第4章 第67話 探せない過去
――徳川邸
美和子は、花鋏を置いた。
その日の午後、客間には穏やかな陽が差し込み、花器に生けた白い桔梗の影が畳の上へ落ちていた。
家元である父のもとに生まれ、幼い頃から花と向き合ってきた美和子にとって、花を生けることは、ごく自然な日常の一部だった。
次の一枝へ手を伸ばしかけた時、つけたままにしていたテレビから、ある名前が聞こえてきた。
『それでは、本日のゲストをご紹介しましょう。ピンク色のノンアルコールビール「時花」のCMで人気急上昇中のお二人です。織原紗江さん、そして徳川葵さんです!』
美和子の手が止まった。
ゆっくりとテレビへ顔を向ける。
画面の下に、二人の名前が映し出されていた。
『織原紗江』
『徳川 葵』
「……葵?」
美和子の唇から、掠れた声が漏れた。
画面には、若い男女が並んで座っている。
女性は少し緊張しているのか、膝の上で両手を重ねていた。その隣では、青年が背筋を伸ばし、落ち着いた様子で司会者を見つめている。
美和子は立ち上がり、テレビへ近づいた。
徳川という姓だけなら、偶然かもしれない。葵という名前も、この青年だけのものではない。
けれど――。
「そんな……」
美和子は口元を覆った。
青年の面差しは、若い頃の宗一郎にあまりにもよく似ていた。
真っ直ぐな眉。
意志の強さを宿した瞳。
僅かに顎を引き、相手の話へ耳を傾ける姿。
あの子が、父親に似て育っていたなら。
今頃は、こんな青年になっていたのだろうか。
三歳で突然、姿を消した葵。十七年もの間、宗一郎とともに捜し続けてきた。
僅かな情報が入るたびに期待し、何度も失望を味わった。
それでも、諦めたことは一度もない。
片時も、忘れたことはなかった。
テレビの中で、司会者が紗江へ質問を投げかけた。
紗江が返答に困って葵を見ると、葵は彼女を安心させるように小さく頷いた。
その眼差しに、美和子の胸が締めつけられる。
何も覚えていなくても構わない。
自分を母と呼んでくれなくてもよい。
ただ、生きていてくれたなら――。
美和子はテーブルへ駆け寄り、スマートフォンを手に取った。震える指で宗一郎へ電話をかける。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた低い声がした。
『どうした、美和子』
「あなた、テレビを見られる?」
『テレビ?』
「お願い。今すぐつけて。今、放送しているトーク番組よ」
美和子の声からただならぬものを感じ取ったのだろう。宗一郎は理由を尋ねず、傍らにいる者へ指示を出した。
やがて、電話の向こうからテレビの音声が聞こえてくる。
『……この二人か』
「男の人の名前を見て」
画面が葵へ切り替わった。
その下には、『葵』と表示されている。
『葵……』
「最初の紹介では、徳川葵と出ていたの」
電話の向こうで、宗一郎が息を呑む。
『徳川……葵』
「似ているでしょう?」
美和子の目から涙が零れた。
「あの人、あなたの若い頃に、とてもよく似ている」
しばらく、宗一郎は何も答えなかった。
電話の向こうでは、同じ番組の音声だけが流れていた。
やがて、押し殺したような声が返ってきた。
『ああ』
その一言を聞いた瞬間、美和子の中で、かろうじて保たれていた冷静さが崩れた。
「私、テレビ局へ行ってくるわ」
美和子は鞄を掴んだ。
『待ちなさい、美和子』
「待てないわ。もし、あの人が葵だったら……」
玄関へ向かいかけた足が震える。
「また、いなくなってしまうかもしれない」
『テレビ局へ行っても、関係者でもない者が中へ入れるはずがない』
「それなら、番組が終わるまで待つわ」
『何も確かめないまま押しかけて、何と声をかけるつもりだ』
美和子は答えられなかった。
『名前が同じで、私に似ている。それだけで、私たちが突然、両親だと名乗るわけにはいかない』
「でも……」
『もし本当に葵なら、なおさら慎重にしなければならない』
宗一郎が静かに言い聞かせる。
『あの青年にも、今まで生きてきた暮らしがある。何も知らない私たちが突然現れれば、混乱させるだけだ』
美和子は、鞄を胸に抱いた。
会いたい。
画面の中の青年を、この手で抱きしめたい。
三歳のあの日から、ただの一度も忘れたことはないと伝えたい。
それでも、宗一郎の言うことは分かっていた。
「……では、どうするの?」
『私に任せてくれ』
短い言葉だった。
しかし、そこには十七年間、息子を捜し続けてきた父親の決意が込められていた。
『必ず、あの青年が何者なのか確かめる』
「お願い、あなた」
美和子は、もう一度テレビへ目を向けた。
「葵を……見つけて」
電話を切ったあとも、美和子は画面の前から動けなかった。
番組が終わり、別の映像へ切り替わっても、葵が座っていた場所をいつまでも見つめ続けていた。
宗一郎は、すぐに園部恭介を呼んだ。
園部は、徳川家と長年にわたり付き合いのある敏腕弁護士だった。
四十二歳だが、実年齢よりも若く、三十代前半に見える。
長身で無駄のない体つきをしており、短く整えた黒髪と、細い銀縁の眼鏡の奥に冷静な目を持っている。
園部家は、何百年もの間、徳川家に仕えてきた家柄でもあった。
宗一郎が最も信頼する人物の一人であり、徳川家に関する事情であれば、決して外へ漏らすことはない。
宗一郎は、録画した番組を園部に見せた。
「この青年について調べてほしい」
画面の中の葵を見た園部が、僅かに目を細める。
「徳川葵……」
「顔を見て、どう思う」
園部はすぐには答えなかった。
映像を止め、葵の顔をじっと見つめる。
「宗一郎様のお若い頃によく似ておられます」
「私もそう思う」
宗一郎は机の上で両手を組んだ。
「どこで生まれ、どんな家族のもとで育ったのか。これまでどこで暮らしていたのか。分かることは、すべて調べてくれ」
「承知しました」
「ただし、本人には接触するな」
園部が宗一郎へ視線を戻す。
「よろしいのですか」
「もし本当に葵だとしても、今のあの青年には、あの青年の生活がある」
宗一郎は、画面に映る紗江を見た。
「こちらの都合だけで近づくことはできない。まずは事実を確かめたい」
「かしこまりました」
園部は静かに頭を下げた。
だが、調査は難航した。
高瀬プロモーションに所属してからの葵については、すぐに分かった。
『時花』のCMに紗江と出演し、それをきっかけに雑誌や広告の仕事が相次いでいる。
しかし、それ以前の足取りが何一つ見つからない。
学校へ通っていた記録もなければ、過去に働いていた形跡もない。
どこで生まれ、どこで育ったのかさえ分からなかった。
調べれば調べるほど、奇妙な空白だけが広がっていく。
まるで、つい最近になって、突然この世に現れたかのようだった。
さらに、高瀬プロモーションの守りは予想以上に固かった。
葵の経歴に関する問い合わせには一切答えず、本人への直接取材も許可しない。出演依頼も面会の申し込みも、すべて事務所を通すよう徹底されている。
関係者をたどっても、誰一人として葵の過去を知らなかった。
数日後、園部は宗一郎のもとを訪れ、薄い調査資料を差し出した。
「これだけか」
「申し訳ありません」
宗一郎は資料をめくった。
「何もない、とはどういうことだ?」
宗一郎の問いに、園部恭介は静かに答えた。
「言葉のとおりです。徳川葵と名乗る青年には、過去を示す記録が何一つありません」
「偽名ということか?」
「その可能性も調べました。しかし、別の名前につながる手掛かりも見つかりません」
園部は机上の資料へ視線を落とした。
「出生地、学歴、以前の住所。経歴を偽っているのであれば、何らかの情報は出てくるはずです。ところが、あの青年には、それさえないのです」
「では、あの青年は……」
「身元を隠しているのではありません。隠すべき身元そのものを、持っていないように見えます」
宗一郎の表情が険しくなった。
「高瀬プロモーションには接触したのか?」
「何度か試みました。しかし、事務所の警戒が非常に強く、葵さんの過去については、本人の意思なく答えられないとの一点張りです」
「……そうか」
宗一郎は、険しい表情のまま黙り込んだ。
園部は机上の資料へ視線を落とした。
十七年前、三歳で行方不明になった徳川葵。
そして、過去を何一つ持たず、突然世間へ現れた二十歳の青年。
名前も年齢も同じだった。
園部が顔を上げた。
「親子であるかどうかを確かめるには、DNA鑑定が最も確実です」
宗一郎は、しばらく写真を見つめていた。
「だが、本人の同意もなく行うことはできない」
「はい」
「引き続き調べてくれ。ただし、無理に近づく必要はない」
「承知しました」
園部は一礼し、部屋を出た。
その後も調査は進まなかった。
園部は葵が出入りする撮影現場へ何度か足を運び、遠くから様子を窺った。
そして数日後の夜――。
園部は一人、車の中から都内の撮影スタジオを見つめていた。
正規の方法では、これ以上何も分からない。
それならば、別の方法を取るしかない。
弁護士として許される行為ではないことは、誰よりも承知していた。
それでも園部家には、法や肩書よりも古くから受け継がれてきた使命がある。
――徳川の血を守ること。
あの青年が、十七年間捜し続けてきた葵なのか。
その答えを、宗一郎へ届けたかった。
今夜のことを報告すれば、止められる。
だから、確かめるまでは黙っているつもりだった。
葵本人へ危害を加えることはしない。ただ、本人が使用した物を一つ手に入れればよい。
園部はそう自分に言い聞かせ、スタジオの出入口へ目を戻した。
撮影が終わり、関係者がスタジオを出ていく。
紗江と葵が高瀬プロモーションの車へ乗り込む姿を、園部は確かに見届けた。
車が走り去り、その尾灯が見えなくなるのを待ってから、園部は車を降りた。
黒い上着の襟元を整え、建物の裏手へ回る。
足音はしない。
人目と防犯カメラを避けて進む身のこなしは、弁護士のものとは思えなかった。
僅かな時間で、葵が使っていた控室へ入り込んだ。
室内は、まだ葵が使ったままの状態だった。
鏡の前には、飲みかけの水が入った紙コップが残されている。
園部は手袋をはめ、そのコップへ手を伸ばした。
その時――。
「そこで何をしている」
背後から聞こえた声に、園部の手が止まった。
振り返ると、閉じたはずの扉の前に葵が立っていた。
園部は眼鏡の奥で目を細めた。
葵の気配は、まったく感じなかった。
車へ乗ったところも、確かに確認したはずだった。
だが、葵は乗り込む直前、暗がりから向けられる視線に気づいていた。
紗江へ短く事情を告げると、車が動き出す前に、園部から死角となる反対側の扉から降りていたのだ。
「忘れ物でもされましたか」
園部は、何事もなかったように手を下ろした。
葵は答えない。
鋭い眼差しが、園部の顔から足元までを静かに見定めていく。
「数日前から、私の周囲を探っていたな」
園部の表情が、初めて僅かに動いた。
葵は初めから、自分の気配に気づいていたのだ。
「何のことでしょう」
「とぼける必要はない」
葵が、ゆっくりと園部へ歩み寄る。
「何者だ」
静かな声だった。
だが、室内の空気が張り詰める。
園部は無意識に重心を落とした。
その僅かな動きを、葵は見逃さなかった。
「私の身辺を探り、何を企んでいる」
「あなたへ危害を加えるつもりはありません」
「ならば、なぜ名を明かさぬ」
園部は答えなかった。
徳川家とのつながりを知られれば、今夜の行動まで宗一郎の指示だと思われかねない。
それだけは避けなければならなかった。
鏡の前の紙コップへ、意識を向ける。
あれさえ手に入れば。
互いの視線がぶつかる。
園部が動く、その僅かに前。
葵の眼差しが、鋭さを増した。




