3
大広間から庭園に出ると、四季咲きの薔薇や国花の椿の木々が連なっていた。
アリシアは夜空に浮かぶ月を見上げた。今夜は満月。あと二時間ほどで真南に到達するだろう。
庭園の一番東端まで歩いていくと、東方との貿易で輸入した紫陽花が、今を盛りと咲き誇っていた。
東方からだから東端、と適当なことを言ったのは父王だったか。
十年ほど前、アリシアが生まれた頃に渡来し、この三年ほどでようやく安定して咲くようになった。
アリシアは紫陽花を背に座り込んだ。この一帯は低木を集めて作られた迷路の様な造りで、小柄なアリシアなら座ってしまえば簡単に見つかることはない。今いるのも、行き止まりの一角だ。
空を見上げると、月光が淡く輝いている。現実感を侵食する美しい光は、今のアリシアにとっては心地良かった。
ハァ。と溜息が漏れる。
別に、アリシアも美しいドレスや装身具が嫌いなわけではない。
ただ、生まれ持った地位と環境が、それらを楽しみではなく義務に変えてしまった。今現在置かれているアリシアの立場上、楽しめるような精神的余裕もない。
両親に十分な愛情を注がれなかった分、姉と兄たちには目一杯可愛がってもらったと思う。それは理解しているし、感謝してもいる。けれど、四人にはそれぞれの務めや勉強があり、いつでも一緒にいるというわけにはいかなかった。
一人の時、アリシアはお喋り好きな侍女たちの噂話を何度も聞いてしまった。
――陛下がまた愛人を作ったって?
――今度は女優だそうよ。よくやるわよねぇ。
――アリシア様が生まれた時もお忍びの旅行に行ってたんでしょう?
――そのくせ姫様が愛らしいって評判になって見合い話が来たら政略結婚に使えるって? 勝手よねぇ。
――ほんと。結婚した頃は侯爵家の小娘とか文句たらたらだったくせに、キャサリン様がエイレストの王子と婚約してアリシア様も大国に嫁がせることが出来そうだからって、急に掌を返して。
――王妃様が耐えかねて離宮に移るのも無理ないわ。
王宮で働く侍女たちの多くは貴族令嬢や裕福な平民で、将来の結婚相手をを探している者がほとんどだ。職務態度はともかく、その姿勢をどうこう言うつもりはない。アリシアの婚姻が国益に関わる様に、彼女たちも生活がかかっている。どれだけいい男(経済力のある相手)を捕まえられるかが一生を左右すると言っても過言ではない(当人は手に職があるわけでもないため潰しがきかず、婚期を逃せば家から放逐される)。ただ、噂話に興じていたのがアリシアの私室の周辺で、それを偶然とはいえ聞いてしまった運の悪さ故に、アリシアは自分が両親に欠片も愛されていないどころか、関心すら持たれていないことを知ってしまった。
それまでも、両親から大事にされた記憶はない。国王と王妃という立場上、王宮を空けることも多く、顔を合わせることも稀だった。けれど、アリシアは心のどこかで期待していたのだ。
王女としての教養、外交のために数ヵ国語と、物心ついた頃から詰め込まれてきた教育で優秀な成績を残せば、いつかは振り向いてくれる、一言であっても褒めてくれると、願っていた。
それが粉微塵に打ち砕かれたあの日から、アリシアは王族としての務めを果たしながら、心の中に空いた穴を見ない振りをして過ごしてきた。
けれど、時折その虚無が顔を覗かせる。
今夜の招待客を思い出す。
皆、口を開けば結婚の話。気の早い者は子どもの名前まで考え出した。相手が誰かも決まっていないのに、アリシアが結婚することだけは決まっている。
もう、うんざりだ。
どうして結婚なんて考えなければならないのだろう。
どうして皆、早くさせたがるのだろう。
どうして私は女に生まれてしまったんだろう。
どうして女は子どもを産むのだろう。
どうして私は王女なのだろう。
どうして誰も、私がどうしたいかは聞いてくれないのだろう。
明るく笑いながら、ずっとそんなことを考えて。上辺だけの言葉に傷ついて。
「ふ、う……あぁぁぁぁぁぁぁ……」
堪えきれなかった嗚咽がもれる。血が出るのも構わず指を噛み締め、震える体を抱き締める。
もう、戻れない。もう、決して誕生日がただ楽しかった頃には戻れない。
もう、大人の仲間入りをしてしまった。
もう、自分だけの自分ではいられなくなってしまった。
もう、政治の道具である王女に、本当の意味でなってしまった。
もう、ただのアリシアではいられない。
ポタポタと、手の甲に落ちる涙を拭うことも忘れていたアリシアは、不意に、サク、と草を踏む足音に顔を上げた。
月光が遮られて、影が落ちる。自分に向かって伸びてくる手に、思わず後じさった。
「ヒッ……嫌っ……」
「大丈夫だ、私だ」
逆光で顔は見えないが、落ち着いたバリトンで分かった。
「え……セドリック様……?」
「そうだ。驚かせて悪かったな」
姉の婚約者はそう言って苦笑し、目の前に膝をついた。
「もっと泣くといい」
そう言って、アリシアの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「わっ、わたくしは泣き止みたいんですっ。そんなこと、仰らないで下さいっ……」
嗚咽混じりにつかえながら言い募る。
「泣いていい」
「どうしてっ……」
「宴では気持ち悪い子どもだと思った。まるで誰よりも大人らしく振る舞っていたから。今、こうして泣いていて安心した。あんな誕生会最悪だ、泣きたくもなる」
アリシアは呆然と冬国の若き国王を見上げた。泣いているのはアリシアなのに、まるで彼の方が泣いているかの様な表情。
「……セドリック様も、悲しいのですか……?」
無意識にそう言うと、目の前にある端正な顔がくしゃりと歪んだ。
「……ああ。私も今、泣きたいくらい悲しいんだ。でも、私の涙は涸れてしまってね。だから、私の分まで泣いてくれないか……?」
泣いている、とアリシアは思った。この人は泣いている。
「……お召し物が、濡れてしまってもいいですか……?」
胸を貸してほしいと言ったアリシアを、セドリックは自分の方に引き寄せた。
「う、ぁ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………………!」
抱き締める腕の力強さと胸の温かさに、アリシアは、誰にも見せたことのなかった波を流した。
「泣けるうちに泣いておけ。泣けなくなった時、それを後悔する」
小刻みに震える体を抱き締め、背中を擦りながら、セドリックは誰にも聞こえないように囁いた。
「……少しはすっきりしたか?」
程なくして落ち着いたアリシアに、セドリックは訊ねた。
「はい。……取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」
恐縮したまま、アリシアは素直に頷き、頭を垂れて謝罪した。
「ならいい。……一緒に戻るか?」
「いえ、それは……」
自然に口にしてしまったらしい言葉に、アリシアは僅かに赤くなった瞳を大きく見開いた。その様子に、セドリックはしまった、と気づいた。
「すまない、今のはなしだ。一人で戻れるか?」
婚約者のいる男性と、その妹であるアリシアが醜聞を立てるわけにはいかない。たとえ二人の間に何もなかったとしても、周囲の者はそう思わない。しかもこの場合、傷つくのは女性であるアリシアなのだ。
即効で前言撤回したセドリックの口ぶりに、アリシアは初めて自然な微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、セドリック様。……本当に」
告げた謝意に、自分の気持ちが正しく伝わったことを知り、セドリックも笑みを返した。アリシアは与り知らぬことだが、彼が肉親以外の異性に他意のない笑みを浮かべたのは、この数年で初めてことだった。
この対面が、後の多くの出来事の発端となるのだが、今はまだ誰も知らないことである。
✻ ✻ ✻
気をつけて戻りなさい、と言ったセドリックと別れ、アリシアはさてどうしよう、と周囲を見渡した。
早く戻ろうとは思う。主賓が長時間姿を消していては、宴を開催しているアーシェスタの顔に泥を塗ってしまう。アリシアはまだ十歳だが、その程度は理解している。
それでも、何故かあの喧噪の中に戻る気になれず、アリシアは辺りをそぞろ歩いていた。
懐中時計を見る。大広間から出てきて約一時間。疲れきった心で見上げた月光は、冴え冴えとした冷たさではなく、包みこむ様な温かさを感じさせる。
不思議なものだ、と思う。見上げる時の心境で、こんなにも受ける印象が異なる。
アリシアを取り囲む環境はこれからも何も変わらない。けれど、その先に自分の意思で築ける未来があると思えるだけで、前に進む力を得ることが出来る。
知らず知らずのうちにフワリと微笑していたアリシアは、ふと立ち止まった。戻ろうという気になれたのいいが、適当に歩いていたせいで自分が今どこにいるのか把握出来なくなっていた。
えーと、と周囲を見渡し、外壁に覚えのある傷が見えたことで、庭園の角にいることが分かった。これならあの角を曲がれば戻れるだろう。
ほっとして足を踏み出そうとしたアリシアは、そこで視界の先で動く影を見つけた。
(え……人? こんな時間に誰が……)
さっと茂みに隠れたアリシアは、先ほどの影に続いて次々と人影が現れたのを確かめ、心臓が嫌な音を立てたのを感じた。
(侵入者? でもどうやって……。待って、ここは東端……ということは、あの壁……)
東側の外壁は老朽化していて、一部が崩れている。その結果、人が一人通ることの出来る穴が空いている。兄たちは幼い頃にそこからこっそり抜け出して城下で遊んだと、懐かしそうに話していた。
アリシアがそんなことを思い出していると、侵入してきた者たちはガヤガヤと話し始めていた。
「おい、早くしろ」
「分かってる、それより……」
「大丈夫だ。宮殿の奴らの目は大広間に釘付けだ」
数人の男たちが集まって壁を崩し、更に穴を拡げている。
(これは、何……? 庭園で何をしているの……?)
アリシアが声を出せずに硬くなっていると、さく、と草を踏む音とともに新たな人影が現れた。
「お待たせ、やっと出てこられたわ」
「遅かったな。心配したぞ」
アリシアはその声に目を瞠った。
(この、声……お姉様と、誰……!? どうして、お姉様があの様な人たちと……)
「……何を、なさっているんですか、お姉様……?」
小さな、小さな声だったが、それはキャサリンたちに届いてしまった。
バッと振り向かれ、アリシアは喉の奥がヒュッと鳴るのを感じた。
「このガキッ……おい、見られた。始末するぞ!」
一番後ろにいた大柄な男が、腰に佩いていた剣を抜いてアリシアの方へ歩いてくる。
「待って!」
それを見たキャサリンが慌ててその男の腕を掴んだ。
「ヴァジール、いいから」
「いや、でも……」
「いいの。その子は私の妹よ」
「なっ……妹って、アリシア王女? 何で王女がこんな所に……」
目の前にいるのが大広間で行われている夜会の主役だと知り、ヴァジールと呼ばれた男は困惑した顔をしている。
「ごっ、ごめんなさい。私……」
口元を抑えた両手から声が零れる。
「分かっているわ。夜会の途中で抜け出してきたんでしょう?」
いつもと同じ、優しい笑顔と穏やかな声音。それが却って怖ろしい。
仮にも王女が、こんな粗暴な雰囲気を纏った輩と共にいるという、普通では考えられない状況で、何故こんな表情が出来るのか。
アリシアは目の前にいるキャサリンが、自分のよく知る姉ではなく、何か得体の知れない、化け物の様に見えた。
ふら、と後ずさっていたのを、離れた分だけキャサリンが近寄ってから気づいた。
「……お姉様、どうして……何をなさろうとしていたんですか……?」
「あら? 見ていたのだから分かっているのではなくて?」
こてん、と首を傾げる仕草は容姿と相まってお人形の様に可愛らしい。
「そうではなく、何故……」
「ああ、どうしてこんなことをしているか訊きたかったのね?」
わざとらしくポン、と手を合わせて、それならそうと言えばいいのに、という雰囲気を出すキャサリンを、アリシアはキッと睨みつけた。
「私ね、今夜ロッドと一緒にお城を出て行くの。約束通り幸せになるんだから、アリシアも祝福して?」
ふんわりと微笑むキャサリンは、嬉しそうな笑顔に一筋の不安が落ちている。だが、混乱で頭が上手く回らないアリシアは、その表情に気づかなかった。
「こんなの……こんなのおかしいです。お姉様にはセドリック様がいるのに……」
「うん、セディのことは嫌いじゃないわ。でも、恋愛の好きじゃない。ロッドのことは、恋愛の好きだから一緒に行くの」
「そんなバカげた理由で王族の務めを放棄するのですか!? 私に王女としの義務を教えて下さったのはお姉様ではありませんか!」
「じゃあ私たちの思いはどうなるの? 王族だって一人の人間。意思を持たないお人形じゃないのよ?」
「私たち王族の婚姻は責務そのものです。国家の安泰のために良縁を選ぶのであって、一個人の感情を優先するなど言語道断でしょう! 無論、王族だからといって個人の幸福を放棄しろとは言いませんが、公人としての責務を果たした上での話です! 世継ぎさえ産めばあとは仮面夫婦でもいいでわありませんか」
実際、王族だけでなく貴族にも、世継ぎあるいは跡継ぎともしもの時のスペアを産んだらあとは自由にする、という夫婦は多い。子どもの教育は使用人に任せ、伴侶とは別に恋人を作っている、というのはよく聞く話だ。己の意思とは無関係の婚姻だからこそ、そうして公人と私人を使い分けるのだ。
アリシアの言葉に、キャサリンはハァ、と溜息をついた。
「どうやら、いくら話しても分かり合うことは出来ないみたいね」
「そうですね、お姉様がこんなに身勝手な方だとは知りませんでしたわ」
吐き捨て、アリシアはクルリと回って反対方向に走った。出来るだけ宮殿に近づいて叫べば、誰かが気づいてくれる可能性はある。
「誰か、賊がいます! 誰か来て! 誰か、うっ――……」
首筋を強打され、アリシアは前のめりに倒れた。
「このガキッ、よくも!」「妹だからと大人しくしてりゃつけ上がりやがって!」「おい、早く脱出するぞ!」「その前にこいつを始末しねぇと……」
視界が霞む。ヴァジールと呼ばれていた男を筆頭にいくつも声がするが、何を言っているの判別出来ない。
「アリシア」
その声にハッとしたアリシアは、ズキズキと痛む頭を持ち上げた。
「駄目よ、しばらく眠っていなさい。勝手で悪いけど、今貴女が広間に戻ると困るの。ああでも、やっぱり貴女は王族なのねぇ。……憎らしいほどに」
最後の一言には、微かに羨望と、そして憎悪が混じっていた。
「アリシア、目が覚めたら、私の部屋の引き出しを見てみてね。貴女は驚くでしょうけど、伝えたかったことは全てそこにあるから」
祈る様に言葉を紡ぐ。妹に会えるのは、きっとこれが最後だから。
「キャシー、そろそろ……」
恋人に促されて、キャサリンは頷いた。アリシアの叫び声は小さくなかった。長居は危険だ。
「アリシア、ごめんね。……幸せに、なってね」
さらりと頬に触れて、キャサリンは立ち上がる。
「はっ……待って、下さい。……お姉様っ……」
すぐ側で人が動く気配を感じて、アリシアは落ちそうになっていた瞼を必死に持ち上げた。
霞んでいく意識を必死に繋ぎ止め、去っていく姉を追う様に手を伸ばす。
「……お姉様。駄目、お姉様には、セドリック様が……」
あんなに寂しそうに笑った人。それでも己の責務から逃げることなく、たった一人で頂点に立ち続けている。キャサリンはその隣に、王妃として並ぶはずなのに。
意識が途切れる寸前に思ったのは、姉の婚約者のことだった。




