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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第4章 第64話 時を越えて、恋は花ひらく

高瀬プロモーションに所属してから、数日後。

その日の夕刻、紗江と葵は香織に連れられ、都内にある大きな撮影スタジオを訪れていた。

建物の外からは、どのような撮影が行われるのか、まるで想像できない。


ところが、重い扉が開いた瞬間、紗江は驚いて足を止めた。

その先に広がっていたのは、夏祭りの夜だった。


頭上には、赤や白の提灯が幾重にも連なっている。通りの両側には、金魚すくいや射的、綿菓子などの屋台が並び、その奥には川辺まで造られていた。

セットを囲む巨大な映像装置には、深い藍色の夜空が映し出されている。

祭囃子が流れ、浴衣姿の出演者たちが屋台の間を行き交う様子は、すべて撮影のために用意されたものだとは思えなかった。


「これは……本当に、建物の中なのですか?」

紗江が天井を見上げる。

「外のように見えるな」

葵も感心したように辺りを見渡していた。


「すごいでしょう?」

香織が笑みを浮かべる。

「二人が撮影するのは、夏に発売される新商品のCMです。夏祭りの夜を舞台にした映像になるの」


二人が宣伝するのは、淡いピンク色をしたノンアルコールビールだった。

商品名は――


時花

TOKIKA

PINK BEER


透明な細身の瓶には、白と金の文字で商品名が記されている。瓶の中で揺れる淡いピンク色は、まるで水の中へ花びらを溶かしたようだった。


「きれい……」

紗江が思わず呟く。

香織は、二人へ企画書を差し出した。

「『時花』には、時を越えて咲く花という意味が込められているそうよ」


「時を越えて……」

紗江は、隣にいる葵を見た。

葵も、企画書に書かれた文字を見つめている。

「時を越えて咲く花か」

葵が、静かにその名を口にした。

「はい。とてもすてきな名前ですね」


そこへ、黒い服を着た男性が歩み寄ってきた。

五十歳前後だろうか。手に台本を持った、今回のCMを手がける監督だった。


「おはようございます。葵さん、紗江さん。今日はよろしくね」

「おはようございます。よろしくお願いします」

紗江が頭を下げる。

葵もそれに倣いかけたが、ふと動きを止めた。

「だが、今は夕刻ではないのか?」


監督は一瞬目を丸くしたのち、意味に気づいて笑った。

「ああ、そういうことか。この業界では、何時であっても、仕事場へ入った時の挨拶は『おはようございます』なんだよ」


「そうであったか。失礼した」

葵は納得したように頷いた。

「新参者ゆえ、これからもご指導願いたい」

そう言って姿勢を正すと、改めて監督へ頭を下げる。

「おはようございます。本日はよろしくお願いします」


周囲にいたスタッフたちの間に、温かな笑みが広がった。


少し離れた場所には、佐伯が立っていた。

佐伯圭吾は今回、駅や店頭に掲示されるポスターをはじめ、広告用の静止画を担当している。正式なポスター撮影に加え、CM撮影の合間に生まれる二人の自然な表情を写真へ収めるのも、彼の役目だった。


「それでは、お二人とも支度をお願いします」

スタッフに案内され、紗江と葵は、それぞれ別の部屋へ入った。


用意されていた衣装は、浴衣だった。

紗江が袖を通したのは、白に近い薄藤色の浴衣である。水面に浮かぶ花を思わせる淡い模様が施され、帯には時花と同じ柔らかな桃色が選ばれていた。

髪は緩やかにまとめられ、淡い桃色の花飾りが一輪添えられた。化粧も、浴衣の柔らかな色合いに合わせ、普段より僅かに華やかに施されている。


支度を終えて部屋から出ると、待っていた香織が目を輝かせた。

「思ったとおり。とてもよく似合っているわ」

「ありがとうございます。でも、少し落ち着かなくて……」

「どうして?」

「こんなに大勢の方に支度をしていただくことなど、ありませんでしたから」


江戸では、人の着物を仕立て、身支度を整える側だった。

自分一人のために、着付けや髪、化粧を担当する者が何人もつくことなどなかった。


紗江が恥ずかしそうに帯へ手を添えた、その時だった。

隣の部屋の扉が開いた。

濃紺の浴衣を身につけた葵が、静かに姿を現す。


その場にいたスタッフたちは葵から目を離せなかった。

濃紺の地には、流水を思わせる細い銀の線が描かれている。余計な飾りのない装いが、葵の端正な顔立ちをいっそう際立たせていた。


だが、皆が目を奪われたのは、その美しさだけではない。

帯の位置も、袖の扱いも、立ち姿も、あまりに自然だった。

撮影のために浴衣を着た現代の若者とは、どこか違う。

まるで、初めからその装いの中で生きてきた者のように見える。


着付けを担当した男性が、感嘆の息を漏らした。

「ほとんど葵さん一人で着てしまったので、私たちの出番がありませんでしたよ」

葵は、なぜ驚かれているのか分からないという顔をしている。

「これくらいならば、私にもできる」

「普通は、なかなかできませんよ」

男性が苦笑すると、周囲のスタッフたちからも笑い声が上がった。


葵は答えず、薄藤色の浴衣をまとった紗江へ目を向けた。

その眼差しが、ふっと和らいだ。

「よく似合っている」

「葵様も……とても、お似合いです」

二人は、懐かしいものに触れたように微笑み合った。


その瞬間、鋭いシャッター音が響いた。

紗江が驚いて振り返る。

少し離れた場所で、佐伯がすでにカメラを構えていた。


「佐伯さん、ポスター撮影はまだでしょう」

香織が呆れたように言う。

「今の二人を見て、撮らずにいられるわけがない」

「せめて、一声かけてください」

「声をかけたら、今の表情は消えるだろう」


佐伯はそう答えると、撮ったばかりの写真を確認した。

画面には、互いの浴衣姿を見つめ、穏やかに微笑む二人が映っている。

「やはり、この二人で正解だ」


浴衣姿で夏祭りのセットへ入ると、二人の空気が変わった。

提灯の明かり。

屋台から聞こえる威勢のよい声。

人々の笑い声に、軽やかな祭囃子。


すべて作られた風景であるはずなのに、紗江の胸には、江戸の夏がよみがえった。

夕暮れとともに灯された行灯。

通りを埋め尽くす人々。

遠くから聞こえてくる笛や太鼓の音。


「江戸の祭りを思い出しますね」

紗江が小さな声で言う。

「ああ」

葵も、提灯の連なる道を見つめた。

「よく似ている」


二人の肩から、自然に力が抜けていく。

撮影のために立っているのではない。

懐かしい夏の夜へ、二人で帰ってきたようだった。


少し離れた場所でその様子を見ていた監督は、映像撮影班へ合図を送り、葵と紗江の前へ進み出た。

「細かな演技はいりません。普段どおりに話しながら、屋台を見て歩いてください」

「歩くだけでよいのか?」

葵が尋ねる。

「はい。ただし、カメラの方は見ないでください。周囲にも大勢の人がいますが、気にしなくて構いません」

「分かった」

「途中で人の流れが激しくなります。そのまま川辺まで進んでください」

紗江も頷いた。

「よろしくお願いします」


撮影開始の声が響く。

祭囃子が流れ、浴衣姿の出演者たちが一斉に動き始めた。

紗江と葵は、提灯の下を並んで歩く。


「本物のお祭りみたいですね」

「そうだな」

紗江は、色鮮やかな屋台へ目を向けた。

「金魚すくいまであります」

「きんぎょすくい?」

「薄い紙のついた道具で、金魚をすくうんです」

「金魚を捕らえて、どうする」

「持って帰って育てるんですよ」

「食うのではないのか」

「食べません」

紗江は、思わず笑ってしまった。

葵は、なぜ笑われたのか分からないまま、金魚の泳ぐ水槽を見つめている。


映像撮影班は、少し離れた場所から二人を追っていた。

その会話は台本にはない。

紗江の笑顔も、葵の真剣な表情も、監督が指示したものではなかった。

だが、画面の中に映る二人は、初めての撮影とは思えないほど自然だった。


やがて、二人の前を大勢の出演者が横切った。

人の流れに押され、紗江の体が僅かに葵から離れる。

その瞬間、葵が紗江の手を取った。


「葵様?」

「離れるな」

葵はその手を引き、紗江を自分のそばへ寄せた。

「人が多い。はぐれるぞ」


それは、演技ではなかった。

葵にとっては、当然のことだった。


監督は「カット」と言いかけ、すぐに口を閉じた。

代わりに、撮影を続けるよう映像班へ手で合図を送る。


葵は紗江の手を握ったまま、人波の中を歩いていく。

紗江は少し恥ずかしそうにしながらも、その手を離そうとはしなかった。

二人の頭上で、提灯の明かりが揺れている。


佐伯もまた、その一瞬を逃さなかった。

映像の邪魔にならない場所から、手を取り合って歩く二人へカメラを向ける。

小さなシャッター音が、祭囃子の中へ溶けた。


やがて二人は、人々の賑わいから離れ、川辺を模した場所へたどり着いた。

そこだけは祭りの喧騒が遠くなり、静かな夜の空気に包まれている。

川面には提灯の明かりが映り、緩やかな光の帯となって揺れていた。


スタッフが二人へ、冷えた時花の瓶を手渡す。

透明な瓶の中で、淡い桃霞色が涼しげに輝いた。

白と金で記された文字が、提灯の明かりを受けて浮かび上がる。


時花

TOKIKA

PINK BEER

NON-ALCOHOLIC


「それでは、二人で乾杯して、少し飲んでください」

監督が指示を出す。

「そのあとは、先ほどと同じように話していてください。こちらを意識する必要はありません」

「それだけでよいのですか?」

紗江が尋ねる。

「はい。お二人は、そのままがいい」

監督は、僅かに笑った。

「ただ、隣にいる相手を見ていてください」


撮影が再開された。

葵と紗江は、透明な瓶を静かに合わせた。

涼やかな音が響く。


「いただきます」

紗江が一口飲む。

ほのかな果実の香りと、ビールに似た爽やかな苦みが広がった。

「おいしい……」

紗江の顔が、ほころんだ。


「葵様も、飲んでみてください」

葵も、瓶へ口をつける。

しばらく味を確かめるように黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「不思議な味だな」

「お嫌いですか?」

「いや。悪くない」

葵は、もう一度時花を口にした。


その様子を見て、紗江が嬉しそうに笑う。

「何がおかしい」

「葵様が、令和の飲み物を気に入ってくださると嬉しいんです」

「なぜ、紗江が喜ぶのだ」

「この時代でも、葵様が好きになれるものが、少しずつ増えてほしいからです」


葵の手が止まった。

そして、隣に立つ紗江を静かに見つめる。

「この時代には、紗江がいる。それが私の一番の幸せだ」


紗江の頬が、見る間に赤く染まった。

「葵様……今は撮影中です」

「思ったことを口にしたまでだ」

「そうですけれど……」

紗江は困ったように俯いたが、こぼれる笑みを抑えられなかった。

葵は、そんな紗江から目を離さない。


その時、二人の背後で、大輪の花火が開いた。

巨大な映像装置に映し出された花火が、深い藍色の夜空を鮮やかに染め、少し遅れて、腹の底へ響くような音がスタジオを包む。


紗江は驚いて振り返った。

「花火……」

金色の光が降り注ぎ、続いて淡い桃色の花火が夜空いっぱいに咲いた。


「きれいですね」

「ああ」

そう答えながらも、葵は花火ではなく、紗江を見つめていた。

紗江がその視線に気づき、照れたように微笑む。

花火の光が、二人の横顔を優しく照らした。


監督も、佐伯も、何も言わなかった。

撮影現場にいた誰もが、目の前の光景を壊してはならないと感じていた。

作られた笑顔も、決められた仕草もない。

それでも二人の間には、ほかの誰も入り込むことのできない物語が流れていた。


監督はしばらく二人を見守ってから、声をかけた。

「カット!」


一瞬の沈黙のあと、撮影現場のあちらこちらから感嘆の息が漏れた。

監督は、撮影されたばかりの映像を画面で確認する。


人波の中で葵が紗江の手を取る場面。

二人が時花を合わせる場面。

葵の言葉に、紗江が頬を染めて微笑む場面。

そして、二人の背後で花開く大輪の花火。


「はい、OK!」

監督が、画面から目を離さずに言った。

「予定していた演出の大半を使わなくても、これだけで成立します」


香織も、画面を食い入るように見つめていた。

「……葵と紗江のために作られたCMみたい」

監督は、口元に笑みを浮かべた。

「……これは、当たる」

「何かおっしゃいました?」

香織が振り返る。

「いや、何でもない」

監督は、ようやく画面から目を離すと、満足そうにニヤリと笑った。


映像の撮影が終わると、続いて佐伯によるポスター撮影が始まった。

二人は川辺に並び、それぞれ時花の瓶を手に持つ。

背後には、大輪の桃色の花火が映し出されていた。


「葵さんは、少しだけ紗江さんの方へ顔を向けて」

佐伯が指示を出す。

葵は言われたとおり、紗江へ顔を向けた。

「少しだけでいいと言ったんだが……」

佐伯が小さく呟く。


葵の瞳には、もう紗江しか映っていなかった。

その視線に気づき、紗江の頬が再び赤くなる。

佐伯は何度もシャッターを切った。


「紗江さん、無理に笑わなくていい。そのままで」

「そのまま、ですか?」

「ああ。葵さんを見て」

紗江が、そっと葵を見上げる。

二人の視線が重なった。

その瞬間、佐伯はシャッターを切った。


夜空に咲く桃色の花火。

手にした淡い桃霞色の時花。

互いを見つめる、浴衣姿の二人。


「……撮れた」

佐伯は、ゆっくりとカメラを下ろした。

「これが、今回の一枚だ」


画面を覗き込んだ香織が、言葉を失う。

そこには、遠い時を越えて巡り合った二人の、互いを慈しむ姿が映っていた。


撮影は、予定よりもずっと早く終わった。

着替えのためにセットを離れる前、紗江はもう一度、夏祭りの風景を振り返った。

提灯の明かりはまだ灯り、夜空には花火が繰り返し咲いている。


「皆さんにも、この花火を見せてあげたかったですね」

紗江が、ぽつりと呟いた。

「ああ」

葵も、夜空に咲く花火を見上げた。

その脳裏に浮かんだのは、江戸に残してきた者たちの顔だった。


二人が令和で初めて仕事をする姿を見たなら、皆はどのような顔をしただろう。

驚くだろうか。

笑うだろうか。

それとも、無事に生きている二人を見て、泣いてくれるだろうか。


「皆にも、今の私たちを見せてやりたかったな」

「……はい」


二人はしばらくの間、江戸の夜にも届くことを願うように、繰り返し咲く花火を見つめていた。

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