第4章 第62話 仕事との縁
翌朝、葵は、まだ辺りが薄暗いうちに目を覚ました。
壁に掛けられた時計の針は、五時半を指している。
江戸にいた頃から、夜明け前に起きるのが習慣だった。朝稽古をする必要がなくなっても、長年、身体に染みついたものまでは変わらないらしい。
すぐそばでは、紗江が静かな寝息を立てている。
葵はその寝顔をしばらく見つめたのち、起こさぬよう、そっと身を起こした。
昨日買った白いTシャツと黒いパンツを身につけ、その上から濃紺のシャツを羽織る。
着物とは勝手が違うものの、紗江に教わった手順は覚えていた。
机の上に短い書き置きを残し、紗江から預かっていた鍵を持って部屋を出た。
初音荘の外へ出ると、空はようやく白み始めたところだった。
昼間は大勢の人や車が行き交う町も、この刻にはまだ静かだった。時折、車が走り過ぎ、その音もすぐに遠ざかっていく。
昨日、紗江と歩いた道は覚えている。
葵は迷うことなく、杜宮神社へ向かった。
やがて大きな鳥居が見えてくると、葵は僅かに歩みを緩めた。
鳥居をくぐり、深い杜の中へ入る。
朝露に濡れた木々の間から、柔らかな光が差し込んでいた。鳥のさえずりと、砂利を踏む自分の足音だけが聞こえている。
ここには、江戸の朝に似た静けさがあった。
葵は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
見知らぬものばかりの町で、知らず知らずのうちに気を張っていたのかもしれない。
木々に囲まれていると、ようやく肩の力が抜ける気がした。
参道を進んでいくと、白衣に袴を身につけた神職が、竹箒で落ち葉を掃いていた。
昨日、言葉を交わした男だった。
葵に気づいた神職は、箒を持つ手を止めた。
「おはようございます」
「昨日は世話になった。礼を申す」
「随分、印象が変わりましたね」
神職は、葵の洋服と短くなった髪へ目を向けた。
「昨日、紗江が整えてくれた」
「よくお似合いですよ」
「そうか」
葵が僅かに口元を緩めると、神職も穏やかに微笑んだ。
「今日は、お一人ですか?」
「ああ。紗江はまだ眠っている」
「朝のお散歩ですか?」
「ああ。……少し、考えたいこともあってな」
「何か、お悩みですか?」
葵はすぐには答えなかった。
昨日、初めて会ったばかりの相手である。名も知らず、自分の身の上を明かしたわけでもない。
それでも、こちらの言葉を急かさずに待つ神職を前にすると、不思議と話してみようという気になった。
「一つ、聞いてもよいか」
「はい。私に分かることでしたら」
「男がおなごに暮らしを支えてもらうことを、どう思われる」
神職は僅かに目を瞬いた。
「暮らしを支えてもらう、ですか?」
「ああ。衣も食事も用意してもらい、暮らしに必要な物まで買ってもらっている。されど、私の方は、何もしてやれておらぬ」
葵は、自分が身につけている洋服へ目を落とした。
これも、紗江が選び、紗江の金で買った物だ。
「そのことが、気になるのですね」
「ああ」
葵は静かに頷いた。
「男と女のどちらが支えるべきだと、決まっているわけではありません。事情がある時には、助け合って暮らすことも珍しくありませんよ」
「助け合う……」
「はい。今は、その方に助けてもらう時なのではありませんか?」
「それは、ありがたく思っている。だが、いつまでも頼ってばかりではいられぬ」
神職は葵の言葉を受け止めるように頷き、静かに尋ねた。
「こちらでの暮らしは、まだ始められたばかりなのですか?」
「ああ。こちらへ来たのは、一昨日だ」
「一昨日……。それでは、まだ戸惑うことも多いでしょう」
神職は、葵が長く外国で暮らし、日本へ戻ってきたばかりなのだろうと思った。
古風な言葉遣いも、日本の暮らしに不慣れな様子も、それならば納得できる。
「何か、お仕事をお探しですか?」
「ああ。私にもできる仕事があるのなら、働きたい」
「これまでは、どのようなお仕事を?」
葵は僅かに考えた。
将軍家に仕える旗本として、御前に侍り、政の内々に関わる務めを果たしてきた。刀を手に、人を守ることもあった。
だが、その務めをこの令和でどう説明すればよいのか、分からなかった。
「人を守ることや、政に関わる務めをしていた」
「人を守って、政治にも……。外国で公務に就かれていたのですか?」
何を指して「公務」と呼ぶのか、葵にははっきりとは分からなかった。
それでも、自分が果たしてきた務めと、大きく違ってはいないように思えた。
「そのようなものだ」
「そうでしたか」
神職は、それ以上詳しく尋ねなかった。
「仕事は、探せばすぐに見つかるとは限りません。けれど、人との出会いから、思いがけず道が開けることもあります」
「人との出会いから……」
「ええ。まずは、こちらの暮らしに慣れながら、ご自分にできることを探してみてください。その中で、仕事につながるご縁に出会うこともあるでしょう」
「仕事との縁か」
「はい」
神職は穏やかに頷いた。
葵は、その言葉を胸の内で繰り返した。
何ができるのかは、まだ分からない。
それでも、紗江に頼るばかりではなく、自分にもできることを探したい。
「話を聞いてくださり、感謝する」
葵は深く頭を下げた。
「少しでも、お役に立てたのなら何よりです」
「ああ。少し、進むべき道が見えた」
葵はもう一度一礼すると、来た道を戻った。
初音荘へ帰ると、紗江はすでに目を覚まし、出かける支度をしていた。
机の上には、葵の朝餉と、昼餉のために用意された弁当が置かれていた。
「お帰りなさい、葵様」
「書き置きは読んだか」
「はい。でも、お一人で出かけられたので、心配していたんです」
「昨日の道をたどり、杜宮神社へ行ってきた」
「道に迷われませんでしたか?」
「ああ。一度通った道は覚えている」
紗江はほっと息をついた。
足元では、クロも金色の瞳で葵を見上げている。
「次からは、起こしてくださいね」
「よく眠っていたゆえ、起こすのは忍びなかった」
「それでもです」
紗江が少しだけ頬を膨らませる。
葵は困ったように、その顔を見つめた。
「……紗江。そのような顔をされると、私はどうすればよい」
「起こしてくださればいいんです」
きっぱりと言い返してから、紗江は思わず笑ってしまった。
葵も、その笑顔にようやく表情を和らげた。
「分かった。次からは、必ず声をかけよう」
「はい。約束ですよ」
紗江は微笑むと、机の上へ目を向けた。
「葵様、私、今日はアルバイトがあるんです」
「あるばいと?」
「仕事のことです」
「お前は、学び舎へ通いながら働いているのか」
「はい。本当は、まだ葵様をお一人にしたくないのですが……今日はどうしても休めなくて」
紗江は葵を案じるように見つめたあと、笑顔を見せた。
「でも、夕方には帰ります。朝ご飯と、お昼の分も用意しておきましたから」
「そうか」
葵は机の上の食事へ目を向けた。
自分が散歩へ出ている間に、用意してくれたのだろう。
仕事へ出かける前に、自分の食事まで気にかけてくれる。その心遣いが嬉しくもあり、申し訳なくもあった。
「朝の分は、今、召し上がってくださいね」
「ああ」
葵は紗江に促され、朝餉の前に座った。
「紗江。蒼馬が入れてくれた小判だが、こちらの暮らしに使うことはできぬのか」
紗江は支度の手を止め、葵を振り返った。
「そのままお店で使うことはできませんが、今のお金に換えることはできると思います」
紗江は葵を安心させるように微笑んだ。
「私にも少しは蓄えがありますから、心配しないでくださいね。江戸では、私が葵様にお世話になっておりましたから。今度は、私にもお世話をさせてください」
葵は紗江を見つめた。
江戸で自分がそうしたように、紗江もまた、慣れぬ場所に来た自分を支えようとしてくれているのだ。
「……そうか。では、しばし甘えさせてもらおう」
紗江は嬉しそうに頷いた。
葵が朝餉を食べている間、紗江は鏡の前で髪を一つに束ね、出かける支度を整えていた。
食事を終えた葵は、鞄を手に取る紗江へ目を向けた。
今は、紗江の厚意に甘えよう。
だが、いつまでも何もせずにいるつもりはなかった。
小判を今の金に換えることができたとしても、これからの暮らしは、自分の手でも支えていきたい。
紗江が学び舎へ通い、働くこの令和で、自分にもできることを見つけよう。
「私も行こう」
「え?」
「仕事場まで送る」
「でも、帰りは夕方になりますよ」
「道を覚えれば、一人で戻れる。夕刻、また迎えに来よう」
「送り迎えをしてくださるんですか?」
「ああ。嫌か?」
「いいえ」
紗江は嬉しそうに微笑んだ。
「葵様と一緒に歩けるのなら、嬉しいです」
「ならば、決まりだ」
葵も僅かに口元を緩めた。
「それに、お前を一人で行かせる方が落ち着かぬ」
「では、お願いします」
二人は自然に手を取り合い、並んで初音荘を出た。
紗江のアルバイト先は、初音荘から歩いて十分ほどの場所にあるコンビニだった。
店の前へ着くと、紗江は足を止めた。
「ここで働いているんです」
葵は硝子の向こうへ目を向けた。
明るい店内には、食べ物から日用品まで、所狭しと品物が並んでいる。
「この店は、いつまで開いている」
「ずっとです」
「ずっと?」
「はい。二十四時間、一日中開いているんですよ」
葵は驚いたように紗江を見た。
「夜中もか」
「夜中もです」
「この時代の者たちは、皆、働き者なのだな。感服いたす」
紗江は微笑んだ。
「でも、同じ人がずっと働いているわけではありません。時間を決めて、交替するんです」
「なるほど」
葵は再び店内へ目を向けた。
棚の間を行き来し、品物を並べている者がいる。紗江も、ここでこうして働くのだ。
「私にもできる仕事が、あるとよいのだが」
「一緒に探しましょう。葵様にできるお仕事」
紗江はそう言うと、時計を確かめた。
「そろそろ行かないと。葵様、帰り道は分かりますか?」
「ああ」
「仕事は、夕七つ頃に終わります。こちらの時計では、四時です」
「分かった。その刻に迎えに来る」
「はい。お待ちしています」
「ああ。励め」
「はい。行ってきます」
自動扉が開き、紗江が店内へ入っていく。
葵は、紗江が店の奥へ姿を消すまで見届けてから、初音荘へ戻った。
その日の夕刻、葵は約束した刻より少し早く、コンビニへ着いた。
硝子越しに店内を見ると、制服姿の紗江が棚の品物を整えていた。
客に声をかけられると笑顔で応じ、探している物が見つからない者を売り場まで案内している。
葵は、その姿を目で追った。
江戸へ来たばかりの頃も、紗江は慣れない場所で懸命に働き、誰かのために力を尽くしていた。
時代が変わっても、紗江は変わらない。
葵の口元が、知らず緩んだ。
その時だった。
一人の女性が、コンビニへ向かって歩いてきた。
きちんとした身なりの女性は、鞄を腕にかけたまま、葵の前を通り過ぎようとして――不意に足を止めた。
「あら……」
女性は驚いたように葵を見つめた。
「あの時の方ですよね?」
葵にも、その顔には見覚えがあった。
紗江と令和で再会したあの日、二人に広告の仕事をしないかと声をかけてきた女性だった。
「先日、広告のお仕事のことで、お声をかけた者です」
「ああ。覚えている」
女性の顔に、明るい笑みが広がった。
「またお会いできるなんて。ご一緒だった方は……」
店内へ目を向けた女性は、制服姿の紗江に気づいた。
「こちらで働いていらっしゃるのですね」
「ああ。もうすぐ仕事が終わる。それを待っている」
「そうでしたか」
女性は、もう一度葵へ向き直った。
「実は、あのあとも、お二人のことが忘れられなかったんです」
「私たちを?」
「はい。今、探しているイメージに、これほどふさわしい方はほかにいないと思っています」
葵は、女性の顔を見つめた。
「それは、先日の仕事の話か」
「ええ。もしよろしければ、もう一度、お二人にお話しさせていただけませんか?」
今朝、神職から聞いた言葉が、葵の胸によみがえる。
――人との出会いから、思いがけず道が開けることもあります。
その時、コンビニの自動扉が開いた。
「葵様、お待たせしました」
仕事を終えた紗江が、店から出てくる。
葵の傍らに立つ女性を見て、足を止めた。
「あ……」
「先日はどうも。またお会いできて、嬉しいです」
女性は笑顔で会釈した。
「高瀬プロモーションの、高瀬香織です」
「先日は、お名刺をありがとうございました」
紗江は、名刺に記されていた会社名を思い出した。
「芸能関係のお仕事をされているんですか?」
「はい。小さな事務所ですが、俳優やモデルのマネジメントをしています」
「どうして、こちらに……」
「買い物に立ち寄ったところ、お見かけしたんです。本当に偶然ですよ」
香織は二人を交互に見つめた。
「私自身、以前は広告制作会社で、CMの出演者を探す仕事をしていました。今回、知り合いの広告会社から、新しい商品のCMに合う人を探してほしいと相談されているんです」
「それで、私たちに?」
「はい。ぜひ、お二人を候補として推薦したくて」
紗江は戸惑いながら、葵と顔を見合わせた。
「でも、私たちは芸能人でも、モデルでもありません」
「ええ、承知しています。まずは広告会社の担当者に、お二人と会っていただきたいんです」
「お会いするだけ、ということですか?」
「はい。その場で出演が決まるわけではありません。お二人にも、詳しい内容を聞いてから考えていただければと思っています」
紗江は傍らの葵を見た。
葵は黙って、二人のやり取りを聞いている。
「どのような商品の広告なんですか?」
「ビール会社が新しく発売する、ノンアルコールビールのCMです」
「びいる?」
葵が首を傾げた。
香織は説明を続けようとしたが、不意に腕時計へ目を落とした。
「少し、お待ちいただけますか?」
二人から少し離れ、鞄から携帯電話を取り出す。
「もしもし、高瀬です。まだ撮影中?」
車の走る音に紛れ、二人のところまでは、途切れ途切れにしか聞こえてこない。
「そう。例の新商品のCMを担当している方も、まだそちらにいる? カメラマンの佐伯さんも?」
香織は電話の向こうの返事を聞き、二人を振り返った。
「ええ。見つけたの」
その顔に、明るい笑みが浮かぶ。
「これから、お二人に現場を見てもらえないかと思って。……ええ。伺えるようなら、また連絡するわ」
電話を切ると、香織は二人のもとへ戻ってきた。
「この近くで、同じビール会社の別の広告を撮影しているんです。そこに、今回のCMの担当者と、カメラマンもいらっしゃるそうです」
「今からですか?」
紗江が戸惑ったように尋ねた。
「ええ。急なお話で申し訳ありません。もしお時間があれば、撮影現場を見てみませんか? 見学だけでも構いませんし、その場でお返事をいただく必要もありません」
紗江は、葵と顔を見合わせた。
葵には、広告が何なのかも、CMがどのようなものなのかも、まだよく分からない。
それでも、実際に仕事をしているところを見れば、何か分かるかもしれないと思った。
「私は、見てみたい」
「葵様、本当に行ってみたいのですか?」
「ああ。どのような仕事なのか、この目で見てみたい」
葵は紗江を見つめた。
「今朝、杜宮神社で会った神職に言われたのだ。人との出会いから、仕事につながる縁が生まれることもある、と」
「それで、見に行こうと?」
「ああ。これも、その縁かもしれぬ。だが、私には分からぬことが多い。お前も一緒に来てくれるか」
紗江は少し考えてから、香織へ向き直った。
「撮影場所は、ここから近いんですか?」
「はい。歩いて十分ほどです」
「では、今日は見学だけでもよろしいですか?」
「もちろんです。ご覧になって、気になることがあれば何でも聞いてください」
紗江は葵を振り返った。
「葵様がいらっしゃるなら、私もご一緒します」
「よいのか」
「はい。どんなお仕事なのか、一緒に確かめましょう」
葵の表情が和らいだ。
「では、共に行こう」
「はい」
二人の返事を聞き、香織は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。では、先ほどの方に連絡しますね」
香織は少し離れたところで、再び電話をかけた。
二人を案内すると短く伝え、電話を切る。
振り返ると、葵と紗江が何か言葉を交わしていた。
葵を見上げる紗江の表情には、まだ戸惑いが残っている。それでも、葵が静かに頷くと、その顔に微かな笑みが浮かんだ。
初めて二人を見た時から、強く心を惹かれていた。
だが、こうして間近で接すると、その理由が少し分かる気がした。
人目を引く美しさだけではない。
言葉を交わす時の眼差しや、互いの返事を待つ僅かな間に、相手を大切に思う気持ちが滲んでいる。
この二人が、カメラの前に並んだら。
香織は、胸が高鳴るのを感じた。
広告会社の担当者や、カメラマンの佐伯が二人を見た時、どのような顔をするだろう。
早く会わせたい。どんな表情を写し取れるのか、自分も見てみたい。
けれど、紗江が何度も話を確かめていたことも、忘れてはならなかった。
二人にとっては、何もかもが初めてなのだ。
急かさず、納得して選んでもらおう。
二人が持つものを損なうことなく、その魅力を伝える手助けができたら。
香織は逸る気持ちを落ち着かせ、二人のもとへ戻った。
「お待たせしました。では、ご案内します」
葵と紗江は頷き、香織のあとに続いた。
並んで歩き始めた二人の手が、自然に重なる。
それが二人の人生を大きく変える一歩になることを、この時の紗江と葵はまだ知らなかった。




