↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元禄美装録  作者: 月島 桃


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

69/70

第4章 第67話 探せない過去

――徳川邸


美和子は、花鋏を置いた。

その日の午後、客間には穏やかな陽が差し込み、花器に生けた白い桔梗の影が畳の上へ落ちていた。

家元である父のもとに生まれ、幼い頃から花と向き合ってきた美和子にとって、花を生けることは、ごく自然な日常の一部だった。


次の一枝へ手を伸ばしかけた時、つけたままにしていたテレビから、ある名前が聞こえてきた。

『それでは、本日のゲストをご紹介しましょう。ピンク色のノンアルコールビール「時花」のCMで人気急上昇中のお二人です。織原紗江さん、そして徳川葵さんです!』

美和子の手が止まった。


ゆっくりとテレビへ顔を向ける。

画面の下に、二人の名前が映し出されていた。

『織原紗江』

『徳川 葵』


「……葵?」

美和子の唇から、掠れた声が漏れた。


画面には、若い男女が並んで座っている。

女性は少し緊張しているのか、膝の上で両手を重ねていた。その隣では、青年が背筋を伸ばし、落ち着いた様子で司会者を見つめている。


美和子は立ち上がり、テレビへ近づいた。

徳川という姓だけなら、偶然かもしれない。葵という名前も、この青年だけのものではない。

けれど――。


「そんな……」

美和子は口元を覆った。

青年の面差しは、若い頃の宗一郎にあまりにもよく似ていた。

真っ直ぐな眉。

意志の強さを宿した瞳。

僅かに顎を引き、相手の話へ耳を傾ける姿。


あの子が、父親に似て育っていたなら。

今頃は、こんな青年になっていたのだろうか。


三歳で突然、姿を消した葵。十七年もの間、宗一郎とともに捜し続けてきた。

僅かな情報が入るたびに期待し、何度も失望を味わった。


それでも、諦めたことは一度もない。

片時も、忘れたことはなかった。


テレビの中で、司会者が紗江へ質問を投げかけた。

紗江が返答に困って葵を見ると、葵は彼女を安心させるように小さく頷いた。

その眼差しに、美和子の胸が締めつけられる。


何も覚えていなくても構わない。

自分を母と呼んでくれなくてもよい。

ただ、生きていてくれたなら――。


美和子はテーブルへ駆け寄り、スマートフォンを手に取った。震える指で宗一郎へ電話をかける。

数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた低い声がした。


『どうした、美和子』

「あなた、テレビを見られる?」

『テレビ?』

「お願い。今すぐつけて。今、放送しているトーク番組よ」


美和子の声からただならぬものを感じ取ったのだろう。宗一郎は理由を尋ねず、傍らにいる者へ指示を出した。

やがて、電話の向こうからテレビの音声が聞こえてくる。


『……この二人か』

「男の人の名前を見て」

画面が葵へ切り替わった。

その下には、『葵』と表示されている。


『葵……』

「最初の紹介では、徳川葵と出ていたの」


電話の向こうで、宗一郎が息を呑む。

『徳川……葵』


「似ているでしょう?」

美和子の目から涙が零れた。

「あの人、あなたの若い頃に、とてもよく似ている」


しばらく、宗一郎は何も答えなかった。

電話の向こうでは、同じ番組の音声だけが流れていた。

やがて、押し殺したような声が返ってきた。


『ああ』

その一言を聞いた瞬間、美和子の中で、かろうじて保たれていた冷静さが崩れた。


「私、テレビ局へ行ってくるわ」

美和子は鞄を掴んだ。

『待ちなさい、美和子』

「待てないわ。もし、あの人が葵だったら……」

玄関へ向かいかけた足が震える。

「また、いなくなってしまうかもしれない」


『テレビ局へ行っても、関係者でもない者が中へ入れるはずがない』

「それなら、番組が終わるまで待つわ」

『何も確かめないまま押しかけて、何と声をかけるつもりだ』

美和子は答えられなかった。


『名前が同じで、私に似ている。それだけで、私たちが突然、両親だと名乗るわけにはいかない』

「でも……」

『もし本当に葵なら、なおさら慎重にしなければならない』

宗一郎が静かに言い聞かせる。

『あの青年にも、今まで生きてきた暮らしがある。何も知らない私たちが突然現れれば、混乱させるだけだ』


美和子は、鞄を胸に抱いた。

会いたい。

画面の中の青年を、この手で抱きしめたい。

三歳のあの日から、ただの一度も忘れたことはないと伝えたい。


それでも、宗一郎の言うことは分かっていた。

「……では、どうするの?」

『私に任せてくれ』

短い言葉だった。

しかし、そこには十七年間、息子を捜し続けてきた父親の決意が込められていた。

『必ず、あの青年が何者なのか確かめる』


「お願い、あなた」

美和子は、もう一度テレビへ目を向けた。

「葵を……見つけて」


電話を切ったあとも、美和子は画面の前から動けなかった。

番組が終わり、別の映像へ切り替わっても、葵が座っていた場所をいつまでも見つめ続けていた。


宗一郎は、すぐに園部恭介を呼んだ。

園部は、徳川家と長年にわたり付き合いのある敏腕弁護士だった。

四十二歳だが、実年齢よりも若く、三十代前半に見える。

長身で無駄のない体つきをしており、短く整えた黒髪と、細い銀縁の眼鏡の奥に冷静な目を持っている。


園部家は、何百年もの間、徳川家に仕えてきた家柄でもあった。

宗一郎が最も信頼する人物の一人であり、徳川家に関する事情であれば、決して外へ漏らすことはない。


宗一郎は、録画した番組を園部に見せた。

「この青年について調べてほしい」

画面の中の葵を見た園部が、僅かに目を細める。

「徳川葵……」


「顔を見て、どう思う」

園部はすぐには答えなかった。

映像を止め、葵の顔をじっと見つめる。

「宗一郎様のお若い頃によく似ておられます」

「私もそう思う」

宗一郎は机の上で両手を組んだ。


「どこで生まれ、どんな家族のもとで育ったのか。これまでどこで暮らしていたのか。分かることは、すべて調べてくれ」

「承知しました」


「ただし、本人には接触するな」

園部が宗一郎へ視線を戻す。

「よろしいのですか」

「もし本当に葵だとしても、今のあの青年には、あの青年の生活がある」

宗一郎は、画面に映る紗江を見た。

「こちらの都合だけで近づくことはできない。まずは事実を確かめたい」

「かしこまりました」

園部は静かに頭を下げた。


だが、調査は難航した。

高瀬プロモーションに所属してからの葵については、すぐに分かった。

『時花』のCMに紗江と出演し、それをきっかけに雑誌や広告の仕事が相次いでいる。


しかし、それ以前の足取りが何一つ見つからない。

学校へ通っていた記録もなければ、過去に働いていた形跡もない。

どこで生まれ、どこで育ったのかさえ分からなかった。

調べれば調べるほど、奇妙な空白だけが広がっていく。


まるで、つい最近になって、突然この世に現れたかのようだった。


さらに、高瀬プロモーションの守りは予想以上に固かった。

葵の経歴に関する問い合わせには一切答えず、本人への直接取材も許可しない。出演依頼も面会の申し込みも、すべて事務所を通すよう徹底されている。

関係者をたどっても、誰一人として葵の過去を知らなかった。


数日後、園部は宗一郎のもとを訪れ、薄い調査資料を差し出した。

「これだけか」

「申し訳ありません」

宗一郎は資料をめくった。


「何もない、とはどういうことだ?」

宗一郎の問いに、園部恭介は静かに答えた。

「言葉のとおりです。徳川葵と名乗る青年には、過去を示す記録が何一つありません」


「偽名ということか?」

「その可能性も調べました。しかし、別の名前につながる手掛かりも見つかりません」

園部は机上の資料へ視線を落とした。

「出生地、学歴、以前の住所。経歴を偽っているのであれば、何らかの情報は出てくるはずです。ところが、あの青年には、それさえないのです」


「では、あの青年は……」

「身元を隠しているのではありません。隠すべき身元そのものを、持っていないように見えます」

宗一郎の表情が険しくなった。


「高瀬プロモーションには接触したのか?」

「何度か試みました。しかし、事務所の警戒が非常に強く、葵さんの過去については、本人の意思なく答えられないとの一点張りです」


「……そうか」

宗一郎は、険しい表情のまま黙り込んだ。


園部は机上の資料へ視線を落とした。

十七年前、三歳で行方不明になった徳川葵。

そして、過去を何一つ持たず、突然世間へ現れた二十歳の青年。

名前も年齢も同じだった。


園部が顔を上げた。

「親子であるかどうかを確かめるには、DNA鑑定が最も確実です」


宗一郎は、しばらく写真を見つめていた。

「だが、本人の同意もなく行うことはできない」

「はい」


「引き続き調べてくれ。ただし、無理に近づく必要はない」

「承知しました」

園部は一礼し、部屋を出た。


その後も調査は進まなかった。

園部は葵が出入りする撮影現場へ何度か足を運び、遠くから様子を窺った。


そして数日後の夜――。

園部は一人、車の中から都内の撮影スタジオを見つめていた。


正規の方法では、これ以上何も分からない。

それならば、別の方法を取るしかない。

弁護士として許される行為ではないことは、誰よりも承知していた。

それでも園部家には、法や肩書よりも古くから受け継がれてきた使命がある。


――徳川の血を守ること。


あの青年が、十七年間捜し続けてきた葵なのか。

その答えを、宗一郎へ届けたかった。


今夜のことを報告すれば、止められる。

だから、確かめるまでは黙っているつもりだった。


葵本人へ危害を加えることはしない。ただ、本人が使用した物を一つ手に入れればよい。

園部はそう自分に言い聞かせ、スタジオの出入口へ目を戻した。


撮影が終わり、関係者がスタジオを出ていく。

紗江と葵が高瀬プロモーションの車へ乗り込む姿を、園部は確かに見届けた。


車が走り去り、その尾灯が見えなくなるのを待ってから、園部は車を降りた。

黒い上着の襟元を整え、建物の裏手へ回る。


足音はしない。

人目と防犯カメラを避けて進む身のこなしは、弁護士のものとは思えなかった。


僅かな時間で、葵が使っていた控室へ入り込んだ。

室内は、まだ葵が使ったままの状態だった。

鏡の前には、飲みかけの水が入った紙コップが残されている。


園部は手袋をはめ、そのコップへ手を伸ばした。


その時――。


「そこで何をしている」

背後から聞こえた声に、園部の手が止まった。


振り返ると、閉じたはずの扉の前に葵が立っていた。

園部は眼鏡の奥で目を細めた。


葵の気配は、まったく感じなかった。

車へ乗ったところも、確かに確認したはずだった。


だが、葵は乗り込む直前、暗がりから向けられる視線に気づいていた。

紗江へ短く事情を告げると、車が動き出す前に、園部から死角となる反対側の扉から降りていたのだ。


「忘れ物でもされましたか」

園部は、何事もなかったように手を下ろした。

葵は答えない。

鋭い眼差しが、園部の顔から足元までを静かに見定めていく。


「数日前から、私の周囲を探っていたな」

園部の表情が、初めて僅かに動いた。

葵は初めから、自分の気配に気づいていたのだ。


「何のことでしょう」

「とぼける必要はない」

葵が、ゆっくりと園部へ歩み寄る。


「何者だ」

静かな声だった。

だが、室内の空気が張り詰める。

園部は無意識に重心を落とした。

その僅かな動きを、葵は見逃さなかった。


「私の身辺を探り、何を企んでいる」

「あなたへ危害を加えるつもりはありません」

「ならば、なぜ名を明かさぬ」

園部は答えなかった。


徳川家とのつながりを知られれば、今夜の行動まで宗一郎の指示だと思われかねない。

それだけは避けなければならなかった。


鏡の前の紙コップへ、意識を向ける。

あれさえ手に入れば。


互いの視線がぶつかる。


園部が動く、その僅かに前。

葵の眼差しが、鋭さを増した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。