第4章 第65話 変わり始めた日常
それから数週間後――
完成したCMを見るため、紗江と葵は高瀬プロモーションへ呼ばれた。
応接室のテレビの前には、香織と佐伯のほか、数名の社員も集まっている。
「それでは、流しますね」
社員が映像を再生した。
夏祭りの夜を歩く二人の姿が、画面いっぱいに映し出される。
やがて映像の最後に、柔らかな声が流れた。
『時を越えて、恋は花ひらく』
時花
TOKIKA
PINK BEER
NON-ALCOHOLIC
短い映像が終わると、応接室に拍手が湧き起こった。
「とても、すてきです。ありがとうございました」
紗江が目にうっすらと涙を浮かべて振り返ると、香織は嬉しそうに微笑んだ。
「気に入ってもらえてよかったわ」
葵は、画面をじっと見つめていた。
やがて、ゆっくりと紗江へ視線を移す。
「この言葉を考えた者は、私たちのことを知っているのか?」
「いいえ。何も知らないはずです」
「そうか……」
葵は、もう一度テレビへ目を向けた。
「不思議なものだな」
「何がですか?」
「私たちのために作られた言葉のように聞こえる」
紗江も、画面に残る「時花」の文字を見つめた。
「私も、そう思いました」
時を越えて、恋は花ひらく。
江戸と令和。
三百年以上の時を隔て、それでも互いを求め続けた二人。
偶然生まれたはずの言葉が、二人の歩んできた道のすべてを表しているようだった。
香織が、二人を見比べて楽しそうに笑った。
「二人とも、今のうちに覚悟しておいてね」
「何の覚悟だ?」
葵が、僅かに表情を引き締める。
「このCMが始まったら、街のあちこちで二人の姿を見ることになるわよ。テレビだけじゃない。佐伯さんの撮った写真も、駅や街頭、店頭のポスターに使われる予定だから」
「街にも、私たちの姿が?」
紗江の表情が固まった。
「見る? ポスターなら持ってきたよ」
佐伯が、筒状に丸めていた大きなポスターを机の上へ広げる。
葵はそこに映る紗江を、しばらく見つめた。
「佐伯殿、見事だ。紗江の美しさが、よく写し出されている」
「葵さん、それは俺の腕を褒めているのか、紗江さんを褒めているのか、どっちだ?」
「どちらもだ」
葵が迷いなく答えると、その場に笑いが起こった。
数日後――
あの日、葵が仕事を求めて訪れた神社では、社務所のテレビから一本のCMが流れていた。
そこに映る青年の顔を見た瞬間、神主は目を見開いた。
「この人は……」
仕事を探していると言っていた、あの青年だった。
あれから一度も姿を見せないため、どうしているのかと気にかけていた。
境内で話した時の葵は、これからどう生きていけばよいのか分からず、どこか途方に暮れているように見えた。
だが、画面の中の葵は穏やかだった。
隣にいる紗江を見つめる横顔は、あの日とはまるで違って見えた。
『時を越えて、恋は花ひらく』
神主の顔に、安堵の笑みが浮かんだ。
「そうか。仕事が見つかったのか」
画面の中で微笑み合う二人を、神主は嬉しそうに見つめていた。
CMは、放送直後から大きな反響を呼んだ。
SNSには、時花の広告を見た人々の投稿が相次いだ。
『時花のCMに出ている二人は誰?』
『美しすぎる!』
『見つめ合っているだけなのに、映画を一本見た気分になった』
『本当に恋人同士なのかな。あの目は演技に見えない』
『女の子の照れた笑顔がかわいい』
映像は瞬く間に広まり、二人が何者なのか、さまざまな憶測が飛び交った。
やがて駅には、佐伯が撮影した二人の大きなポスターが貼り出された。
桃色の花火を背に、時花を手にして見つめ合う葵と紗江。
その下には、白い文字で言葉が添えられている。
――時を越えて、恋は花ひらく。
時花――TOKIKA。
街頭の大画面にもCMが流れ、商品を扱う店には、二人の姿を使った広告が並んだ。
時花は予想を大きく上回る売れ行きを見せ、葵と紗江への注目も、日を追うごとに高まっていった。
それでも、二人の暮らしがすぐに変わったわけではなかった。
紗江はこれまでどおり専門学校とアルバイトへ通い、葵も令和の暮らしを送りながら、次の仕事に備えていた。
だが、二人が戸惑うほどの変化が、日常にも現れ始めていた。
学校では紗江を振り返る者が増え、アルバイト先でも、客から何度も顔を見つめられるようになった。
「あの、もしかして、時花のCMに出ている方ですか?」
初めてそう声をかけられた時、紗江は驚きながらも正直に頷いた。
その日のうちに、紗江が働いている店の名前がSNSに書き込まれた。
翌日には紗江を見るために客が訪れ、店の前で写真を撮る者まで現れた。
さらに数日後――
紗江の携帯電話に、香織から連絡が入った。
『二人とも、すぐに事務所へ来てください』
いつもとは違う厳しい声に、紗江は胸騒ぎを覚えた。
その日の夕方、高瀬プロモーションを訪れると、応接室の机には何枚もの写真が並べられていた。
紗江のアルバイト先。
店から出てくる紗江の姿。
中には、初音荘の近くで撮影されたものまである。
「今のところ、二人の住まいまでは知られていないようです。でも、時間の問題だと思った方がいいわ」
葵は、紗江の後ろ姿を遠くから撮った写真を見つめた。
「これを撮った者が、紗江のあとをつけたのか」
「断定はできません。でも、その可能性はあります」
葵は眉を寄せ、写真を見据えた。
「それで、二人に大切な話があります」
香織は紗江へ向き直った。
「アルバイトは辞めてください。このまま人が押しかければ、お店にも迷惑がかかってしまうわ」
紗江は一瞬、言葉に詰まった。
世話になった店を、こんな形で辞めることになるとは思っていなかった。
それでも、これ以上負担をかけるわけにはいかない。
「……分かりました。店長にお話しします」
「私からも事情を説明します。それから、安全のために、初音荘からも引っ越してもらいたいの」
「初音荘を……?」
「事務所で管理しているマンションに、隣り合った二部屋を用意します。防犯設備が整っていて、部外者は簡単には入れません。二人には、別々の部屋で暮らしてもらいます」
紗江は思わず葵へ目を向けた。
「紗江の安全は守られるのか」
「ええ。しばらくは事務所の者が送り迎えをします。それに、部屋は隣同士だから、いつでも行き来できるわ」
「ならば、異存はない」
葵が頷くと、紗江もほっとしたように表情を緩めた。
「よかったです。初音荘では、葵様に窮屈な思いをさせていましたから」
「私は気にしておらぬ」
葵はそう答えると、紗江をまっすぐに見つめた。
「私はまだ、この時代に慣れておらぬ。これまでと変わらず、力を貸してほしい」
「はい、葵様」
二人の返事を聞き、香織はほっと息をついた。
「では、すぐに引っ越しの手配を進めます」
時を越えて咲いた一輪の花は、二人の名を世に広めると同時に、これまでの静かな暮らしをも変え始めていた。




