第三話:美術室の匂いと、それぞれの距離感
昼休みの喧騒が収まり、午後の退屈な現代文の授業をどうにかやり過ごした放課後。俺は約束通り、美術室の重たいドアを軽くノックして中に滑り込んだ。
室内に立ち込める油絵の具とテレピン油の匂いが、不思議と心を落ち着かせてくれる。
「よっ、葵。今日も熱心だな」
「ちょっと、勝手に開けないでよ。今、絵の具のグラデーションが一番大事なところなんだから、気が散るでしょ」
葵は不機嫌そうに小さな眉をひそめつつも、手は少しも止めずにキャンバスに向かっていた。
その視線の先にあるのは、やっぱり中庭の向こう――音楽室の窓辺だった。あそこに立つ誰かの姿を捉えようと、彼女の目は真剣そのものだった。
「なあ、葵」
「なに? 集中してるんだけど」
「お前さ、そのキャンバス、ずっと奏多の音色を描いてるだろ。そんなに好きなら、直接差し入れでも持って行ってやれよ。メロンパンとかさ、あいつ甘いもの好きだぜ」
葵の手が、パシッとぴたりと止まった。パレットからポトリと赤い絵の具が床に落ちる。
「……なんで、それを……知ってるのよ」
「わかるさ、お前らのことだもん。お前が奏多を見る目も、あいつが音楽室の窓からお前のいる美術室を気にしてるのも、同じくらい分かりやすいんだからさ」
葵の顔が、リンゴのようにみるみるうちに真っ赤に染まっていく。彼女は慌てて近くにあった筆を手に取り、俺の肩を軽く叩いた。
「ば、馬鹿なこと言わないでよ! 私なんかが見てたって、あいつは音楽のことで頭がいっぱいなんだから……私なんか眼中にないわよ!」
「そんなことないって。あいつもお前の描く絵、すごく気にしてるぜ」
葵は驚いたように丸い目をさらに見開き、それから少しだけ切なそうに、けれど嬉しそうに目を伏せた。
その横顔を見ていると、胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘くて苦しい痛みが走る。
残された時間はあまりない。だからこそ、このもどかしい距離感を、俺が強引にでも引き剥がして、つなげてやりたかった。




