139 サリンの恐怖
なぜ、これまでその類似性に気づかなかったのだろう。
俺がポメラニアンに転生した1989年。その時に起こったことは、人間だった頃とまったく同じように時代が進んでいると、根拠もなく信じ込んでいた。
だけど、違うのだ。パラレルワールドと呼ばれる並行世界なのか、それとも勇者や魔王がいる、まったく他の世界なのか、それはわからないし、調べようもない。
だから、俺が人間として暮らしていた時に起こった「地下鉄サリン事件」を引き起こした宗教団体と、俺たちが対立し、公安警察が調査をしている「真王教」との類似性に気づかなかった。
考えてみれば、ヒントはたくさんあった。
宗祖と呼ばれるひげ面の教祖。白づくめの信者。総選挙への出馬と全員落選。
その後、あの宗教団体は何をしていたのか、俺は記憶を探る。
あの時の教団は徐々に暴走を始め、教団内でリンチを行い、教団を批判した弁護士一家を殺め、長野県某市でサリンを撒き、そののち世界最大規模となるテロ事件を東京の中心部で引き起こしたのだ。
あの宗教団体と、真王教は酷似している。違うのは『魔王』が絡んでいるということだ。
だけど、危険な団体に違いない。
俺の記憶によると、確か「地下鉄サリン事件」は1995年。今は1990年だ。まだ、教団のテロ事件を阻止する時間はあるのだろうか。
それに『魔王』はどう絡んでくるのだろうか。
俺と同じ転生者である魔王、いやプーは、サリンのことを知っているのだろうか。
「パパさん、ウシダ師匠。みんなも聞いてくれ。実は……」
俺は自分の知る限りのこと、俺が転生する前の人生で見た悲劇をすべてみんなに話した。
だけどこの時、すでにひとつの事件が終わってしまっていたんだ。
民家の黒電話が鳴り、相田さんが電話を取る。話を聞きながら、彼女の顔が青ざめていくのが傍目から見てもわかった。
「……わかりました。班長に伝えます」
「相田くん。どうした?」
「班長、実は……皆さんに伝えて良いものかわかりませんが……」
「構わない。伝えてくれ」
「長野で、毒ガス事件が起こりました。死亡者は現時点で5名、負傷者は500人を越えます」
……遅かった。いや、違う。早すぎる。
これは俺の前世だと、1994年に発生するはずの「松本サリン事件」だ。
なのに今は1990年だ。俺の知っている年代と、4年もずれているのだ。
一体、なぜなんだ……?
「相田くん、それで本部長の指示は?」
「今のプランを変更し、至急班長には現場に向かって欲しいとのことです」
「なんと! では『破魔の剣』は?」
「……ウシダ師匠。いずれにしても球磨嵐が見張っていては、奴から剣を奪うのは困難です。一旦出直した方がよろしいかと」
澱みなく話す佐藤パパさんに一瞬怒りの表情らしきものを浮かべたウシダ師匠。だが、佐藤パパさんの震える握り拳を見て、ウシダ師匠は深く息を吐き出した。
「……そうじゃな。ワシらも体制を立て直そう。いいな、モフ?」
「……はい」
せっかくその在処が判明した『破魔の剣』だが、それを手に入れるのは俺やくーちゃんだけでは難しい。以前戦った時に、圧倒されて敗北しているからだ。あの時だって、パパさんが麻酔銃を持って駆けつけてくれなかったら、いま俺はここにはいないだろう。
俺たちは相田さんが運転するハイエースに乗り込み、一路東京へと戻った。そしてパパさんは途中で急遽レンタカーを借り、サリンが撒かれた事件現場へと一人向かった。
◇◇◇
東京に戻ると、俺は同行していたアフロディーテに「私の家に来るように」との命令を受けた。なぜ? と思ったが、この犬に歯向かうといろいろ面倒だし、俺もポメラニアンの姿に戻るまでは家に帰れなかったので、同行することにした。
家に着くなり、アフロディーテは「部屋にお入りなさい」と言う。ちょっと、大型犬の俺が勝手に入っていいの? と思ったが、どうやら飼い主は不在のようだ。
アフロディーテの飼われている家のリビングは、驚いたことに彼女専用のソファーがあった。なぜわかったかというと、金色のプレートで「Aphrodite」と書いてあったのだ。なんだか飼い主にも大事にされているみたいだな、このお姫様。
「二の家来。そこで楽にしなさい」
「はい……」
ははーっ! とか土下座しようかとも一瞬思ったが、巫山戯る気分でもない。
俺が殊勝に座ると、アフロディーテは爺やに「お茶を持ってくるように」と言いつけるなり、俺のすぐ近くに座った。ちょ、近いって距離。
「一の家来である賢者ソースが亡くなり、ウシダが暫定リーダーとなったのだけどね。実は私が動物軍の新しい総帥となりました」
「え? どういうことですか」
小声で囁いてくるアフロディーテ。内容も突然だが、なぜに小声なんだろう?
「このことは、私とウシダしか知りません。しかもこのことを、魔王軍に知られるのを恐れています」
「なぜアフロディーテ様が総帥となるのを秘密に……」
「しっ!」
見ると、コウモリの爺やさんがパタパタとお茶を持って飛んでくる。もちろんお茶は近辺の動物の間で流行っている「お〜いお茶」の缶だ。ご丁寧にプルタブは外してある。
爺やさんはお茶を置くと、さらに水飲み器を二つ運んできて、それぞれに器用にお茶を入れてくれた。
一礼して部屋を出ていく爺やさんを目で追っていたアフロディーテが、やっと話を続けた。
「私の考えに間違いがなければ、我が軍にスパイが紛れ込んでくる可能性が高いです」
「スパイ? もしかして、爺やさんが?」
「いえ、まだわかりません。だからこそ、私とモフ、ウシダだけの内密な話に止めておきたいのです」
「……わかりました。でも、なぜアフロディーテ様が総帥になるのですか?」
「ウシダには、わざと我が軍の偽情報を魔王軍に流してもらうためです。ですが実際には、私が本当の動きを決定します。ウシダが流した情報を聞いていた者、それによって動きを見せた者、それによってスパイをまず炙り出します」
「なるほど、かしこまりました」
俺は小声で答えた。だけど、まだ納得いっていないこともある。
「なぜスパイをそれほどまで警戒されるのですか?」
アフロディーテは俺の目をじっくりと見つめ、短く言った。
「魔王との最終決戦が近いからです」
「えっ?」
「あなたの前世である、今の時代の未来の記憶。あなたの知る宗教団体と、真王教。その二つが類似する事件と、事件が起こる時期。それらをすべて勘案すると、最終決戦が近いと私は確信しているのです」
「ちょ、ちょっと待ってください。ちょっと理解が追いつかないのですが。なぜそんなことがわかるのですか」
確かに俺は、前世で大事件を起こした宗教団体の話をみんなに話した。そして実際に、類似する事件が発生してしまった。だけどそれと「魔王との最終決戦」との関連が俺には理解できない。
すると彼女は、静かに語り出した。
「この状況は、私の息子だった竹千代、後の三代将軍家光の時代と酷似しているためです」
「はぁ?」
思わず変な声が出てしまった。
私の息子が、三代将軍? ということはアンタ……かの有名な『お江の方』ってことかい?
俺は目の前の美しいシェットランド・シープドッグを見つめ直した。




