第35話 六つの泉は、同時に流してはいけない
第35話です。
第34話では、《第五泉》と、その下に眠っていた大型生体反応の正体が明らかになりました。
第五泉は、ただ枯れた泉ではありませんでした。
その下には、地下空洞を支え、湿気を循環させ、浅層水脈を攪拌する存在、《石肺亀》が眠っていました。
石肺亀は水を奪う怪物ではありません。
泉の地下にある、生きた肺のような存在でした。
しかし、呼吸孔である《泉肺穴》が塞がれ、空洞は酸欠と過乾燥に近い状態になっていました。
そのため石肺亀は、防衛的に水を抱え込み、第五泉へ水が上がらなくなっていたのです。
澪たちは、泉肺穴を段階的に開け、甲羅の水脈を湿らせ、第五泉へつながる上昇路を微開通させました。
その結果、枯れていた第五泉に、わずかな水が戻ります。
しかし、六つの泉が応急的に動き出したことで、今度は別の危険が現れました。
六泉が同時に同期すれば、上流森林帯全体へ水脈再接続が起きます。
ところが、現在の森林保持力は不足しています。
急速に水が戻れば、斜面崩落、黒色菌糸の過負荷、霧背鹿の暴走が起きる可能性があります。
今回は、尾根へ戻り、《雲見の母樹》の根系と六つの泉の同期を調律します。
第五泉から尾根へ戻る道で、地面は何度も小さく震えた。
大きな揺れではない。
足元に小さな鼓動が伝わるような、浅い振動。
石肺亀が目を覚ましたせいなのか。
第五泉に水が戻ったせいなのか。
それとも、六つの泉が互いを呼び始めたせいなのか。
神代澪には、すぐには判断できなかった。
ただ一つだけ分かる。
良い兆候だけではない。
「水が戻るのに、怖いって変な感じだね」
ライカが耳を伏せながら言った。
「そうだね」
澪は調律核の地図を見つめた。
第一泉。
第二泉。
第三泉。
第四泉。
第五泉。
第六泉。
六つの点が淡く光り、それぞれの間に細い線が走り始めている。
その線は美しい。
けれど、美しすぎる。
まるで、世界が「これでつながった」と言いたがっているように見えた。
澪はその表示を、素直に喜べなかった。
《源流六泉:相互反応》
《六泉同期条件:仮成立》
《雲見の母樹根系:反応》
《霧背鹿同期率:上昇》
《警告:森林保持力不足》
《急速再接続時、斜面崩落/黒色菌糸過負荷/霧背鹿暴走の可能性》
ライカが画面を覗き込む。
「つながったら危ないって、じゃあ今まで何してたの?」
「止まっていたものを、まず動かした」
澪は答える。
「でも、全部を一気に動かす準備はまだできていない」
「水車も、泉も、空気穴も、全部そうだったね」
「うん」
「この山、全体的に寝起きが悪い」
「たとえは軽いけど、わりと合ってる」
アオイが前方を見ながら言う。
「急に目覚めれば、身体を傷める」
「それです」
澪は頷いた。
「六つの泉は、今まさにそれを起こそうとしている」
尾根が近づくにつれ、空気は変わっていった。
霧が濃い。
だが、第26話で見た霧とは違う。
霧背鹿が必死に背負っていた、行き場のない霧ではない。
六つの泉から立ち上がった湿りが、尾根へ集まり始めている。
水が戻った。
風が動いた。
根が目を覚ました。
菌糸が反応した。
だから、霧も帰ろうとしている。
問題は、その帰る先だった。
フィリアが尾根の方を見上げる。
「雲見の母樹が、呼ばれています」
カイムの顔が硬くなる。
「母樹は切株だ。根も弱っている」
「はい」
フィリアは静かに頷く。
「けれど、六つの泉は、昔の母樹を覚えています。大きな枝と、深い根と、霧を受ける葉を」
「今はないものを、今あると思って流れ込むのか」
ミルカが言う。
「それ、構造的に最悪だよ」
ルシェリアが霧を見ながら続ける。
「受け皿のない場所へ、水と霧と風が集まれば、濡れるのではなく、崩れます」
澪は唇を噛んだ。
六つの泉を助けたことは間違いではない。
だが、六つの泉は孤立したパーツではなかった。
母樹。
霧背鹿。
菌糸。
斜面。
水車。
村。
鍛冶場。
道。
全部がつながっている。
どこかを直せば、別のどこかが動き出す。
それは希望であり、危険でもあった。
「尾根へ急ごう」
澪は言った。
「六つの泉が、母樹へ一斉に流れ込む前に」
***
尾根の残存林は、霧に包まれていた。
前に来たときよりも、明らかに湿っている。
菌糸橋に置いた倒木には水滴がつき、苔は色を戻し始めていた。
黒色菌糸も、前よりおとなしい。
ただし、穏やかではない。
あちこちで、黒い糸が白い菌糸や細い根へ向かって伸びている。
一斉につながろうとしている。
焦っているように見えた。
調律核が表示する。
《尾根残存林:霧沈着増加》
《菌糸橋:過負荷傾向》
《黒色菌糸活動:拡大》
《母樹根系への集中接続:進行》
《斜面保持力:不足》
「やっぱり、集まりすぎてる」
澪は声を低くした。
尾根の中央。
かつて雲見の母樹が立っていた場所には、大きな切株がある。
その周囲の土が、じわじわと湿り始めていた。
切株の割れ目からは、薄い白い霧が漏れている。
木はない。
幹もない。
葉もない。
それなのに、そこへ水が集まっている。
「母樹の根が、全部を受けようとしています」
フィリアが言った。
「受けられるの?」
ライカが聞く。
フィリアは首を横に振る。
「今のままでは、無理です」
その直後、尾根の奥で霧背鹿が鳴いた。
霧の中から現れたその姿は、前よりも大きく見えた。
いや、実際に大きくなっているわけではない。
背に負った霧が膨らんでいるのだ。
白い霧が角に絡み、背中から流れ、脚元で渦を巻く。
美しい。
けれど、危うい。
《霧背鹿同期率:74%》
《霧保持量:上昇》
《排出先:雲見の母樹根系へ集中》
《警告:同期率90%到達時、霧堰化》
「霧堰化?」
アオイが眉をひそめる。
澪は表示を開く。
《霧堰化:霧保持体が過剰な湿気を抱え込み、移動性を失う状態》
《発生時:局所豪雨/斜面崩落/霧背鹿機能喪失》
ライカが息を呑む。
「霧背鹿が、霧のダムになるってこと?」
「たぶん」
澪は霧背鹿を見る。
「霧を背負いすぎて、動けなくなる」
霧背鹿は、澪たちを見ている。
助けを求めているようにも、近づくなと言っているようにも見えた。
カイムが一歩前へ出る。
「また、俺たちが撃ったせいか」
「それだけではありません」
フィリアが言う。
「でも、傷は残っています」
カイムは歯を食いしばった。
澪は調律核を握る手に力を込める。
「霧背鹿から霧を取ればいい?」
ルシェリアが首を横に振る。
「強引に霧を散らせば、尾根全体に雨が落ちます。今の斜面では崩れます」
「母樹へ流せば?」
ミルカが切株を見る。
「根が耐えられない。菌糸橋も詰まる」
「止めれば?」
フィリアが言う。
「六泉がさらに圧を持ちます。第一泉や第五泉でまた逆流が起きるかもしれません」
ライカが両耳を押さえた。
「やっぱり全部駄目じゃん!」
澪は深く息を吸った。
全部駄目。
そう見えるときほど、構造の見方が足りていない。
「一か所に流すのが駄目なんだ」
澪は言った。
「六つの泉を、母樹の根へ一気に集めない」
ミルカがすぐ反応する。
「分ける?」
「うん。水も霧も菌糸も、一回ずつ受ける場所を分散させる」
「母樹の代わりになる受け皿を作るってこと?」
「代わりじゃない」
澪は切株の周囲を見た。
「母樹の周りに、小さな受け皿をいくつも作る。母樹だけに戻すんじゃなくて、周辺の残存林、菌糸橋、苔床、倒木、若い根へ順番に渡す」
フィリアが目を細める。
「母樹を中心にするのではなく、母樹を入口にする」
「そう」
澪は頷いた。
「昔の大きな母樹には、一気に受けられる枝と葉と根があった。でも今はない。だったら、母樹のまわりに小さな受け皿を作って、六泉の流れを拍子に分ける」
「拍子?」
ライカが首を傾げる。
「同時に鳴らさない」
澪は調律核の六泉地図を見せる。
「第一泉、第二泉、第三泉、第四泉、第五泉、第六泉。六つが一斉に母樹へ流れると壊れる。だから、少しずつ順番に流す」
ミルカが手を打った。
「六泉拍動」
「それ」
「心臓みたいに、順番に送るんだ」
「うん。全部開けっぱなしにしない。全部閉じない。拍子を作る」
カイムが切株を見る。
「そんなことができるのか」
澪は答えた。
「できるように、受け皿を作ります」
セラフィナが記録板を開く。
「作業名を設定します。《六泉拍動環》」
「かっこいい名前が来た」
ライカが言う。
「必要です」
「また必要なんだ」
セラフィナは真顔だった。
***
六泉拍動環の作業は、尾根全体を使うものになった。
まず、雲見の母樹の切株を中心に、六方向へ小さな受け皿を作る。
受け皿といっても、池ではない。
落ち葉を厚く敷き、湿った倒木を置き、苔と枝で水を抱える帯を作る。
そこへ黒色菌糸が直接母樹へ集中しないよう、途中に緩衝となる菌糸橋を置く。
水が来たら一度止まり、染み込み、根へ渡る。
次の水が来るまで、少し休む。
その繰り返し。
「第一泉側は、泥が多いから粗い枝床」
ミルカが指示する。
「第二泉側は、灰が混じる可能性があるから、交換できる落ち葉棚。第三泉側は熱を含む水の残響があるから、石と風の通り道を広めに。第四泉側は浅い根を潰さないよう、軽い枝だけ。第五泉側は石肺亀の呼吸に合わせて、急に水を吸わせない。第六泉側は苔床を傷めないよう、霧だけ受ける」
「すごい、全部違う」
ライカが目を丸くする。
「泉ごとに性格が違うからね」
ミルカが言う。
「同じ構造を並べたら、たぶん壊れる」
澪は六つの受け皿の位置を確認する。
ただ作るだけでは駄目だ。
拍子が必要だ。
六つの泉の流れが同時に強くならないよう、霧背鹿、母樹根系、菌糸橋、水車の戻し樋、泉肺穴の風量まで合わせる。
「これ、ゲームならリアルタイム管理イベントだよね」
澪は思わず呟いた。
「何ですか、それは」
アオイが聞く。
「全部のゲージを見ながら、上がりすぎたら抑えて、下がりすぎたら少し流すやつ」
「難しいのですか」
「難しい上に、だいたい初見殺し」
「では、慎重に」
「はい」
ゲームならリトライできる。
でも、ここではできない。
それを思うと、指先が少し冷える。
その時、霧背鹿が再び鳴いた。
背中の霧が膨らむ。
調律核が赤く光る。
《霧背鹿同期率:78%》
《霧保持量:増加》
《霧堰化予測:残り四十三分》
「時間制限、来た」
ライカが言う。
「本当に毎回、時間制限あるね」
「ラノベの展開としては分かりやすいけど、当事者としてはやめてほしい」
澪はすぐに指示を出す。
「ルシェリア、霧を切株に直接落とさないで。六方向へ薄く分けて」
「承知しました」
「フィリア、黒色菌糸に伝えて。母樹へ直行しない。途中の菌糸橋へ一度入る」
「はい」
「ミルカ、受け皿の高さ確認。低すぎると流れる。高すぎると届かない」
「やってる!」
「アオイ、倒木運び。重いのは一人で持たない」
「はい」
「ライカ、六方向の伝令。危ない場所を見たらすぐ戻って」
「了解!」
「カイムさん、村人と山番を分けて配置してください。誰も切株の真横へ入れないように」
「わかった」
「セラフィナ、記録と禁止線」
「すでに実施中です」
「さすが」
作業が一気に動き出した。
村人たちも、灰拾いも、鍛冶職人も、運搬組も、山番もいる。
本来なら、同じ場所で作業することすら難しかった人々だ。
水を奪い合い、灰の責任を押しつけ合い、道の使い方で揉めていた人々。
けれど今は、それぞれが自分の知識を使っている。
灰拾いは落ち葉棚の詰まりを見つける。
鍛冶職人は石と金具で小さな水留めを補強する。
運搬組は荷重を分散する丸太の置き方を知っている。
山番は根を踏まない道を示す。
泉守のユナは第六泉側の苔を守る。
誰か一人では作れない。
一つの組織でも作れない。
六泉拍動環は、六つの泉だけではなく、六つ以上の立場をつなぐ輪でもあった。
***
最初の拍動は、第一泉からだった。
調律核に小さな青い光が走る。
《第一泉:微増》
水は、尾根の下からゆっくりと上がってくる。
見える水ではない。
土の中を湿りとして進む水だ。
それが第一泉側の枝床へ届く。
粗い枝が泥を止め、落ち葉が水を抱え、菌糸橋が少しだけ明るくなる。
《第一受け皿:保持》
《母樹根系直接負荷:低》
「成功」
澪は小さく息を吐く。
次は第二泉。
灰を含む可能性がある水。
落ち葉棚がそれを受ける。
ナラがすぐに色を見る。
「少し灰がある。でも止まってる。落ち葉棚で捕まってる」
ミルカが頷く。
「交換記録つけて」
セラフィナが言う。
「記録済みです」
第三泉側。
鍛冶場の冷却水の帰り道とつながる湿り。
温度の残りがあるため、石を通し、風で冷ます。
ルシェリアが低い風を流す。
「熱は抜けています」
第四泉側。
浅い根が息を始める。
軽い枝の帯が水を抱え、土を押さえすぎず、空気も通す。
ライカがしゃがみ込む。
「ここ、土がふかっとした」
「踏まないでください」
セラフィナが即座に言う。
「踏んでない!」
第五泉側。
石肺亀の呼吸に合わせた湿り。
一気に吸わせないため、石と苔を交互に置いた受け皿が使われる。
地面の下から、ゆっくりとした息のような振動が返ってきた。
《第五受け皿:保持》
《石肺亀呼吸:安定》
第六泉側。
霧だけを受ける。
苔床から来る微細な湿り。
ユナが杖をつき、静かに祈るように見守っている。
フィリアが微笑む。
「第六泉は、急いでいません」
六つの拍動が、一巡した。
調律核が青く光る。
《六泉拍動環:一巡》
《母樹根系負荷:許容域》
《黒色菌糸過負荷:低下》
《霧背鹿同期率:78% → 69%》
「下がった!」
ライカが跳ねそうになって、途中で止まった。
「跳ばない。根がある」
「えらい」
「私、学んでる」
澪は少し笑った。
しかし、その笑みはすぐに消える。
二巡目が始まる前に、異常が出た。
第二泉側の落ち葉棚が、じわりと黒く変色したのだ。
ナラが叫ぶ。
「灰じゃない! 黒い菌糸が逆に上がってきてる!」
フィリアの顔が強張る。
「黒色菌糸が、第二泉側の負荷を肩代わりしようとしています」
「肩代わり?」
「灰を受けすぎた枝床を、自分で分解して処理しようとしています。でも早すぎます」
ミルカが舌打ちする。
「落ち葉棚が詰まる!」
調律核が赤く点滅する。
《第二受け皿:過負荷》
《黒色菌糸急増殖》
《拍動環バランス崩壊予測》
「やっぱり一回で安定しない!」
澪は叫んだ。
「第二泉側を止める?」
ライカが聞く。
「止めたら第二泉に戻る。灰がまた下へ行く」
「じゃあ?」
「第二泉の拍動だけ、短く、回数を増やす」
ミルカが理解する。
「一回の量を減らして、落ち葉棚を休ませる時間を作るんだ」
「そう!」
澪は調律核の拍動順を調整する。
第一、第二、第三、第四、第五、第六。
単純な順番では駄目だ。
第二泉だけ汚れを抱えている。
第五泉は石肺亀の呼吸が遅い。
第六泉は急がない。
第三泉は熱を抜く時間が必要。
「順番を変える」
澪は言った。
「第一、第四、第六、第二、第三、第二、第五、休み」
ライカが目を丸くする。
「急に難しい!」
「第二泉を二回に分ける。第五泉の前に休みを入れる。第三泉の後に第二の残りを受ける」
「譜面みたいですね」
ルシェリアが言う。
「六泉の譜面」
フィリアが静かに呟いた。
「水の楽譜です」
澪は頷いた。
「じゃあ、それでいこう」
六泉拍動環の二巡目は、単純な輪ではなくなった。
拍子をずらし、休符を入れ、弱い泉へ負荷を集めないようにする。
第一泉の泥。
第四泉の浅い根。
第六泉の霧。
第二泉の濁り。
第三泉の熱。
再び第二泉。
第五泉の深い呼吸。
そして、休み。
休みの間、霧背鹿が背負った霧をゆっくり落とす。
黒色菌糸が急いで母樹へ走らないよう、菌糸橋で待つ。
母樹根系は、一度に飲まず、少しずつ受け取る。
調律核の赤い表示が、少しずつ青へ変わっていく。
《第二受け皿:過負荷低下》
《黒色菌糸急増殖:抑制》
《母樹根系負荷:安定》
《霧背鹿同期率:69% → 58%》
霧背鹿の背から、霧が静かにほどけた。
白い霧は、雨にならず、尾根の受け皿へ薄く沈む。
切株の周囲に、強すぎない湿りが広がる。
雲見の母樹の根が、初めて無理をせずに水を飲んだ。
そんな気がした。
***
夕暮れが近づくころ、尾根の霧は落ち着き始めた。
霧背鹿は、切株のそばに立っている。
背中の霧はまだ残っているが、先ほどのように膨らんではいない。
目も、荒れていない。
フィリアがそっと近づき、少し離れた場所で頭を下げる。
霧背鹿も、ゆっくりと角を傾けた。
「ありがとう、と言っています」
ライカが小声で聞く。
「どっちが?」
「たぶん、両方です」
澪は切株を見る。
雲見の母樹。
幹はない。
枝もない。
葉もない。
けれど、その周囲には六つの小さな受け皿ができた。
それぞれ違う性質を持ち、違う速さで水を抱え、違う相手へ渡している。
昔の母樹のように、一つの巨大な木がすべてを受け止めるのではない。
今ある残存林、菌糸、苔、倒木、根、霧背鹿、人の管理。
それらを組み合わせて、母樹の代わりではなく、母樹が再び息をするための周囲を作る。
調律核が光った。
《六泉拍動環:仮安定》
《母樹根系負荷:安定域》
《黒色菌糸過負荷:低下》
《霧背鹿霧堰化:回避》
《斜面崩落リスク:低下》
《源流森林調律ルート:第九条件達成》
《条件名:六つの泉の拍子》
「達成」
ライカが嬉しそうに言った。
「一部じゃない!」
「本当だ」
澪は少し驚いた。
仮安定ではある。
しかし、条件は達成と表示されている。
完全な復旧ではない。
それでも、六泉の同期を暴走させず、拍子として扱うことには成功したのだ。
カイムは切株の前に立ち、長く息を吐いた。
「父が見たら、何と言うだろうな」
「怒るかもしれません」
澪は言った。
カイムが目を丸くする。
「なぜだ」
「ここまで放置する前にやれ、と」
カイムは一瞬黙り、それから苦笑した。
「言いそうだ」
「でも、たぶん最後には手伝ってくれると思います」
「それも、言いそうだ」
ユナが第六泉側の受け皿を見ながら呟く。
「隠して守るだけでは、足りなかったのですね」
ナラが落ち葉棚の灰を見て言う。
「拾って売るだけでも、足りなかった」
ガランは第三泉側の石と風の受け皿を見た。
「使うだけでも、足りなかった」
御者の一人が第四泉側の浮き枝帯を見て言う。
「通るだけでも、足りなかった」
それぞれが、それぞれの場所で同じことを理解し始めていた。
水は誰か一人のものではない。
泉も、道も、火も、灰も、森も。
使うなら、返す。
通るなら、見る。
隠すなら、共有する。
守るなら、記録する。
調律とは、きれいな言葉ではなく、その面倒な手順の積み重ねなのだ。
澪は、ほんの少しだけ空を見上げた。
夕暮れの空に、薄い雲が生まれていた。
前よりも低く、やわらかい雲。
霧背鹿が背負っていた霧の一部が、森の上で小さな雲になっている。
雨になるには、まだ早い。
けれど、雲はそこにあった。
「雨は、空だけで作られない」
澪は、第25話で口にした言葉を思い出した。
今なら、その意味がもう少し分かる。
雨は、泉と根と菌糸と苔と風と道と人の手順からも作られる。
その時。
切株の割れ目から、小さな音がした。
ぱき。
乾いた木が割れる音。
全員が振り向く。
雲見の母樹の切株。
その割れ目の奥で、淡い緑の光が瞬いた。
「芽……?」
フィリアが息を呑む。
切株の内側から、小さな芽が顔を出していた。
ほんの指先ほどの、小さな緑。
だが、それは確かに生きていた。
調律核が青く輝く。
《雲見の母樹根系:再芽反応》
《新芽形成:確認》
《母樹再生可能性:発生》
一瞬、尾根に歓声が上がりかけた。
けれど、その直後。
調律核が赤へ変わった。
《警告》
《母樹新芽:極めて脆弱》
《現在の霧背鹿同期率:再上昇傾向》
《周辺草食圧:高》
《斜面保護植生:不足》
《新芽損傷時、母樹根系反応停止の可能性》
ライカが固まる。
「……芽が出たけど、食べられる?」
ミルカが険しい顔で頷く。
「山羊でも鹿でも小動物でも、柔らかい芽は食べる」
カイムが周囲を見る。
「この尾根は、まだ守れる林ではない」
ユナが震える声で言う。
「母樹が、戻ろうとしているのに」
澪は小さな芽を見つめた。
水は戻った。
霧は落ち着いた。
六泉は拍子を得た。
そして母樹は、芽を出した。
けれど、芽が出たから終わりではない。
芽は弱い。
あまりにも弱い。
守るには、木だけでは足りない。
周囲の草。
低木。
棘のある枝。
倒木の柵。
苔床。
菌糸。
人の見張り。
霧背鹿との距離。
全部がいる。
調律核に、次の条件が浮かぶ。
《源流森林調律ルート:最終条件発生》
《条件名:最初の若木を、森にする》
《制限時間:翌朝まで》
《夜間草食獣接近予測:高》
遠くで、草を踏む音がした。
一つではない。
複数。
夜の尾根に、何かが近づいている。
霧背鹿が低く鳴いた。
今度の声は、守れという警告だった。
澪は、指先ほどの新芽を見つめながら、静かに息を吸った。
六つの泉は、拍子を取り戻した。
次は、その拍子から生まれた最初の命を守らなければならない。
「今夜は、ここを守る」
澪は言った。
「母樹の芽を、一本の芽で終わらせないために」
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第35話では、六つの泉が同時に動き出したことで生まれる危険を扱いました。
第一泉、第二泉、第三泉、第四泉、第五泉、第六泉。
それぞれに応急処置が入り、六泉は互いに反応し始めました。
しかし、六つの泉が同時に雲見の母樹へ流れ込めば、それは回復ではなく災害になります。
現在の母樹は、かつてのような巨大な幹も枝も葉も持っていません。
根系も弱り、周囲の森林保持力も不足しています。
そこへ水、霧、菌糸、根の反応が一斉に集まれば、斜面崩落、黒色菌糸過負荷、霧背鹿の暴走が起きる可能性がありました。
今回、澪たちは六つの泉を単純につなげるのではなく、《六泉拍動環》として扱いました。
六つの泉を同時に流さない。
泉ごとの性質に合わせて、受け皿を変える。
第一泉は泥を受ける枝床。
第二泉は灰を捕まえる交換式の落ち葉棚。
第三泉は熱を逃がす石と風の道。
第四泉は浅い根を潰さない軽い枝帯。
第五泉は石肺亀の呼吸に合わせた石と苔の受け皿。
第六泉は霧だけを受ける苔床。
そして、単純な一巡ではなく、水の拍子を調整しました。
強い泉、弱い泉、汚れを抱えた泉、呼吸が遅い泉。
それぞれを同じ扱いにするのではなく、流す順番、量、休みを変える。
その結果、母樹根系への負荷は安定し、黒色菌糸の過負荷も下がり、霧背鹿の霧堰化も回避されました。
今回のテーマは、「つながること自体が正解ではない」です。
つながればよい。
流せばよい。
戻せばよい。
そう単純にはいきません。
受け皿がない場所へ一気に戻せば、水は災害になります。
だからこそ、つなぐだけでなく、順番を作る。
流れに拍子を作る。
休ませる時間を作る。
それが今回の調律でした。
また、今回の作業には、村人、山番、泉守、灰拾い、鍛冶職人、運搬組、そして霧背鹿までが関わりました。
泉を守るには、自然だけでも、人間だけでも足りません。
使う人。
運ぶ人。
捨てていた人。
隠していた人。
守っていた人。
それぞれが自分の役割と責任を見直して初めて、六泉拍動環は成立しました。
そして最後に、《雲見の母樹》の切株から小さな新芽が出ました。
これは大きな希望です。
しかし、同時に新たな危機でもあります。
新芽はとても脆く、草食獣、踏圧、乾燥、過湿、菌糸の過負荷など、さまざまなものに傷つけられる可能性があります。
芽が出たから森が戻るわけではありません。
その芽を、森にしていかなければならないのです。
次回は、夜の尾根で、母樹の新芽を守る回になります。
守るとは、ただ柵で囲うことではありません。
一本の芽を、孤立した芽で終わらせず、周囲の草、低木、倒木、苔、菌糸、人の見張りとつないでいくこと。
源流森林編の大きな節目へ向かいます。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




