアが尾根の方を見る。
「雲見の母樹が、呼ばれています」
遠くで、霧背鹿が鳴いた。
その声は、今までで一番長く、山全体へ響いた。
喜び。
痛み。
焦り。
すべてが混じった声。
澪は、第五泉の小さな水面に映る空を見た。
六つの泉は、息を吹き返した。
だが、まだ森はその水を受け止められない。
次にやるべきことは、泉を開くことではない。
戻ってきた水を、森へどう受け渡すか。
雲見の母樹。
霧背鹿。
黒色菌糸。
六泉。
すべてが、一つの場所へ集まり始めていた。
「尾根へ戻ろう」
澪は立ち上がった。
「今度は、六つの泉を一つにしすぎないために」
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第34話では、《第五泉》と、その下に眠っていた大型生体反応の正体が明らかになりました。
第五泉は、ただ枯れた泉ではありませんでした。
水脈が下層へ消え、その先に地下空洞があり、そこには《石肺亀》と呼ばれる巨大な生体が眠っていました。
最初の表示では、水脈捕食体、つまり水を奪う存在のように見えていました。
しかし実際には、石肺亀は泉を食べていたわけではありません。
地下空洞を支え、湿気を循環させ、浅層水脈を攪拌し、第五泉へ水を押し上げる役割を持つ存在でした。
いわば、第五泉の地下にある「生きた肺」です。
ところが、泉肺穴と呼ばれる呼吸孔が塞がり、地下空洞は酸欠と過乾燥に近い状態になっていました。
石肺亀は自分の身体を守るために、防衛的に水を抱え込み、結果として第五泉へ水が上がらなくなっていたのです。
今回も、単純な討伐では解決しません。
石肺亀を排除すれば、地下空洞そのものが崩れ、第五泉だけでなく重荷道まで失われる可能性がありました。
そこで澪たちは、まず泉肺穴を段階的に開け、地下空洞へ風を通しました。
さらに、石肺亀の甲羅にある水脈を湿らせ、根をほどき、第五泉へつながる上昇路を針穴のように微開通させました。
ここでも重要なのは、急に開けないことです。
呼吸だけ戻して水の出口がなければ、石肺亀は苦しみます。
逆に、水の出口を急に開ければ、抱え込まれていた水が一気に噴き上がり、第五泉の石組みを壊してしまいます。
そのため、甲羅の副水路を使い、水を一度背中で休ませてから第五泉へ戻す形にしました。
これにより、第五泉にはわずかな水が戻りました。
まだ完全復活ではありません。
しかし、枯れていた泉に水面が生まれました。
第五泉が戻れば、将来的には重荷道の一部も復旧できる可能性があります。
それは、第四泉への荷重集中を減らすことにもつながります。
今回のテーマは、「枯れた泉にも、呼吸が必要だった」です。
水を戻すには、水路だけでは足りません。
空気の道。
根の道。
圧の逃げ道。
湿気を保つ場所。
そうしたものが揃って初めて、泉は生きた形で戻ります。
そしてラストでは、六つの泉が相互に反応し始めました。
第一泉、第二泉、第三泉、第四泉、第五泉、第六泉。
それぞれに応急処置が入り、六泉同期条件が仮成立しました。
しかし、それは同時に危険でもあります。
六つの泉が一斉につながれば、上流森林帯全体へ水脈再接続が起きます。
ところが、現在の森林保持力はまだ不足しています。
急速に水が戻れば、斜面崩落、黒色菌糸の過負荷、霧背鹿の暴走が起きる可能性があります。
水が戻ることは希望です。
しかし、受け皿がなければ、その希望は災害になります。
次回は、尾根へ戻り、《雲見の母樹》の根系と六つの泉の同期をどう受け止めるかへ進みます。
六つの泉を一つにするのではなく、一つにしすぎない。
源流森林編の大きな調律へ向かいます。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




