第4章 第68話 家族のぬくもり
園部は、出入口の前に立つ葵を見据えた。
鏡の前には、飲みかけの紙コップがある。
あれを手に入れ、この部屋を出る。それだけのことが、今は容易ではなかった。
葵は何も言わず、園部の動きを待っていた。
先に動いたのは、園部だった。
葵との距離を一気に詰め、鏡の前の紙コップへ手を伸ばす。
その指が触れるより早く、葵が手首を掴んだ。
園部は腕を捻り、体を翻した。
葵は手を離した。
だが、園部が踏み出そうとした先には、すでに回り込んでいた。
一瞬の攻防だった。
どちらも声を上げず、鏡の前の紙コップも揺れていない。
園部は葵を見据えた。
手首を掴まれただけではない。
逃れる動きまで、読まれていた。
それなのに、葵の呼吸は乱れていない。
まだ、余力がある。
芸能人と聞いていた。
だが、武術を多少かじった程度の動きではない。
園部が受け継いできた技を、葵は知っているかのようだった。
葵もまた、目の前の男を見据えていた。
手首を掴んだ瞬間、抵抗することなく身を翻した。その動きには、迷いがなかった。
「……ただの物取りではないようだな」
園部は答えない。
その視線が、葵の背後にある出入口へ動いた。
葵は部屋の隅に立てかけてあった掃除用のモップを手に取ると、刀のように構え、その先端を園部へ向けた。
ただの掃除道具であるはずなのに、葵が手にした途端、鋭い刃を突きつけられているような緊張が室内を満たした。
園部は眼鏡の奥で目を細めた。
出入口は、葵の背後にある。
先ほどの動きを見れば、隙を待っていても逃れられそうになかった。
「……やれやれ」
園部は小さく息を吐いた。
だが、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
ここまで身につけた技を使わなければならない相手など、久しくいなかった。
園部は、眼鏡の位置を指先で直した。
出し惜しみをしている場合ではない。
そう思うと、胸の奥が静かに高鳴った。
次の瞬間、床を蹴った。
葵との間合いを一気に詰め、その脇をすり抜けようとする。
だが、葵はモップの柄を横へ振り、園部の行く手を塞いだ。
園部は身を沈めてそれをかわすと、床へ片手をつき、葵の懐へ滑り込んだ。
葵は半歩退き、柄の向きを変える。
その先端が、寸分の狂いもなく園部の喉元へ迫った。
園部は上体を反らしてかわすと、葵の手首へ指を伸ばした。
葵は即座に柄を引き、園部の腕を払う。
乾いた音が、静かな控室に響いた。
互いに一歩ずつ距離を取り、向かい合う。
園部の口元の笑みが、僅かに深まった。
受け継いできた技が、どこまで通じるのか。
もう一度、踏み込んでみたかった。
一方、葵は訝しげに園部を見つめていた。
身を低くした構え。
相手の視線を欺く足運び。
正面から打ち合うのではなく、死角へ回り込もうとする戦い方。
覚えがあった。
何度も、目の前で見てきた動きだった。
(この動きは……)
記憶をたどりかけた、その時だった。
園部が再び床を蹴った。
葵がモップの先端を向けるより早く、身を沈めて脇へ回り込む。
「葵さん。ほかへ気を取られていると、やられますよ」
その言葉に、葵の動きが止まった。
――葵様。ほかへ気を取られていると、やられますよ。
いつもそばにいた、一人の男の姿が脳裏に浮かんだ。
「……蒼馬」
葵の口から、懐かしい名がこぼれた。
園部の肩が、僅かに動いた。
葵はモップを構えたまま、改めて園部を見据えた。
「お主は……何者だ?」
先ほどとは、声が違っていた。
目の前の男の動きと、記憶の中の姿が、どうしても重なる。
園部はしばらく葵を見つめていたが、やがて構えを解いた。
「……申し遅れました」
乱れた上着を整えると、胸元から名刺入れを取り出す。
「徳川家に代々お仕えしております、園部恭介と申します。現在は、徳川家の顧問弁護士を務めております」
葵はモップの先端を下げ、差し出された名刺を受け取った。
そこには、園部恭介という名と、弁護士の肩書が記されている。
(園部……)
聞き覚えのない名だった。
だが、先ほどの動きも、あの言葉も、ただの偶然とは思えない。
「徳川家に……?」
「はい」
園部は葵をまっすぐに見つめた。
「徳川宗一郎様と、美和子様――お二人をご存じですね」
父と母の名を告げられ、モップを握る手から、力が抜ける。
「なぜ……お主が、その名を知っている」
「お二人から、葵さんを捜すよう依頼を受けました」
園部は一呼吸置き、静かに続けた。
「宗一郎様と美和子様は、今も捜しておられます」
葵は、手の中の名刺へ目を落とした。
十七年もの間、行方も生死も分からぬ自分を、父と母は今も捜し続けている。
胸の奥から、熱いものが込み上げた。
「父上と母上は……今も、私を捜しておられるのか」
僅かに震える声で尋ねると、園部は静かに頷いた。
「はい。一日たりとも、諦めたことはありません」
その言葉に、葵は唇を引き結んだ。
目頭が熱くなり、視界が滲む。
「……会うことは……叶うのか」
園部は静かに頷いた。
「はい。お二人とも、お待ちです」
今すぐにでも会いたい。
元気でいることを伝えたい。
もう心配はいらないと、二人の前で告げたかった。
しかし、葵の表情に、ふと影が差した。
父と母に、これまでのことを何と説明すればよいのだろう。
三つの時に姿を消し、江戸へ渡ったこと。
澄月庵で暮らし、多くの者と出会ったこと。
そして再び、令和へ戻ってきたこと。
ありのままを話したところで、信じてもらえるとは思えない。
十七年前とは姿も声も変わっている。
自分を息子だと名乗るだけで、信じてもらえるのだろうか。
葵は名刺を握りしめた。
「だが……少し、考えさせてくれ」
園部は、葵の表情から何かを察したようだった。
だが、その事情を無理に聞き出そうとはしなかった。
「十七年の間には、私どもの想像も及ばない、さまざまなことがおありだったのでしょう」
園部の声から、先ほどまでの鋭さが消える。
「すべてを一度にお話しになる必要はありません」
葵が顔を上げた。
「まずは一度、お二人に会ってください。何も話せなくても構いません」
園部は穏やかに続けた。
「元気なお顔を見せるだけでも、お二人にとっては、それ以上ない喜びになるはずです」
父と母のことは、正直、ほとんど覚えていない。
三つの頃の記憶など、あまりにも遠く、残っているものは僅かだった。
令和へ戻ったあの日、紗江とともに遠くから二人の姿を見た。
それでも、言葉を交わしたわけではない。
あの時は、声をかけられなかった。
だが、父と母は今も、自分を捜してくれている。
何を話せばよいのか、まだ分からない。
それでも、会いたい。
長い沈黙の末、葵は顔を上げた。
「……分かった」
園部が静かに葵を見つめる。
「父上と母上に、会わせてくれ」
園部の表情が、僅かに和らいだ。
「承知いたしました」
園部はすぐに携帯電話を取り出した。
葵から少し離れ、宗一郎へ連絡を入れる。
「園部です。葵さんとお会いできました」
電話の向こうで、宗一郎が息を呑む気配がした。
「はい。まだ確認すべきことはございますが、私はご本人だと考えております」
園部は、葵へ目を向けた。
葵はモップを元の場所へ戻し、手の中の名刺を見つめていた。
「ご両親に会いたいと、おっしゃっています。これから、ご自宅へお連れしてもよろしいでしょうか」
返ってきた言葉に、園部は静かに頷いた。
「承知いたしました」
通話を終え、葵へ向き直る。
「参りましょう。お二人がお待ちです」
「ああ。だが、その前に、紗江へ知らせておきたい」
葵は紗江へ連絡を入れ、無事であることと、これから両親に会いに行くことを伝えた。
『……会われるのですね』
「ああ」
口にすると、胸の奥が震えた。
「父上と母上は、今も私を捜してくださっていたそうだ」
電話の向こうで、紗江が静かに息をついた。
『よかった……』
その声を聞き、葵の肩から僅かに力が抜けた。
「帰ったら、話す」
『はい。お気をつけて』
葵は電話を切り、園部へ頷いた。
控室の扉を叩く音がした。
「失礼します。片づけに伺いました」
スタッフが入口から顔を覗かせた。
「お忘れ物はございませんか? こちら、片づけさせていただきますね」
「ああ」
スタッフは鏡の前の紙コップを取り上げ、ゴミ箱へ捨てた。
葵は、その手元を見つめていた。
園部が手を伸ばしていたのは、あれだ。
飲み残した水の入った、ただの紙コップ。
なぜ、あんな物を欲しがったのか。
傍らの園部へ目を向けると、視線が合った。
園部は僅かに目を伏せたが、何も言わなかった。
葵も、今は尋ねなかった。
父と母に会う。そのことで、胸はいっぱいだった。
二人は控室を出た。
園部の車に乗り、葵は徳川家へ向かった。
窓の外を流れていく令和の町を眺めながら、葵はほとんど言葉を発しなかった。
父と母に会う。
そう思うだけで、胸の奥が落ち着かなかった。
先ほどまで、あれほど迷いなく動いていた手を、今は膝の上で握りしめている。
園部は何も尋ねず、車を走らせた。
やがて車は、静かな住宅街にある大きな屋敷の前で止まった。
葵は車を降り、その建物を見上げた。
以前、紗江とともに訪れた屋敷。
あの時は、遠くから二人の姿を見ることしかできなかった。
だが、今夜は違う。
この扉の向こうで、父と母が自分を待っている。
園部に促されて門をくぐり、玄関へと続く道を歩く。
一歩進むたびに、自分の鼓動が強くなるようだった。
玄関脇の呼び鈴へ、園部が手を伸ばす。
その時だった。
内側で慌ただしい足音がして、扉が開いた。
「葵……!」
美和子が、靴も履かずに外へ駆け出してきた。
玄関先に立つ葵を見た瞬間、その足が止まる。
葵もまた、声を失っていた。
目の前の女性の顔に、はっきりとした記憶はない。
それでも、自分を呼ぶその声に、胸の奥が大きく揺れた。
「……母上」
美和子の目から、大粒の涙が溢れた。
「葵……本当に、葵なのね」
美和子は一歩ずつ、確かめるように近づいた。
葵の前まで来ると、震える手を伸ばし、その頬へ触れる。
「こんなに……大きくなって……」
葵は、頬に触れる母の手へ、自分の手を重ねた。
温かい。
そのぬくもりに、胸の奥がほどけていく。
「母上……」
もう一度呼ぶと、美和子は葵の胸へ飛び込んだ。
「葵……葵……!」
何度も名を呼びながら、強く抱きしめる。
葵は戸惑うように腕を上げ、やがてその細い体を抱きしめ返した。
「申し訳ありません……長い間、ご心配をおかけしました」
「いいの……もう、いいの」
美和子は葵の胸に顔を埋めたまま、声を上げて泣いた。
「生きていてくれた。それだけでいい……」
その言葉に、葵の目からも涙が零れた。
「……ただいま戻りました、母上」
ふと顔を上げると、玄関に宗一郎が立っていた。
葵と美和子を見つめたまま、声を発することもできずにいる。
その目には、抑えきれない涙が滲んでいた。
葵は、美和子を抱いたまま宗一郎を見つめた。
「……父上」
宗一郎の表情が崩れた。
ゆっくりと二人へ近づくと、確かめるように葵の肩へ手を置く。
「葵……なのか」
「はい」
「本当に……帰ってきたのか」
葵は涙を拭うこともせず、深く頷いた。
「遅くなりました」
宗一郎の手に力がこもる。
「ただいま戻りました、父上」
次の瞬間、宗一郎は葵と美和子を強く抱きしめた。
「……よく、生きていてくれた」
それだけを口にすると、宗一郎も声を押し殺して泣いた。
葵は父と母の腕に包まれながら、目を閉じた。
これが、父と母のぬくもりなのだ。
少し離れた場所で、園部は三人の姿を静かに見守っていた。
確かめなければならないことは、まだ残されている。
葵がこの十七年間、どこで、どのように生きてきたのか。
なぜ、彼に関する記録が何一つ存在しないのか。
十七年もの間、葵の帰りを待ち続けた家族の時間が、ようやく再び動き始めていた。
美和子は、葵の背に回した腕を緩めなかった。
宗一郎も、その肩に手を置いたままだった。
帰ってきた息子が、どこで十七年を生きたのか。
二人は、まだ知らない。




